淡海乃海 水面が揺れる時

淡海乃海 水面が揺れる時

イスラーフィールの小説『淡海乃海 水面が揺れる時 ~三英傑に嫌われた不運な男、朽木基綱の逆襲~』のコミカライズ作品。現世では昭和生まれで歴史好きの50代のサラリーマンは、ある日、戦国時代の国人領主(こくじんりょうしゅ)である朽木家の息子として転生し、わずか2歳で家督を継ぐこととなった。サラリーマンの男性が弱小領主の朽木基綱として生まれ変わり、戦国時代に名を馳(は)せていく姿を描いた大河ドラマ。各巻の巻末にはイスラーフィールの書き下ろし小説が掲載されている。

正式名称
淡海乃海 水面が揺れる時
ふりがな
あふみのうみ みなもがゆれるとき
原作者
イスラーフィール
漫画
ジャンル
戦国
 
転生
関連商品
Amazon 楽天

あらすじ

歴史好きで昭和生まれのサラリーマンは50代になった頃、最後になにかを残そうと考え、戦国時代にタイムスリップする歴史小説を書いて投稿サイトで投稿を始めた。あくまで自己満足で、適当に賛辞と批判を受けられればいいと考えていた矢先、サラリーマンは気がつくと戦国時代の赤子に転生していた。しばらく過ごすうちに、「竹若丸」と呼ばれる自分が、戦国武将の朽木基綱として産まれたのではないかとあたりをつけ、織田信長木下秀吉、徳川家康に仕えながらも評価の低い史実の元綱を思い、史実の知識がある自分ならばもっとうまく立ち回ることができると、この世界で生きる決心を固める。しかし、2歳となった竹若丸は、父親の朽木晴綱が戦で討ち死にしたとの報告を受ける。これにより、家督をわずか2歳で継ぐこととなった竹若丸は、当主を失って混乱する家臣を前に「にんげんごじゅうねん」と『敦盛』を唐突にうたうことで鎮めると、戦へ向けた準備を呼びかける。その様子を見ていた祖父の朽木稙綱は、朽木家の家督を継ぐ者は竹若丸をおいてほかにいないと確信を得て、彼を後見人として支えていく決意を決める。戦を乗り越えた竹若丸は、集まった家臣一同を前に稙綱へ自分が傀儡(かいらい)かを確認し、当主として好きにやってよいとの確約を得ると3年間、何も言わずに仕えよと告げ、8000石という狭い領内の改革に取りかかっていく。現世の知識によって真っ先に「澄み酒」を作り上げると、「椎茸」や「石鹼」「綿糸」の原料となる綿花の栽培など、さまざまな特産品を領内に産み出し、自らが掲げる「殖産興業」「富国強兵」という目標へ向けて前進を始めるのだった。そうして自領を富ませていく最中、戦に負けて京を追われた将軍の足利義藤岩神館で受け入れることが決まる。竹若丸が家督を継いだばかりの頃も逃げて来た義藤は、再び三好家との戦に敗れて朽木家へ逃げて来たのだ。朽木家は代々幕府に仕える忠義の家柄であり、京に近い立地もあってたびたび将軍の避難場所となる土地だった。前回はそれを利用して、周辺の国人領主たちから戦を仕掛けられることを回避し、敗戦によって弱っていた国力を回復させる時間を手に入れる。竹若丸は今回の避難によって、再び戦のない時間を手に入れ、領内の発展と軍の編成に時間を掛けられると判断する。戦国の世を生き残るためにも、まだまだやることはあると気持ちを新たにする竹若丸だったが、そこに義藤を訪ねて客人が訪れる。それは史実において「上杉謙信」の名で知られる越後の領主、長尾景虎だった。客が訪ねて来るたびに会わせたがる祖父の稙綱に苦笑しながら、竹若丸は景虎に会うため、義藤がいる岩神館を訪れるのだった。(エピソード「第一話」)

天皇の代替わりに行われる御大葬と御大典。その莫大な費えを負担することで公家と朝廷を動かした竹若丸は、幕府と三好家の和睦を成立させ、京へ義藤を帰すことに成功した。しかし、その褒賞として賜った幕府での御供衆(おともしゅう)という身分が、朽木家に対して戦を呼び込みつつあった。義藤の帰還を護衛していた六角家の嫡男、六角義治が竹若丸を褒め称える言葉とその活躍ぶりに嫉妬し、朽木家を除く高島七頭へ秘密裏に働きかけると、朽木谷へと攻め込ませたのだ。朽木家の4倍の兵力が攻め込んで来る中、祖父の稙綱らが籠城を口にする前で、竹若丸は相手に野戦に臨むことを宣言する。義藤が岩神館で逼塞(ひっそく)していたあいだ、領内の発展と軍の編成に努めていた朽木家には200もの鉄砲隊が存在した。竹若丸は新たに召し抱えた忍び集団「朽木八門衆」によって調略を仕掛け、敵の指導者である高島を先陣に引きずり出すよう仕向け、その鉄砲隊によって叩(たた)き潰そうと画策していた。戦の日、晴天の中で両軍がにらみ合っていると、果たして竹若丸の謀(はか)ったとおりに高島と田中重政が先陣として突っ込んで来る。鉄砲隊を預けられた家臣の日置行近が逆撃を仕掛けると、敵陣が途端に乱れ始める。その様子を冷静に観察した竹若丸は、敵の中に騎馬武者を見出すと、自らが直轄していた鉄砲隊に向けて狙い撃つように指示を出す。これにより、相手は一気に戦意を失い敗走を始めたため、竹若丸は戦を朽木家の損害がないまま大勝で終えることに成功する。さらには田中家、高島家の所領を朽木家のものとし、高島の居城であった清水山城も手に入れる大戦果を得るのだった。後日、生き残った高島七頭に六角家の家臣の蒲生定秀と幕臣の細川藤孝を交え、戦の申し開きの場が設けられた。将軍家の足利家にとって重要な土地と家である朽木家へ戦を仕掛けたことへの申し開きも兼ねていたこの場は、生き残った高島七頭と六角家の蒲生がすべての責任を高島一人に擦(なす)り付けようと会話が進められていく。それを聞く竹若丸や稙綱も、その話に乗っかる形で騙されたようだと口にする。その様子に、誰かしらから情報を得ていたのかと藤孝は訝(いぶか)しげに思うものの、高島本人がいない中、事実は知りようがないと考えていた。その藤孝を前に竹若丸は将軍家の御意を無視し、六角家の名を騙(かた)った高島は死罪を免れないのではないかとの確認を取る。藤孝がそれを肯定すると、竹若丸は立ち上がり家臣の行近を呼びつけて、とある人物をその場に連れ出させる。それは戦で死んだと思われていた高島本人だった(エピソード「第五話」)

