概要・あらすじ
時は戦国時代。貧しい農村に生まれ育った少女ハルナの家を、戦のどさくさに紛れて略奪を繰り返す武士の一段が襲撃。ハルナは彼らから暴行を受けるだけでなく、家族を皆殺しにされてしまう。武士らが寝ている隙に金を盗んで逃走したハルナは、自らの手で仇を討つため、当代随一と名高い新陰流の道場を訪問。
そこで見かけた新陰流の高弟である疋田文五郎に無理矢理弟子入りしてしまう。疋田の指導のもとで剣の腕を磨いていたある日、ハルナが逗留している長野家の領地に武田信玄が攻め寄せてきた。合戦の混乱の中で、ついにハルナは敵勢の中に仇である武士の頭目を発見する。
登場人物・キャラクター
ハルナ
小さな農村で生まれ育った少女。家族を殺して自分を陵辱した武士に自らの手で復讐するため、「甘楽春之介」と名乗り、男装で上泉伊勢守秀綱の道場を訪れる。そして、そこで見かけた若いが腕の立つ剣法家疋田文五郎に弟子入り。軽く手合わせした疋田の指導の元、短期間でメキメキと剣の腕が上達したところからも、もともと剣術の才能はあったものと思われる。
疋田 文五郎 (ひきた ぶんごろう)
天下一の剣聖として名高い新陰流の開祖上泉伊勢守秀綱の甥にして高弟。27歳という若さながら、師である#伊勢守も認めるほどの腕前を持つ。伊勢守が木刀に代わって考案した「撓(竹刀)」を使って、ハルナに稽古をつける。武田信玄との合戦後も生き残り、後に新陰流の分派である疋田陰流の祖となった。 立ち会う際に「その構えは悪し」と評してから打ち込むのが特徴。同時代の実在人物疋田文五郎がモデルとなっている。
上泉伊勢 守秀綱 (かみいずみいせ の かみひでつな)
新陰流の開祖であり、当代きっての剣聖と名高い剣法家。年齢は50代に差し掛かっているが、その腕前はいまだ衰えていない。武田信玄との合戦においては自ら先頭に立ち、十文字槍を振るって幾重にも包囲している兵たちを切り伏せ、囲みを突破した。同時代の実在人物上泉伊勢守秀綱がモデルとなっている。
神後 宗治 (じんご むねはる)
疋田文五郎と並ぶ新陰流の高弟。屈強な弟子たちも震え上がるほどの大声の持ち主。剣術の実力も相当なもので、幾重にも包囲している武田信玄の軍勢を相手に二刀流で応戦。その囲みを突破して生き延びている。同時代の実在人物神後宗治がモデルとなっている。
与吉 (よきち)
『剣の舞』の登場人物で、ハルナと同郷の若者。復讐の旅に出たハルナを追いかけて旅をしており、新陰流の道場にまでたどり着いた。ハルナのことを心から心配しており、武田信玄の手勢が城を取り囲んだ際も、逃げ出さずにハルナに付き添っていた。
十郎左 (じゅうろうざ)
ハルナの家を襲撃した武士団の頭目で、鳥居型の飾りが逆さに付いた兜を身につけている。武田信玄の家臣である小幡上総介の手勢だが、戦の混乱の中で野党まがいの略奪行為にも手を染めている。捕らえたハルナを暴行し、さらにその家族を皆殺しにした。
柳生 新左衛門宗厳 (やぎゅう しんざえもんむねよし)
畿内随一と謳われる新当流の当主。武田信玄の包囲を破った上泉伊勢守秀綱と木刀での試合に臨むため、彼らが逗留している奈良の宝蔵院を訪れる。まず弟子の#疋田と立ち会ったが、3本中3本を取られて完敗。その後すぐに新陰流に弟子入りして腕を磨くこととなった。後に柳生新陰流の開祖となり、柳生石舟斎と称するようになる。 同時代の実在人物柳生新左衛門宗厳がモデルとなっている。
長野 業正 (ながの なりまさ)
上泉伊勢守秀綱が仕えていた人物で、上野国箕輪城の主。家臣からは「大殿」と呼ばれている。作中ではすでに死去しているが戦上手で知られており、武田信玄は業正の存命中は上野に侵攻することができなかった。同時代の実在人物長野業正がモデルとなっている。
小幡 上総介 (おばた かずさのすけ)
武田信玄の新参の家臣で箕輪城攻略戦の先鋒を務めた。圧倒的な兵力を背景に城内の敵に向かって降伏を呼びかけるも、結局は合戦が巻き起こる。同時代の実在人物小幡信貞がモデルとなっている。
宝蔵院 胤栄 (ほうぞういん いんえい)
宝蔵院の院主で、疋田文五郎と柳生新左衛門宗厳が宝蔵院で試合をした際、立会人を務めた。僧侶ではあるが槍の名手で、宝蔵院流槍術の開祖である。作中では描かれていないが、後に宗厳と共に上泉伊勢守秀綱に弟子入りした。同時代の実在人物宝蔵院胤栄がモデルとなっている。
大場 八十衛門 (おおば やそえもん)
武田信玄家臣内藤修理の部下。包囲する兵と戦って疲れ切った疋田文五郎を相手に、名乗りを上げて一騎打ちを挑んだ。しかし、疋田が放った一撃で脳天から股間まで真っ二つにされてしまう。
場所
上野国 (こうずけのくに)
現在の群馬県にあたる。戦国時代において、長野氏が治めていた。
箕輪城 (みのわじょう)
長野氏の長野業尚によって上野国に築かれた城。武田信玄の侵攻に際して、上泉伊勢守秀綱らがこの城で応戦したが、結局は攻撃を支えきれずに落城した。