概要
史実では5次、10年にわたって行われた。朽木基綱は現代に培った歴史知識によって、史実のそれを不毛な戦だったと分析している。戦が行われた背景には耕作地が少ない甲斐という国土の抱える問題があり、さらに山国であるため天候不順による旱魃や冷害、洪水によってたびたび凶作に見舞われ、飢饉に襲われるという悪循環が背景にある。それにより、武田家は貧困の解決策として所領外に改善策を求めざるを得なかったが、南は東海道の覇者である今川家、東は関東の覇者である北条家が治めているため、自然とその目線は北の信濃に向けられたという事情がある。1559年に若年ながら武名を高めつつあった基綱に、長尾景虎が相談を求めた際には既に3次にわたって戦が行われており、その2年後である1561年の9月の頭に「第四次川中島の戦い」が行われた。この戦は両者が甚大な被害を出した戦いとして史実では知られており、特に景虎が武田信玄との一騎打ちを繰り広げたことが有名となっている。一方、現代から転生した基綱が存在する今世では、基綱の「死生命なく死中生あり」という助言をもとに、戦場となった川中島の背後にある妻女山に備えの兵を置いていない。これにより全軍での決戦に臨んだ上杉政虎(長尾景虎のこと)の決断によって、戦の結果は史実からがらりと変わり、武田家は2万の動員兵力のうち、5000近い戦死者を出している。また武田典厩、武田太郎、山本菅助をはじめとする名だたる武将に加え、当主である信玄も政虎との一騎打ちで片腕を断ち切られ、一時は両軍から討ち取られたと誤解されるほどの重傷を負った。一方の上杉家は動員した1万5000の兵力の内、戦死者は2000に満たない数となっており、武田家に比べて軽微な損害で戦を終えている。この大勝により北信濃の趨勢(すうせい)は史実とは大きく異なる形で激変すると共に、この時のケガが原因でのちに信玄は病没しており、今際の際の信玄が、上杉家へ基綱が助言したという噂から、それがなければと朽木家に対する恨み言を残してこの世を去ったため、信玄公亡きあとの家中に反朽木家の感情を残すこととなった。その一方、この戦の結果、信濃に所領を持っていた真田幸隆、室賀満正、芦田信守らが、武田家では将来の展望が見えないとして致仕すると、一族郎党を引き連れて朽木家へ仕官している。その際、基綱が外様である彼らを差別することなく厚遇したため、同様に武田家の将来に展望を見出せない家臣たちが朽木家を訪れる流れを作り出している。
登場作品
淡海乃海 水面が揺れる時 (あふみのうみ みなもがゆれるとき)
イスラーフィールの小説『淡海乃海 水面が揺れる時 ~三英傑に嫌われた不運な男、朽木基綱の逆襲~』のコミカライズ作品。現世では昭和生まれで歴史好きの50代のサラリーマンは、ある日、戦国時代の国人領主(こ... 関連ページ:淡海乃海 水面が揺れる時
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