六角家に従属していた浅井家が反旗を翻し、独立を目指した戦を始めた。朽木家は六角家の策略によって、望まぬまま自ら手伝い戦に参戦する状況を作られてしまう。当主の竹若丸はこの手伝い戦に、300の鉄砲隊を含めた1000の兵を連れて行くことを決める。史実の知識から、これから起こる戦いが六角家と浅井家が争った「野良田の戦い」と呼ばれる戦であることを知っていた竹若丸は、この戦で六角家が負けることを知っていた。竹若丸は戦で矢面に立たされぬよう鎧(よろい)を着込まず、あえて平服で参戦すると鉄砲隊から副官へと配置を変えた行近による戦場の解説を聞きながら、時宜を待っていた。果たして、史実の知識どおりに正午頃になると浅井勢が崩れ始める。竹若丸はあとのなくなった浅井賢政がこのあと、六角家の本陣へ向けて乾坤一擲(けんこんいってき)の突撃を仕掛けてくると読み切り、朽木家の兵たちに準備をうながす。そして、予想どおり賢政が突撃して来たのを見ると、こちらを無視して六角家の本陣を目指す賢政率いる浅井勢に対して痛烈な逆撃を加える。この攻撃によって、浅井勢は甚大な損害を被り、当主であった賢政のみならず数多くの重臣たちも討ち取られる結果となった。六角家の功績をすべて奪い取る形で大戦果を上げた竹若丸は、六角家当主の六角義賢が褒賞について話す場でそれを固辞すると、六角家が朽木家へ抱いている不満をお慰めできれば十分だと口にする。それは竹若丸が「野良田の戦い」に参戦するよう誘いを掛けてきた縁戚の鯰江為定から聞き出した計略だった。六角家重臣の後藤賢豊が絵図を書いたそれは、六角家が不満を持っていると聞けば朽木家は手伝い戦を断れないというものだったが、竹若丸はそれを逆手に取ったのだった。果たして、竹若丸の思惑どおり、褒賞の場でまさか朽木家に不満を持っていると認めるわけにいかない義賢は、それを否定する言質を取らされる。竹若丸がその場を辞したあと、義賢は自分を策にはめ込んだその力量を高く評価し、朽木家が欲しいと家臣たちに向かい、声高に叫ぶ。そして、それを現実のものとするため、浅井家を利用した策略を巡らせ始めるのだった。(エピソード「第八話」)

「野良田の戦い」の褒賞として、近江高島郡に存在する六角家の蔵入り地を押しつけられた竹若丸は、浅井家と領地を接することになってしまう。これにより、6万石の身代ながら20万石の浅井家との戦に突入せざるを得なくなった朽木家は、瞬く間に北近江(おうみ)一帯を自らの領地とすると、翌年、浅井家との決戦に臨もうとしていた。それまでのあいだに元服を迎え「朽木弥五郎基綱」と名を改めた基綱は、六角家重臣の平井家の娘を、当主である義賢の養子としたうえで娶(めと)り縁戚関係となっていた。嫁いできた朽木小夜との婚礼から時を置かず、決戦の場へと出陣した基綱は折り悪く豪雨に見舞われ、頼みの綱である鉄砲隊がまったく役に立たない状況へ追い込まれる。さらに布陣の失敗から、相対する浅井家につけ込むスキを与えた状態で見合う状況が続き、副官である行近から小言をもらう有様だった。引くも攻めるもできない状況にあった基綱率いる朽木家だったが、しばらく経(た)つとにわかに浅井家の陣内が騒がしくなり始める。怪訝(けげん)に思った行近が基綱に尋ねると、彼は平然と敵方の家臣である井口経親が裏切り、居城の小谷城を乗っ取ったのだろうと告げる。これにより、敗走せざるを得なくなった浅井家に対し、基綱は一気呵成に攻めかかる。望むのは敵方の実質的指導者である浅井久政の首のみ。だが、焦るあまりに味方を置いて突出した基綱は、浅井の残兵によって反撃され、間一髪のところを救われるという危機を招いてしまう。副官の行近に軽挙を戒められる基綱だったが、焦りは止まず、再び馬を駆って走り出そうとする。だが、行近に父上の二の舞になりたいのかと叱られたその時、基綱の脳裏に正室となったばかりの小夜の姿がよぎる。基綱はそれによって落ち着きを取り戻すと、兵と馬を暫時休ませ、十分な休息を取ってからゆっくりと追撃を再開する。果たして、道中には力尽きて倒れた浅井家の兵や馬が点在する有様となっており、基綱は行近の諫言(かんげん)が正しかったことを痛感する。そして、久政の居城である小谷城にたどり着いた時、基綱は力尽きてその場で気を失ってしまう。小谷城は既に、経親によって朽木家のものとされており、久政を含めた浅井家の一族郎党は捕らえられたあとだった。これにより、朽木家は20万石にわずかに及ばないものの、北近江一帯の覇者となった。基綱がそれを知ったのは、泥のような眠りから目を覚ました翌日のことだった。(エピソード「第十二話」)

六角家の次期当主の義治による美濃(みの)の不破郡侵攻は成功を収めるが、それは東に一色家との紛争地帯を作り出したことにほかならなかった。終わりの見えない戦に、度重なる負担を強いられた国人衆の不満は限界に達しようとしていた。六角家家中が継戦と和睦のあいだで割れる中、現当主である義賢は義治の家督相続を慮(おもんぱか)り、自らが和睦の責任を取る形で隠居し出家すると「承禎」と名乗った。しかし、時機を逸したその行いに国人衆たちは義賢が隠居することを許さず、義治への家督相続は形式上だけのものとなってしまう。正月の挨拶に、六角家の観音寺城へ正室の小夜を伴って訪れた基綱は、おざなりな対応をする義治と、それを取りなす家臣たちの様子を見て家中の状況を察する。舅(しゅうと)の平井定武とも六角家の様子について話し合った基綱は、いよいよ史実どおりに六角家が家督争いで荒れ始めているのを肌で感じる。そして同時に、正室である小夜の扱いについても頭を悩ませるのだった。城へ戻った基綱は、2月上旬に小夜のもとを訪れ、二人きりで話を始める。朽木家の楽しい印象と、基綱の噂(うわさ)とは違った人柄についてにこやかに話す小夜の姿を眺めながら、基綱は六角家と朽木家が手切れとなったらどうするか、小夜に尋ねる。その言葉に驚き、尋ね返す小夜に対して、基綱はその顔を直視できず、目をそらしながら自分の推察を語り始める。好んで六角家と敵対しようとは考えていない基綱だったが、家中の様子から六角家はおそらく崩れるだろうと予想する基綱は、小夜に六角家を喰わなければ朽木家が生き残れない状況が生まれるかも知れないと告げる。その時が来れば、基綱は躊躇(ためら)わず六角家を喰いに動くと宣言しながら、基綱は改めて小夜にどうするのかを尋ねるのだった。返答はその時が来るまでよいと基綱は告げて部屋をあとにすると、部屋に残された小夜は生けていた花を手に、一人その場で泣き崩れるのだった。(エピソード「第十六話」)

