秦

登場作品
キングダム(漫画)
正式名称
ふりがな
しん
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概要

中華西方の弱小国家だったが紀元前221年、始皇帝・嬴政が戦国の世を制し史上初めて中国を統一した。強大なの基盤を築いたのは始皇帝・嬴政が生まれる100年近く前の商鞅(しょうおう)であった。商鞅は秦を中央集権化させるため、数々の改革を実施した。画期的な改革は郡県制で、これにより国内各地の権力者たちは力を失うこととなる。郡県制は各地域に「県」を置き、他国に侵攻し手に入れた地域には「郡」を置く。これらの「県」や「郡」には、中央から知事として官僚を派遣し地方行政を仕切らせた。官僚は国王の命令にのみ従うため、国王の権力が秦の隅々までいきわたり、税金の徴収や徴兵が進み、国力が飛躍的に高まることとなった。また商鞅は、農業の収穫量を激増させるため広大な荒れ地を開拓し田を増やし、税制、土地制度の大改革も実施した。さらに徹底的な富国強兵を図り、世襲の特権を廃止するとともに、農民であっても武勲を上げれば重用すると決断。

戦国時代末期の儒家・荀子によると、「秦は民の生活に厳しい制限を与え酷使する一方で、恩賞で手なずけている。民が利を得るには戦闘以外に方法がないようにした」と評している。秦は厳しい刑罰と恩賞を決めることで、国全体を軍事組織化し、農民たちを自発的に戦闘に参加させ兵士の数と質を高め、強大な国家となっていく。大将軍になることを夢見て戦場で活躍するも、まさにこの典型例と言える。秦が強国へのし上がる基盤が完成した時に、第31代秦王・嬴政が登場し、次々と列国を滅亡させていく。この時代が『キングダム』の舞台となる。

秦王・嬴政は紀元前230年にを滅ぼし、次はを紀元前228年に滅亡させる。は秦王・嬴政の暗殺を狙うが失敗し、紀元前226年に燕の都・薊が陥落。秦はにも侵攻し、紀元前225年に魏の都・大梁を水攻めにより陥落させ滅亡させる。南方のに秦は一度大敗するが、これも紀元前223年には滅ぼしている。紀元前222年には、国都が陥落し衰亡していた燕と趙を完全に滅亡させる。も紀元前221年には秦に全面降伏し、ついに秦の中華統一が成立する。

中国を統一した始皇帝・嬴政は、さらなる中央集権化のため、統一事業へ動き出す。最初に行ったのが王号に代え、皇帝号を採用することだった。今後この呼称は始皇帝から始まり、万世に及ぶものとした。始皇帝・嬴政の政権組織は始皇帝の直下に行政・軍事・監察の長、「三公」を置き、その下に「九卿」が置かれるという中央集権体制となった。全国を36郡に分け、その長官を中央が任命する郡県制を採用し、王を各地に配属する世襲の封建制度を廃止した。さらに武器の没収、首都・咸陽から放射状に伸びる道路も整備。統一貨幣として半両銭(はんりょうせん)を鋳造し、小篆(しょうてん)で文字を統一。度量衡や車輪の幅までも統一していく。思想統制としては焚書坑儒(農業、医薬、占い以外の書物を焼き捨て、儒学者500人近くを生き埋め)を実施する。これは儒学思想の「国は、統一させようとするから争いが起こる。国内はバラバラであった方がいい。」を封じるためだった。これらの貨幣、単位等の統一により、交通・商業・経済が著しく発展し、制度や法も全国一律に発布されるようになった。

また北方から秦を脅かしていた匈奴の侵入を防ぐ為に、秦、趙、燕に元々あった長城を連ねて万里の長城を築き上げた。当時の万里の長城は山間部は石を積み上げ、平地は土を固めた簡単なものだった。今のレンガ造りの長城は、明の時代(15世紀~16世紀ごろ)に完成した。始皇帝・嬴政の万里の長城建設の大工事は、農民への負担が大きく不満が反乱を呼び、秦衰亡のきっかけにとなったと言われている。急激な改革による厳罰を伴う苛烈な圧政が、農民を苦しめた結果でもある。始皇帝・嬴政は交通網の整備と同時に、不老不死の霊薬探しを始めていく。しかし肝心の不老不死の霊薬は見つからず、前210年、5回目の巡幸の最中に病気となり、50歳で死亡する。

