日本宰相列伝

日本宰相列伝

歴代内閣総理大臣のエピソードを描いたオムニバス短編漫画。

正式名称
日本宰相列伝
ふりがな
にほんさいしょうれつでん
作者
ジャンル
政治家・政界
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概要・あらすじ

日本の内閣総理大臣のエピソードを描くオムニバス形式の伝記短編漫画。実在の内閣総理大臣のエピソードだが、事実をもとにしたフィクションと明記されている。宰相とは内閣総理大臣の別称。原作:よつや文、作画:原田久仁信。

登場人物・キャラクター

伊藤 博文

コチコチの攘夷論者だったが、英国留学で考えが変わり、日本の攘夷は無謀だと説いていく。初代の内閣総理大臣を務め、以後5代、7代、10代の内閣総理大臣となる。歴史上の実在の人物である伊藤博文がモデル。

吉田 茂

1878年9月22日生まれ。敗戦後、外相としてマッカーサー元帥相手に毅然とした態度で交渉をした。また、アメリカのダレスからの日本再軍備要請についても、マッカーサー元帥を味方にして断る。第45代、第48代、第49代、第50代、第51代の内閣総理大臣。歴史上の実在の人物である吉田茂がモデル。

犬養 毅

陸軍による満州国建設に反対していた犬養毅は、総理公邸で陸軍・海軍の青年将校によって撃たれた。世に言う五・一五事件であった。第29代の内閣総理大臣。歴史上の実在の人物である犬養毅がモデル。

山県 有朋

山県有朋は、槍の腕一本で世に出ることを夢見ていた。長州軍として幕府と戦うも大けがにあう。その後、武人として突き進んだ山県有朋は軍隊の整備、天皇制を軸とした絶対主義体制を確立するのだった。第3代、第9代の内閣総理大臣。歴史上の実在の人物である山県有朋がモデル。

田中 角栄

27歳の若さで東京飯田橋に土建会社を経営していた田中角栄は、進歩党の大麻に誘われ、衆議院総選挙へ出馬。「若きちの叫び」をスローガンに選挙戦に挑むも落選してしまう。翌年には、、人任せの選挙運動をやめて、新潟に自分の会社の支店を設立、百人の社員を動かして29歳で衆議院に当選を果たした。 1972年には54歳で第64代内閣総理大臣となる。これは戦後最年少の記録となっている。歴史上の実在の人物である田中角栄がモデル。

浜口 雄幸

1929年(昭和4年)、田中義一を首班とする政友会内閣が倒れ、民政党に政権は移った。民政党総裁(内閣総理大臣)、浜口雄幸は、景気回復安定させるために、金解禁(金の輸出解禁で、金本位制にすること)を目標に、次々と政策を行っていた。金解禁は成ったが、浜口雄幸は東京駅で軍縮反対派に撃たれるのだった。 第27代内閣総理大臣。歴史上の実在の人物である浜口雄幸がモデル。

岡田 啓介

1936年(昭和11年)2月26日、首相官邸が襲われた。だが、亡くなったのは岡田啓介の義弟・松尾伝蔵であった。生き延びた岡田啓介は、蹶起部隊に追われていく。第31代内閣総理大臣。歴史上の実在の人物である岡田啓介がモデル。

黒田 清隆

1869年(明治2年)5月11日。日本独立を宣言し、北海道、箱館(現在の函館)の五稜郭に立てこもった榎本武揚ひきる旧幕府の生き残りを掃討すべく、黒田清隆を参謀とした新政府軍は総攻撃を開始していた。黒田清隆は敵を降伏させるために、自ら五稜郭へと出向き、無血開城を成し遂げるのだった。 第2代内閣総理大臣。歴史上の実在の人物である黒田清隆がモデル。

佐藤 栄作

明治34年に造り酒屋で生まれた。3人兄弟の末で、次男の信介は、のちの総理大臣となる岸信介。信介は同じ町内の岸家に養子に入ったため、苗字が岸となっていた。幼少より兄・岸伸介と比較される生活だったが、1964年(昭和39年)に首相の座に座ることとなる。 以後、8年という長期政権を継続した。第61代、第62代、第63代内閣総理大臣。歴史上の実在の人物である佐藤栄作がモデル。

田中 義一

日清戦争に勝利したばかりの日本は朝鮮だけでなく、中国にも侵略しようとしていた。一方、ロシアも中国・朝鮮を支配すべく動き出していた。陸軍参謀本部にいた田中義一は、スパイとしてロシアへ派遣され、この地で革命を起こさせるため、レーニンと秘密裏に会う。 日露戦争は、革命軍との統一戦線で日本の勝利となったのだった。第26代内閣総理大臣。歴史上の実在の人物である田中義一がモデル。

大隈 重信

明治14年の政変で、大隈重信は官職を辞任。学校作りに情熱を傾け、明治15年には東京専門学校(のちの早稲田大学)を創設。政府にいる彼の反対派は大隈重信は私兵を養成すると思い、密偵を生徒として入学させるのだった。政府の妨害工作は続き、そのような最中に爆弾により右足を失ったが、明治31年には板垣退助と最初の政党内閣を組織、総理大臣になるのだった。 第8代、第17代内閣総理大臣。歴史上の実在の人物である大隈重信がモデル。

東条 英機

1932年(昭和7年)、日本は満州国を建国し、全中国を侵略しようとしていた。東条英機中将は、内蒙古まで進軍しようとするが、石原莞爾少将の反対にあっていた。関東軍司令部司令官兼駐満大使の植田謙吉大将より、内蒙古進撃については東条英機自ら指揮を取れと言われ、先頭にたって出撃する。 編成部隊は約2万。1941年(昭和16年)には、太平洋戦争を開戦するのだった。第40代内閣総理大臣。歴史上の実在の人物である東条英機がモデル。

広田 弘穀

第二次世界大戦における日本の戦争責任を問う極東軍事裁判(通称・東京裁判)は、昭和20年9月11日の第一次戦犯指名より、刑の執行まで3年あまりが費やされた。広田弘毅元首相は、第三次の戦犯指名を受け、巣鴨拘置所へと入った。連合軍は彼尾大物と思っていてA級戦犯とされていた。 一切弁明をしないと決めた広田弘毅は、裁判結果の絞首刑を受けるのだった。第32代内閣総理大臣。歴史上の実在の人物である広田弘毅がモデル。

岸 信介

1932年(昭和7年)、日本は関東軍の指導のもとに満州国を建国。「満州産業開発五ヵ年計画」を立案、満州の産業、経済の復興に着手していた。岸信介の改革案は成功をおさめていった。現地人を人と思わない考えで、陸軍を動かして成功させてきたのだった。そして、戦後の1960年(昭和35年)には、日米安全保障条約の改定をめぐった各地でのデモに、岸信介はおびえるのだった。 第56代、第57代内閣総理大臣。歴史上の実在の人物である岸信介がモデル。

大平 正芳

1962年(昭和37年)、大平正芳の息子、正樹は、旅先のウィーンで突如歩行困難となり、関節に炎症を起こす奇病に襲われた。当時、不治の病とされたベーチェット病で、1964年に他界した。「パパが総理大臣になった夢を見た」という息子の言葉を心に刻み、大平正芳は総理になるために田中角栄に近づくのだった。 第68代、第69代内閣総理大臣。歴史上の実在の人物である大平正芳がモデル。

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