永禄6年(1563年)、六角家で「観音寺崩れ」が起こった。義治によって父親の義賢、弟の六角義定、重臣の後藤賢豊が手に掛けられたこの事件は、近江の南一帯に衝撃をもたらした。辛うじて取れていた均衡が崩れたのを見て取り、三好家の内藤宗勝が若狭(わかさ)を攻め取るなど活発な動きを見せ始める中、朽木家を率いる基綱も北方の越前を相手取って動き始める。加賀の一向門徒が動き出したのに合わせて、朝倉家が兵を動かしたのを見て取ると、その背後のスキを突く形で基綱は敦賀(つるが)を目指す。朽木八門衆を使った調略により、道中の城主を予(あらかじ)め寝返らせておくと、早朝に軍を出立させた基綱は道なき道を行く強行軍で疋壇城の城主である疋壇昌之の度肝を抜く。さらに、城で休まず鎧を脱ぐことを許さず、常在戦場の構えで軍を進めた基綱は次の日の夕刻には、目的地である敦賀に達していた。周辺の城を調略によってさらに寝返らせると、金ヶ崎城の城主である朝倉景嘉も降伏し、木ノ芽峠以南の越前の制圧に成功する。しかし、陣中には常勝を当たり前とする緩んだ空気が蔓延(まんえん)しており、基綱の近習(きんじゅ)を務めていた日置仲惟が勝手に鎧を脱ぎ始めるなど、頭の痛い問題が浮上していた。祖父の行近に殴り飛ばされ、激しく叱責された仲惟を前に、基綱は辛抱できないのであれば、戦には二度と連れて行かないと言い捨てる。その脳裏には、武運を祈る小夜の言葉がよぎっていた。一方その頃、氣比神宮には、大宮司の氣比憲直が挨拶に来る基綱を出迎えようと忙しくする様子を眺め、目を爛々(らんらん)と輝かせる氣比雪乃の姿があった。基綱の武勇伝を父親の憲直から聞き及んでいた雪乃は、基綱に強い関心を抱いており、お目通りしたいと父親に願い出るも、無下に断られていた。それでもあきらめきれない雪乃は、いつかお会いしたいと望み、その時のことを考えて笑みを浮かべるのだった。(エピソード「第十九話」)

朽木家の新たな家臣として召し抱えられた、元甲斐(かい)の武田家の家臣である真田幸隆は、当主の基綱の視察に護衛として同行していた。しかし北国街道の様子を見たいがため、野宿を敢行する基綱の様子に度肝を抜かれるも束(つか)の間、たどり着いた今浜で現地の経親ら国人領主たちとにこやかに会話する内容は、到底、武士からぬ金勘定の話ばかりだった。今浜を中心として朽木家の所領を経済的に発展させ、その銭で兵を雇い、坂田郡を豊かにしていこうと告げる基綱の様子に、幸隆は戦慄を覚えると共にこのやり方に早く慣れなければ、この殿には到底付いていけないと心を戒めるのだった。一方、幸隆と同じく朽木家へ新たに召し抱えられた室賀満正芦田信守は、越前の木ノ芽峠に築かれつつあった砦(とりで)を訪ねていた。門で一悶着(ひともんちゃく)あったものの、砦を預かる田沢張満に出迎えられた二人は、高野瀬秀隆軍略方竹中重治明智光秀沼田祐光を紹介される。二人は戸惑いながら、木ノ芽峠へ行って田沢殿に従えと言われただけの基綱に命じられた任をそのまま張満へ告げる。それを聞いた一同は、殿の悪い癖だと笑いながら、二人に砦を一つずつ預かって欲しいと告げる。さらには、兵500に鉄砲50丁を預けられると告げられ、二人は2万石相当の軍役を唐突に任せられたことに驚愕(きょうがく)を覚える。外様の人間ではあり得ないその厚遇に恐れおののく二人に対し、その様子を見て取った張満は朽木家が小身の出であったため、譜代の家臣が少ないという実情を告げる。二人に関しては基綱から実力に疑いはなく、遠慮なく使えと言われていることも含め、外様(とざま)の人間であっても分け隔てなく、実力に応じて使うのが朽木家の方針だと告げる。期待していると言われた二人は、その場を辞すると改めてこの様子を同胞である信濃(しなの)衆に伝えようと考える。どのように伝えるべきか悩んだ二人は、秀隆に告げられた「とにかく押しつけてやらせてしまえ」という基綱の方針を端的に表した言葉を脳裏に浮かべる。そして、誇らしげな表情を浮かべると、外様の人間である自分たちが兵500、銃50丁に加えて砦一つを預けられたのだから、きっとほかの信濃衆も朽木家にやって来るだろうと予感するのだった。

永禄8年(1565年)の1月21日に「永禄の変」が発生し、時の将軍である義藤(当時は足利義輝)が三好家によって討ち取られる。さらに、隠居させられていた六角義治までもが命を落とす中、基綱は朽木家の将来のため一向門徒と事を構える決意をする。朝倉家を滅ぼした一向門徒たちが、木ノ芽峠に築いた防衛網へ押しかけようとする中、基綱は1万3000の兵を率いて、3万以上の大軍へと膨れあがった敵勢と相対していた。馬防柵も築き、万全の体制で待ち構えていた基綱だったが、折り悪く、浅井久政との一戦を彷彿(ほうふつ)とさせるように雨に見舞われる。さらにそれだけでは終わらず、雷と強風が吹き荒れ始める中、軍略方の竹中重治や明智光秀は山上の城への撤退を進言する。戦が行えないと踏む彼らを前に、ポーカーフェイスを貫いていた基綱は、群議を開くと決断すると、黒野影久に敵勢の様子を探るよう命ずる。そのあいだ、集められた家臣たちを前に基綱は敵の動きに合わせて、この場で戦うことを宣言する。この豪雨によって頼みの鉄砲隊が使えない以上、数で勝る一向門徒が有利である現実に、もしも攻め寄せてきたならばここで迎え撃つしかないという基綱の判断だった。そして、もし敵が攻め寄せようと考えていないのであれば、この嵐の暗がりに乗じて近づき、攻め立てながら「越前衆が裏切った」と叫ぶのだと告げる。重蔵が一向門徒はこちらが攻め寄せて来ると思っておらず、休んでいるという報告をもたらすと、基綱は凄絶な笑みを浮かべる。滋賀郡の堅田や六角家、三好家、さらには美濃の一色家までもが朽木家を敵対視する四面楚歌(そか)の中、この戦には時間を掛けられないという内情があった。半刻後に攻めると宣言した基綱は、同士討ちを避ける合い言葉として空と海を定めると、軍団を率いて嵐と共に一向門徒へ攻めかかるのだった。(エピソード「第二十八話」)

外伝

漫画

本作『淡海乃海 水面が揺れる時』の外伝に、藤科遥市の『羽林、乱世を翔る~異伝 淡海乃海~』がある。TOブックス「コロナコミックス」から刊行されている。こちらは、イスラーフィールの小説『淡海乃海 水面が揺れる時 ~三英傑に嫌われた不運な男、朽木基綱の逆襲~』の同著者による外伝『異伝 淡海乃海~羽林、乱世を翔る~』が原作となっている。内容は、朽木基綱朽木家の家督を継げず、母方の実家である飛鳥井家で公家となったという、IFストーリーが描かれており、『淡海乃海 水面が揺れる時』ではほとんど登場しなかった目々典侍春齢女王三好家三好長慶松永久秀といった面々が活躍する内容となっている。