始皇帝・嬴政の後を継ぎ皇帝となったのは末子の胡亥であったが、[宦官]に操られ、秦王朝は急速に衰えていく。始皇帝・嬴政の死後も大規模な工事は続き、全土から農民らが徴集された。陳勝(ちんしょう)と呉広(ごこう)は北方警備を命ぜられた農民部隊の隊長だったが、大雨で足止めされ期限までに、目的地へ辿りつけなかった。この罪は斬罪にあたるため、やむなく陳勝と呉広は反乱を起こす。この乱がきっかけで秦全土に反乱が広がり、呉では項梁と項羽(こうう)、沛では劉邦(りゅうほう)が決起し、旧戦国6雄が独立し秦は再び群雄割拠の時代となる。陳勝・呉広の乱は秦により平定されていったが、その後混乱の中から頭角を現してくるのが、劉邦と項羽である。項羽は破竹の勢いで秦軍を圧倒し、劉邦は知略で秦軍を打ち破る。秦では宦官の趙高が皇帝胡亥に責任を負わせ自害させ、甥の子嬰を三世皇帝ではなく、秦王として擁立。秦王は劉邦に玉璽と符節を渡して降伏し、紀元前206年に秦王朝はわずか15年で滅亡した。秦の首都・咸陽を蹂躙した項羽は子嬰を処刑し、財宝や宮女を略奪し阿房宮に火を放った。阿房宮は3か月にわたって燃え続け、ここに秦の終焉を告げることとなった。

関連人物・キャラクター

(しん)

黒髪を後ろで縛った目つきの鋭い少年。頑固で自分の意志を曲げない、強気な性格をしている。戦災孤児であり下僕の身分だったが、「天下の大将軍」になることを夢見て鍛錬を続けていた。「王弟の反乱」で窮地に陥った秦王・嬴政に助力したことで平民となり、戦場で武勲を重ね異例の出世を遂げていく。 底知れぬ武の天稟の持ち主であり、格上の強者との戦いを繰り返すことで、さらにその力を格段に飛躍させていく。「王弟の反乱」で知り合った秦王・嬴政とは、「迷いなく信を置ける戦友」として強いつながりを持っている。第一話冒頭で「李信」と呼ばれている通り、中国・戦国時代の秦の武将・李信をモデルに創作された人物。 血の気が多く、短気な性格で考える前に体が動くタイプ。動物的な勘と腕力の強さで自分独りの戦闘力だけを頼みの綱としていた。秦の六大将軍の王騎や名将たちと戦場をともにし、隊を率いるようになり戦局を見る目や臨機応変な戦い方をマスターする。「天下の大将軍」としての軍才を徐々に培っている。 昌文君から武功の恩賞として、土地と小屋を賜り下僕の立場から平民となった後は、初陣で戦果を挙げて百人将になり、対趙軍戦で王騎配下の特殊百人隊「飛信隊」の隊長に任命される。さらには王騎から矛を受け取り、その意思を継ぐものとなる。その後も功績が認められ、三百将に取り立てられる。魏軍との決戦では大功をたて、千人将へ昇格。対合従軍戦には、三千人将へ昇格という、まさに立身出世を体現していく。敗走に次ぐ敗走の時期も多々あったが、前向きにそれを乗り越えて「天下の大将軍」を目指し戦い抜いていく。

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(ちょう)

紀元前403年~紀元前228年まで存在。中華・戦国の七雄のひとつで首府は邯鄲。位置は中華の中央北部で、犬猿の仲の西の秦・東の燕に挟まれている。かつて軍の要だった趙の三大天がいなくなり弱体化した趙だったが、新たに趙の三大天に任命された李牧が、宰相としても国の中枢を担い勢いを取り戻した。伝統を誇る騎馬隊が精強。これは武霊王が紀元前307年、胡服騎射を取り入れたためである。胡服は北方遊牧民族のズボンに似た服のことで、当時の中国人の裾の長い服とは動きやすさに格段の差があった。戦車や馬に乗るには胡服が最適で、武霊王は北方遊牧民族騎馬兵の強さの理由は胡服にあると見抜いていた。趙の騎馬兵の圧倒的な力により趙は勢力を拡大していく。 武霊王は紀元前298年に譲位して子の恵文王が即位したが、恵文王と公子章の争いで幽閉され餓死。秦の攻勢が強まる中、藺相如や廉頗、趙奢等の勇猛な武将たちの力で趙は暫くの間持ちこたえる。しかし紀元前260年の長平の戦いで秦の将軍・白起に大敗。趙の兵士のうち戦死5万人、生き埋め40万人もの大虐殺を受けた。趙は滅亡寸前まで追いつめられる。秦軍が首都・邯鄲に迫るが、戦国四君のひとり、宰相・平原君が魏の信陵君、楚の春申君と手を組み、やっとの思いで秦軍を撃退した。幽穆王の時代には匈奴を破り国境線を死守した李牧が、秦軍の撃退に成功する。しかし、李牧が幽穆王に殺害されると紀元前228年、秦の王翦、羌瘣の軍の侵攻により邯鄲が陥落し、趙は滅亡する。

登場作品

キングダム

中国の戦国時代後期を舞台に、身分の低い戦災孤児ながら「天下の大将軍」を目指す少年・信と後の始皇帝、秦の若き王・嬴政が自らの運命を切り開いていく様を描く歴史漫画。サクセスストーリーであり、戦乱の歴史に翻... 関連ページ:キングダム

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