関連作品

小説

本作『淡海乃海 水面が揺れる時』は、イスラーフィールの小説『淡海乃海 水面が揺れる時 ~三英傑に嫌われた不運な男、朽木基綱の逆襲~』を原作としている。こちらは、イスラーフィールが「小説家になろう」に投稿した小説に書き下ろしや加筆修正を加えた内容で、イラストを碧風羽が担当している。著者であるイスラーフィールにとっては本作が書籍化デビュー作となる。巻末にはもとむらえりによる描き下ろし漫画が収録されている。また、外伝作品として『異伝 淡海乃海~羽林、乱世を翔る~』が存在する。こちらは、主人公の朽木基綱朽木家の家督を継げず、母親の朽木綾の実家である飛鳥井家に戻り公家として生きることになった物語が描かれている。そのほかにも、外伝集として『淡海乃海 水面が揺れる時 外伝集~老雄~』が存在する。メロンブックスの特典として付けられ人気を博していたSSシリーズの「老雄」を中心に、ほかの特典や書き下ろし小説を加えた短編集となっている。これらの作品はTOブックスより刊行されている。

メディアミックス

舞台

本作『淡海乃海 水面が揺れる時』の原作であるイスラーフィールの小説『淡海乃海 水面が揺れる時 ~三英傑に嫌われた不運な男、朽木基綱の逆襲~』の舞台が、『舞台 淡海乃海 -現世を生き抜くことが業なれば-』のタイトルで、東京・新宿村LIVEで2020年3月25日から29日にかけて上演された。脚本を西瓜すいか、演出を西口綾子が務めているほか、主演は古畑恵介が演じている。コロナ禍での上演となった本舞台は、YouTube上での同時上映が無料ライブ配信されるなど、特別な対応が取られた。また、2022年5月20日から29日にかけて、東京ドームシティ・シアターGロッソで2度目の公演も行われている。こちらは演出を松多壱岱が務めており、キャストは、朽木基綱を小川優、基綱に転生した50代男性としての内面である「俺」を内海光司が演じている。2作目の舞台として、2021年3月10日から14日にかけて、『舞台 淡海乃海 -声なき者の歌をこそ聴け-』のタイトルで、東京・俳優座劇場で上演された。脚本は西瓜すいか、演出は加治幸太が務めている。キャストは、笹翼、横山涼が演じている。舞台は第1作、第2作と共にDVDとして販売されている。

ドラマCD

本作『淡海乃海 水面が揺れる時』の原作であるイスラーフィールの小説『淡海乃海 水面が揺れる時 ~三英傑に嫌われた不運な男、朽木基綱の逆襲~』は2度のドラマCD化がされている。1作目の『淡海乃海 水面が揺れる時 ドラマCD』は2021年2月10日に発売され、脚本を原作者であるイスラーフィールが担当している。また、音楽を金巻兼一が務めている。キャストは、竹若丸と朽木基綱を江口拓也、朽木綾奈津を茅野愛衣、小夜とキリを伊波杏樹が演じている。こちらは、原作やコミカライズでは窺い知ることのできなかった基綱の母親、綾と、父親の晴綱の夫婦仲が窺(うかが)えるエピソードが追加されている。2作目の『淡海乃海 水面が揺れる時 ドラマCD2』は2021年12月20日に発売された。こちらは、脚本を西瓜すいかが務めている。キャストは、氣比雪乃を古賀葵が演じている。1作目、2作目、共に描き下ろし短編と原作小説がセットになったものと、ドラマCD単品で販売された。また、販促としてコミカライズ担当のもとむらえりによる応援漫画がWeb上に掲載されている。

オーディオブック

本作『淡海乃海 水面が揺れる時』の原作であるイスラーフィールの小説『淡海乃海 水面が揺れる時 ~三英傑に嫌われた不運な男、朽木基綱の逆襲~』は、audibleによってオーディオブック化されている。ナレーターを山口勝平と羽飼まりが務めている。

登場人物・キャラクター

主人公

近江高島郡の朽木谷を治める国人領主である朽木家の嫡男。仮名や官名を含めた名前は「朽木弥五郎基綱」、幼名は「竹若丸」。通称である「弥五郎」は、朽木家の当主が代々名乗るものだとされている。現世では歴史好き... 関連ページ:朽木 基綱

朽木基綱の正室。六角家の重臣である六角六人衆の一人である平井定武の娘で、兄に平井高明がいる。そのため、朽木家に嫁ぐ前は「平井小夜」という名だった。幼い頃に六角家へ人質として差し出され、平井家で育てられ... 関連ページ:朽木 小夜

氣比 雪乃 (けひ ゆきの)

敦賀軍の曙町に位置する氣比神宮の大宮司、氣比憲直の娘。好奇心旺盛な性格で、戦国の大名として台頭してきていた朽木基綱に強い興味を持っている。基綱が敦賀の制圧を成功裏に治めた際、氣比神宮を挨拶に来るという話を聞いて、当時10歳ながら一度お会いしてみたいと父親の憲直に頼み込んでいたが、この時は無下に断られている。

朽木基綱の祖父。仮名や官名を含めた名前は「朽木民部少輔稙綱」。基綱からは「御爺」と呼ばれ、親族の中でも特に慕われている。また、朽木基安らからは「ご隠居様」と呼ばれており、朽木家のご意見番であり、同時に... 関連ページ:朽木 稙綱

朽木 綾 (くつき あや)

朽木基綱の母親。基綱からは「綾ママ」と呼ばれている。朽木家の当主である朽木晴綱の妻で、実家は公家で羽林家の家格にある飛鳥井家。兄の飛鳥井雅春のほか、方仁親王のもとへ出仕し、寵愛を得ている妹の目々典侍がいる。公家の出身であるため、現代でいう琵琶湖のことを「淡海乃海」という雅(みやび)な呼び方をしている。晴綱とのあいだに基綱という一子を設けるが、高島と朽木家のあいだで起こった戦で夫の晴綱を亡くしたことで、当時わずか2歳だった基綱が家督を継ぐこととなる。しかし、基綱が年齢不相応な知識と落ち着きに加え、武家の当主としての才覚を発揮し始めたことで、朽木家は発展を遂げていくこととなる。一方の朽木綾は武家の生まれではないため、戦国の世の習いに疎い部分があり、基綱が時おり見せる交渉術としての怒りや、豹変した態度などを素の性格として受け取り、癇癪(かんしゃく)持ちの粗忽(そこつ)者として心配する場面がしばしばある。また、子供らしからぬ基綱の性格と、弱みを親の綾にすら見せない強さに戸惑いを隠せずにおり、どのように接するべきか距離感に悩んでいる。そのため、義父の朽木稙綱からは基綱と綾の双方で距離を測りかねている様子を、必ずしもうまくいっているようには見えないと称されている。しかし、同時に新年の挨拶を欠かさずに行うことや、贈り物などの心配りを怠らない基綱の態度や、基綱に六角家から嫁が世話をするという話が持ち上がった際に見せた息子への心配など、お互いに相手に向ける情がないわけでもない、とも見られている。この背景には、基綱の精神が現世を50代まで生きた男性のものであり、そのことに違和感を覚えると同時に、甘えてこない子供に寂しさを覚えているという綾の親心がある。本来の綾は子煩悩な性格で、侍女として仕えていたキリが子供を身ごもったことを機に一度、ヒマを願い出た際などには心からの気遣いと子供への祝福を願い出ていた。ほかに、基綱のもとへ嫁いできた朽木小夜に対しては、元は浅井賢政に嫁いでいた平井家の娘ということで、当初、不安を抱いていた。しかし実際に嫁いできてからは、なにくれとなく小夜のことを心配しており、基綱にそれとなく妻を気遣うようにと説教をする様子も垣間見えている。また、小夜も姑(しゅうとめ)である綾との関係は良好で、同時に夫の基綱が綾に頭が上がらない様子も察している。

朽木 惟綱 (くつき これつな)

朽木稙綱の弟で、朽木基綱の大叔父(おじ)。息子に朽木惟安がいる。朽木基安は祖父にあたる。仮名や官名を含めた名前は「朽木蔵人惟綱」。兄の稙綱と共に幼くして家督を継いだ基綱に家臣として仕えた人物で、西山城の城主を務めている。朽木家が三好家の誘いを断った際、疑いを持った謝罪として足利義藤から「鉄砲薬之方并調合次第」が与えられたことをきっかけに、硝石作りを始めようと基綱が決心した際、西山城が選ばれている。この時の理由として、将軍家である足利家の幕府へ長らく忠義を捧げてきた稙綱が、義藤と心情的にも関係的にも近すぎることを危うく考えた基綱が、ほかに信頼できる人物として大叔父の朽木惟綱を選んだことがある。惟綱はこの秘密裏に与えられた任務を息子の惟安と共に成し遂げ、これによってそろえられた鉄砲隊は、朽木家を除く高島七頭との戦を一方的な内容で勝利するという、華々しい結果へ導いている。のちに戦の結果、所領が大きくなったことに伴い居城を朽木城から清水山城へ移す必要が出たことで、この時、淡海乃海に面する船木城へ移動することを基綱から求められている。同時に、朽木惟綱の息子である惟安は西山城を引き継ぐだけでなく、朽木城を預かることも求められており、親子二人で三つの城を預かるという厚遇を受けることになった。これにはさすがの惟綱、惟安も意見を唱えたものの、石鹼、椎茸、澄み酒、綿糸の原料となる綿花に加え、刀、鉄砲鍛冶(かじ)、硝石と重要産物が一極集中した朽木城、西山城を滅多な人物には預けられないという基綱の説得によって受け入れた。

朽木 惟安 (くつき これやす)

朽木惟綱の息子で、朽木基安の父親。朽木基綱からみた従叔父(いとこおじ)にあたる。仮名や官名を含めた名前は「朽木主殿惟安」。父親の惟綱と共に西山城におり、基綱によって秘密裏に命じられた硝石作りに励んでいた。朽木家が、自分たち以外の高島七頭との戦に勝って所領を拡げると、朽木城から清水山城へ居城を移す必要性が生まれた。その際、惟綱が船木城へ移動になったのを機に、朽木惟安は西山城と朽木城を預けられている。この時の朽木城には石鹼、椎茸、澄み酒、綿糸の原料となる綿花などの重要な産物が集中しており、ほかにも刀、鉄砲鍛冶が集まっていた。西山城の硝石と共に、おおよそ朽木家の重要産物が一極集中しており、滅多な人物に預けられない背景があった。

朽木 基安 (くつき もとやす)

朽木惟安の息子で、朽木基綱の又従兄弟。仮名や官名を含めた名前は「朽木主税基安」、幼名は「梅丸」。幼い頃から基綱のそばに侍(はべ)る小姓として付けられた人物で、基綱からは将来的に自らの代理となる人物に育って欲しいと願われている。かつて小姓は基安一人だけだったが、のちに家中で基綱と同年代の子供から長沼行春、宮川道継、日置仲惟、荒川長好が新たに小姓として加えられ、共に傍(そば)に仕えている。人並み外れて大人びている基綱とは違い、小姓たちはみな子供らしい性格で、特に基綱が活躍した戦に対して強い関心を持っている。また、基綱のあざやかすぎる勝ち方や軍功の上げ方が弊害となり、戦は簡単なものだと考えている節がある。基綱はその点を憂慮しており、算勘や兵学など、将来に役立つさまざまな学問を修めるように取り計らっている。元服すると前任である山口教高、山内一豊のあとを継ぐ形で近習としてほかの小姓たちと共に、基綱に仕えている。引き継ぎは相当厳しく行われたものの、見識の甘さなどが随所からにじみ出ており、特に「観音寺崩れ」で父親の六角義賢や弟の六角義定、家臣の後藤賢豊を手に掛け、結果として隠居させられた六角義治の取り扱いについて、のんびりとした余生を過ごせると見通していた。実際には義治の隠居は強制的なものであり、後ろ盾が盤石ではない、後継となる当主の立ち位置などから、基綱は1年余りでなにかしらの理由を付けて命を絶たれるだろうと予測していた。そのため、叱責までいかないものの、将来のためとして、その時ばかりは基綱から見通しの甘さを正されている。しかし、どこか緩んだ雰囲気のある点はその後も改善されず、越前の敦賀を制圧する戦に同行した際に、基綱に厳命されていた、鎧を脱ぐなという命令を軽視する姿勢を見せている。特に既に鎧を脱いでいた仲惟は、祖父の日置行近に基綱の前で殴り倒され強烈に叱責されている。また、その様子を見た基綱には近習に限らず、戦に勝てて当たり前という油断が軍全体に蔓延(はびこ)っていると痛感されつつ、辛抱できないのであれば今後、戦には同行させないとまで断言されている。

朽木 藤綱 (くつき ふじつな)

朽木基綱の叔父の一人で、朽木稙綱の息子。仮名や官名を含めた名前は「朽木長門守藤綱」。基綱の父親である朽木晴綱を長男とする五人兄弟の次男で、ほかの兄弟と共に足利義藤のもとへ幕臣として奉公に出ている。家督を継ぐ順位としては基綱の次に高く、わずか2歳で継いだ基綱は、藤綱ら叔父たちが自分のことを心内でどう思っているのか不安に思っている節がある。朽木家を除く高島七頭との戦のあとに所領が広がったことに伴い、人材の不足と親族衆の弱さが表立ってきた際、幕府に出仕していた兄弟の二人を戻す話が持ち上がり、朽木藤綱と朽木成綱が朽木家へ戻されることになった。これは京へ戻った義藤(当時は義輝)が、朽木家とのつながりをより強固なものにしておきたいという意向もあった。藤綱は朽木家へ戻って来ると、譜代の家臣、日置行近に代わって鉄砲隊を預かることとなった。朽木家の主力部隊であるこの鉄砲隊は、続く六角家によって手伝い戦に駆り出された「野良田の戦い」で抜群の活躍を見せ、相手方である浅井家の当主、浅井賢政が見せた乾坤一擲の突撃に対して逆撃することで、多大な損害を与えることに成功している。浅井家との戦で朽木家が大勝して北近江一帯を収めてからは、将軍である義藤から三好家を攻めるようにという手紙が藤綱や成綱、父親の稙綱に送られた。そして自らにも文が送られてきた基綱から、義藤と朽木家のどちらに仕えるのか旗幟(きし)を鮮明にしろとせまられると、この時、藤綱と成綱は基綱に仕えることを改めて明確に示すと、残りの二人の弟たちも幕臣から朽木家へ戻すように願い出ている。これを受けた基綱によって朽木直綱、朽木輝孝も朽木家へ戻って家臣となると、二人は兵糧方という役職に就けられた。この時、朽木家が独自に設けた役職の内容にとまどう二人を、基綱の言を補強する形で、藤綱と成綱はそれとなく説得している。

朽木 成綱 (くつき しげつな)

朽木基綱の叔父の一人で、朽木稙綱の息子。仮名や官名を含めた名前は「朽木左兵衛尉成綱」。基綱の父親である朽木晴綱を長男とする五人兄弟の三男で、ほかの兄弟と共に足利義藤のもとへ幕臣として奉公に出ている。わずか2歳で継いだ基綱は藤綱ら叔父たちが自分のことを心内でどう思っているのか不安に思っている節がある。朽木家を除く高島七頭との戦のあとに所領が広がったことに伴い、人材の不足と親族衆の弱さが表立ってきた際に幕府に出仕していた兄弟の二人を戻す話が持ち上がり、朽木藤綱と朽木成綱が朽木家へ戻されることになった。これには京へ戻った義藤(当時は義輝)が、朽木家とのつながりをより強固なものにしておきたいという意向もあった。成綱は朽木家へ戻って来ると、騎馬隊を預かることとなっている。続く六角家によって手伝い戦に駆り出された「野良田の戦い」において、相手方である浅井家の当主、浅井賢政が見せた乾坤一擲の突撃に対して逆撃した藤綱や、槍対を率いて追撃に出た日置貞忠に負けじと騎馬隊を率いて突撃し、多大な損害を与えた戦の一端を担っている。浅井家との戦で朽木家が大勝を収めて北近江一帯を収めてからは、将軍である義藤から三好家を攻めるようになったとの手紙が藤綱や成綱、父親の稙綱に送られた。そして自らにも文が送られてきた基綱から、義藤と朽木家のどちらに仕えるのか旗幟を鮮明にしろとせまられると、藤綱と成綱は基綱に仕えることを改めて明確に示すと、残りの二人の弟たちも幕臣から朽木家へ戻すように願い出ている。これを受けた基綱によって朽木直綱、朽木輝孝も朽木家へ戻って家臣となると、彼らは兵糧方という役職に就けられた。この時、朽木家が独自に設けた役職の内容にとまどう二人を、基綱の言を補強する形で、藤綱と成綱はそれとなく説得している。

朽木 直綱 (くつき なおつな)

朽木基綱の叔父の一人で、朽木稙綱の息子。仮名や官名を含めた名前は「朽木右兵衛尉直綱」。基綱の父親である朽木晴綱を長男とする五人兄弟の四男で、ほかの兄弟と共に足利義藤のもとへ幕臣として奉公に出ている。朽木家が浅井家との戦に大勝し、北近江一帯の覇者となった際に、義藤(当時は義輝)によって反三好の兵を挙げよという文が朽木直綱の兄、朽木藤綱や朽木成綱、父親の稙綱や当主の基綱に送られている。これを受けた基綱によって、誰に仕えるのか旗幟を鮮明にするよう求められた藤綱と成綱が、基綱に仕えることを改めて示したと共に、幕臣として仕えていた直綱と朽木輝孝を朽木家へ戻すことを願い出たことで、幕臣を辞し、朽木家の家臣として改めて仕え直すこととなった。この時、背景には朽木家の兵力を使って三好家を討てとたびたび義藤に要求され、困り果てていた直綱や輝孝の事情もあり、その旨を藤綱らへ伝えていたことが朽木家へ戻される要因の一つとなっている。また、義藤の周囲では頻りに反三好の声が上がるものの、それを実行に移すだけの力は幕府や義藤になく、それどころか幕府の実権は当の三好家ににぎられている有様だったことから、哀れと同情する一方で付き合いきれないという、感情面での問題もあった。朽木家へ戻ってからは弟の輝孝と共に朽木家が独自に設けている「兵糧方」という役職に就けられ、兵站(へいたん)の管理や供給面を担っている。

朽木 輝孝 (くつき てるたか)

朽木基綱の叔父の一人で、朽木稙綱の息子。仮名や官名を含めた名前は「朽木左兵衛尉輝孝」。基綱の父親である朽木晴綱を長男とする五人兄弟の五男で、ほかの兄弟と共に足利義藤のもとへ幕臣として奉公に出ている。朽木家が浅井家との戦に大勝し、北近江一帯の覇者となった際に、義藤(当時は義輝)によって反三好の兵を挙げよという文が朽木輝孝の兄、朽木藤綱や朽木成綱、父親の稙綱や当主の基綱に送られている。これを受けた基綱によって、誰に仕えるのか旗幟を鮮明にするよう求められた藤綱と成綱が、基綱に仕えることを改めて示したと共に、幕臣として仕えていた朽木直綱と輝孝を朽木家へ戻すことを願い出たことで、幕臣を辞し、朽木家の家臣として改めて仕え直すこととなった。この時、背景には朽木家の兵力を使って三好家を討てとたびたび義藤に要求され、困り果てていた直綱や輝孝の事情もあり、その旨を藤綱らへ伝えていたことが朽木家へ戻される要因の一つとなっている。また、義藤の周囲では頻りに反三好の声が上がるものの、それを実行に移すだけの力は幕府や義藤になく、それどころか幕府の実権は当の三好家に握られている有様だったことから、哀れと同情する一方で付き合いきれないという、感情面での問題もあった。朽木家へ戻ってからは兄の直綱と共に朽木家が独自に設けている「兵糧方」という役職に就けられ、兵站の管理や供給面を担っている。

日置 行近 (ひおき ゆきちか)

朽木家の譜代である日置家の男性。仮名や官名を含めた名前は「日置五郎右衛門行近」。特徴的な白眉から、当主の朽木基綱からは内心で「白ゲジゲジ」と呼ばれている。朽木家の軍事に深く携わっており、実際の戦における機微や兵の統率に疎い基綱をよく補佐している。また、日常においても基綱の護衛や相談役、仕官を申し出てきた人間の仲介など、さまざまな場面で補佐している。基綱がわずか2歳という年齢で当主となってからは、朽木家で新たに設けられた鉄砲隊の調練と指揮を任されると数年後に発生した、朽木家を除いた高島七頭との戦で活躍し、相手方を一方的に敗走させる大戦果の一端を担っている。その後は鉄砲隊を、朽木家の親族衆で、足利義藤の近くで幕臣として仕えていた朽木藤綱が戻ってきた際に譲ると、戦場での見識を求められて基綱の副官となった。六角家に手伝い戦に駆り出された「野良田の戦い」では、浅井勢を相手取って戦う六角家の戦況を実況中継のように基綱へ解説し、戦の潮目が変わる時宜を的確に知らせている。それによって基綱の史実の知識と現実との整合性をすり合わせるのに役立ち、結果、敵方の当主である浅井賢政による乾坤一擲の突撃を見計らって鉄砲隊による逆撃を行い、多大な損害を与えるという大戦果につながっている。また、その後に行われた浅井久政との戦では、功を焦って不用意に突出した基綱を諫(いさ)め、味方の兵を休ませることに成功しており、このことが要らない犠牲を生まずに小谷城を制圧する結果をもたらしている。また、基綱の戦場における識見の至らぬところを指摘しながら、一方で戦の外で行っていた調略や戦略面での成功を褒めるなど、主従であると同時に、よい師弟関係を築いている。その才覚は基綱が、なぜ朽木家にいるのかわからないと言わしめるほどで、仮に織田信長のもとへ仕官したら簡単に10万石をもらえそうだと評価されている。息子の日置貞忠は、日置行近と同じく朽木家の軍務に主に携わると、槍(やり)隊を任されている。また、孫に基綱の小姓を務め、のちに近習となった日置仲惟がいる。越前の敦賀を攻めた戦で、ほとんど戦いらしい戦いがなく弛緩(しかん)した状態な中、油断して鎧を脱ぎ始めていた仲惟を基綱の前で殴りつけており、この時は厳格な祖父としての一面を見せている。

日置 貞忠 (ひおき さだただ)

朽木家の譜代である日置家の男性。日置行近の息子。仮名や官名を含めた名前は「日置左門貞忠」。行近と同じく朽木家の軍に深く携わっており、槍隊を主に任されている。朽木家を除く高島七頭との戦では勝敗が付いてからの追撃を主に任されていた。また、六角家に手伝い戦へ駆り出された「野良田の戦い」では、浅井家の当主である浅井賢政の突撃に朽木家の鉄砲隊が逆撃を仕掛けたのを確認してから、槍隊を率いて追撃を行っている。

日置 仲惟 (ひおき なかただ)

朽木家の譜代である日置貞忠の息子。祖父に日置行近がいる。仮名や官名を含めた名前は「日置助五郎仲惟」で、幼名は「鍋丸」。朽木基綱が家中の同年代の子供から出仕させた小姓の一人で、長沼行春、宮川道継、荒川長好、朽木基安らと共にそばに仕えた。人並み外れて大人びている基綱とは違い、小姓たちはみな子供らしく、基綱が活躍した戦に強い関心を持っている。また、基綱のあざやかすぎる勝ち方や軍功の上げ方が弊害となり、戦は簡単なものだと考えている節がある。基綱はその点を憂慮しており、算勘や兵学など、将来に役立つさまざまな学問を修めるように取り計らっている。元服すると前任である山口教高、山内一豊のあとを継ぐ形で近習としてほかの小姓たちと共に、基綱に仕えている。引き継ぎは相当厳しく行われたものの、見識の甘さなどが随所からにじみ出ており、特に「観音寺崩れ」で父親の六角義賢や弟の六角義定、家臣の後藤賢豊を手に掛け、結果として隠居させられた六角義治の取り扱いについて、のんびりとした余生を過ごせると見通していた。実際には義治の隠居は強制的なもので、後ろ盾が盤石ではない、後継となる当主の立ち位置などから、基綱は1年余りでなにかしらの理由を付けて命を絶たれるだろうと予測していた。そのため、叱責までいかないものの、将来のためとして、その時ばかりは基綱から見通しの甘さを正されている。しかし、どこか緩んだ雰囲気はその後も改善されず、越前の敦賀を制圧する戦に同行した際に、基綱に厳命されていた、鎧を脱ぐなという命令を軽視する姿勢を見せている。特に既に鎧を脱いでいた日置仲惟は、祖父の行近に基綱の前で殴り倒され強烈に叱責されている。また、その様子を見た基綱には近習に限らず、戦に勝てて当たり前という油断が軍全体に蔓延っていると痛感されつつ、辛抱できないのであれば今後、戦には同行させないとまで断言されている。

宮川 頼忠 (みやかわ よりただ)

朽木家の譜代である宮川家の男性。仮名や官名を含めた名前は「宮川新次郎頼忠」。朽木家に家臣として仕えており、譜代を代表して日置行近と共に評定衆の一員に数えられている。譜代の人間の中では行近と同じく年嵩(としかさ)の人物で、思慮の深さから信頼されている。六角義治が「観音寺崩れ」で父親の六角義賢や弟の六角義定、重臣の後藤賢豊を手に掛けたため隠居させられ、代わりに六角輝頼が六角家の当主となった際、なにが起こってもおかしくない危険な観音寺城に正月の挨拶を誰が赴くかという問題があった。その際、当主である朽木基綱の名代として頼忠が挨拶に赴いている。

宮川 貞頼 (みやかわ さだより)

朽木家の譜代である宮川家の男性。仮名や官名を含めた名前は「宮川又兵衛貞頼」。朽木家に家臣として仕えており、奉行衆の一人として殖産奉行を務めている。朽木基綱からはその役職を拓務大臣に例えられ、所領における特産品や産業の発展および発見を任されている。朽木家が敦賀を手に入れてからは、その塩を公家や朝廷に献上しており、それが評判となって高値で取り引きされるようになっている。

宮川 道継 (みやかわ みちつぐ)

朽木家の譜代である宮川家の男性。仮名や官名を含めた名前は「宮川重三郎道継」で、幼名は「岩松」。朽木基綱が家中の同年代の子供から出仕させた小姓の一人で、長沼行春、荒川長好、日置仲惟、朽木基安らと共にそばに仕えた。人並み外れて大人びている基綱とは違い、小姓たちはみな子供らしく、特に基綱が活躍した戦に強い関心を持っている。また、基綱のあざやかすぎる勝ち方や軍功の上げ方が弊害となり、戦は簡単なものだと考えている節がある。基綱はその点を憂慮しており、算勘や兵学など、将来に役立つさまざまな学問を修めるように取り計らっている。元服すると前任である山口教高、山内一豊のあとを継ぐ形で近習としてほかの小姓たちと共に、基綱に仕えている。引き継ぎは相当厳しく行われたものの、見識の甘さなどが随所からにじみ出ており、特に「観音寺崩れ」で父親の六角義賢や弟の六角義定、家臣の後藤賢豊を手に掛け、結果として隠居させられた六角義治の取り扱いについて、のんびりとした余生を過ごせると見通していた。実際には義治の隠居は強制的なものであり、後ろ盾が盤石ではない、後継となる当主の立ち位置などから、基綱は1年余りでなにかしらの理由を付けて命を絶たれるだろうと予測していた。そのため、叱責までいかないものの、将来のためとして、その時ばかりは基綱から見通しの甘さを正されている。しかし、どこか緩んだ雰囲気のある点はその後も改善されず、越前の敦賀を制圧する戦に同行した際に、基綱に厳命されていた、鎧を脱ぐなという命令を軽視しする姿勢を見せている。

荒川 長道 (あらかわ ながみち)

朽木家の譜代である荒川家の男性。仮名や官名を含めた名前は「荒川平九郎長道」。朽木家に家臣として仕えており、奉行衆の一人として御倉奉行を務めている。朽木基綱からはその役職を財務大臣とたとえられ、経済的に富んでいる朽木家の財政を任されている。また、敏腕秘書にたとえられることもあり、基綱が近隣の視察に出る際の護衛や、面会する相手方との事前交渉など、さまざまな諸事を任されている。しかし、型破りな基綱の行動にしばしば振り回されることもあり、苦労人な一面がある。

荒川 長好 (あらかわ ながよし)

朽木家の譜代である荒川家の男性。仮名や官名を含めた名前は「荒川平四郎長好」で、幼名を「寅丸」。朽木基綱が家中の同年代の子供から出仕させた小姓の一人で、長沼行春、宮川道継、日置仲惟、朽木基安らと共にそばに仕えた。人並み外れて大人びている基綱とは違い、小姓たちはみな子供らしく、特に基綱が活躍した戦に強い関心を持っている。また、基綱のあざやかすぎる勝ち方や軍功の上げ方が弊害となり、戦は簡単なものだと考えている節がある。基綱はその点を憂慮しており、算勘や兵学など、将来に役立つさまざまな学問を修めるように取り計らっている。元服すると前任である山口教高、山内一豊のあとを継ぐ形で近習としてほかの小姓たちと共に、基綱に仕えている。引き継ぎは相当厳しく行われたものの、見識の甘さなどが随所からにじみ出ており、特に「観音寺崩れ」で父親の六角義賢や弟の六角義定、家臣の後藤賢豊を手に掛け、結果として隠居させられた六角義治の取り扱いについて、のんびりとした余生を過ごせると見通していた。実際には義治の隠居は強制的なものであり、後ろ盾が盤石ではない、後継となる当主の立ち位置などから、基綱は1年余りでなにかしらの理由を付けて命を絶たれるだろうと予測していた。そのため、叱責までいかないものの、将来のためとして、その時ばかりは基綱から見通しの甘さを正されている。しかし、どこか緩んだ雰囲気のある点はその後も改善されず、越前の敦賀を制圧する戦に同行した際に、基綱に厳命されていた鎧を脱ぐなという命令を軽視しする姿勢を見せている。

田沢 張満 (たざわ はるみつ)

朽木家の譜代である田沢家の男性。仮名や官名を含めた名前を「田沢又兵衛張満」という。朽木家に家臣として仕えており、朽木家を除く高島七頭との戦では弓隊50名を率いて活躍しており、その後の戦でも弓隊を任されていることが多い。越前の朝倉家や一向門徒を相手にした戦でも要所である木ノ芽峠の砦建設と防衛を任されており、軍略方である明智光秀、竹中重治、沼田祐光や外様の高野瀬秀隆らと共に協力して事に当たっている。のちに砦が完成してからは甲斐の武田家に仕えていた元信濃衆である芦田信守や室賀満正らも加わって、北方にいる朝倉家と一向門徒に目を配っていた。息子に、田沢小十郎がおり、同じく木ノ芽峠で行われた一向門徒との戦で活躍した。

田沢 小十郎 (たざわ こじゅうろう)

朽木家の譜代である田沢家の男性。田沢張満の息子。張満と同様に朽木家の家臣として仕えており、越前の木ノ芽峠で一向門徒を相手取った戦において、守山作兵衛と共に進撃する軍の背後にある陣地の確保を任されるなど活躍した。のちに、敗走する一向門徒を追撃する過程で接収した燧城を小十郎と共に任されている。

守山 重義 (もりやま しげよし)

朽木家の譜代である守山家の男性。仮名や官名を含めた名前を「守山弥兵衛重義」という。朽木家に家臣として仕えており、奉行衆の一人として公事奉行を務めている。朽木基綱からはその業務を法務大臣としてたとえられており、領民などからあげられてくる訴えを評定衆を交えた裁判の場に上げ、当主である基綱から裁決を仰ぐ役割を担っている。息子に守山作兵衛がおり、そちらは木ノ芽峠で行われた一向門徒を相手取った戦で活躍すると、敗走する敵を追撃している途中で接収した燧城(ひうちじょう)を田沢小十郎と共に預けられている。

守山 作兵衛 (もりやま さくべえ)

朽木家の譜代である守山家の男性。守山重義の息子。重義と同様に朽木家の家臣として仕えており、越前の木ノ芽峠で一向門徒を相手取った戦において、田沢小十郎と共に進撃する軍の背後にある陣地の確保を任されるなど活躍した。のちに、敗走する一向門徒を追撃する過程で接収した燧城(ひうちじょう)を小十郎と共に任されている。

長沼 行春 (ながぬま ゆきはる)

朽木家の譜代である長沼家の男性。仮名や官名を含めた名前を「長沼新三郎行春」という。朽木家に家臣として仕えており、奉行衆の一人として農方奉行を務めている。朽木基綱からはその業務を農林水産大臣としてたとえられており、領内の綿糸の原料となる綿花の種の管理をはじめ、農林水産に関するさまざまな諸事を統括している。息子に長沼行定がおり、当主の基綱へ小姓として仕えさせている。

長沼 行定 (ながぬま ゆきさだ)

朽木家の譜代である長沼家の男性。長沼行春の息子。仮名や官名を含めた名前を「長沼陣八郎行定」といい、幼名を「千代松」と呼んだ。朽木基綱が家中の同年代の子供から出仕させた小姓の一人で、荒川長好、宮川道継、日置仲惟、朽木基安らと共にそばに仕えた。人並み外れて大人びている基綱とは違い、小姓たちはみな子供らしい性格をしており、特に基綱が活躍した戦に対して強い関心を持っている。また、基綱のあざやかすぎる勝ち方や軍功の上げ方が弊害となり、戦は簡単なものだと考えている節がある。基綱はその点を憂慮しており、算勘や兵学など、将来に役立つさまざまな学問を修めるように取り計らっている。元服すると前任である山口教高、山内一豊のあとを継ぐ形で近習としてほかの小姓たちと共に、基綱に仕えている。引き継ぎは相当厳しく行われたものの、見識の甘さなどが随所からにじみ出ており、特に「観音寺崩れ」で父の六角義賢や弟の六角義定、家臣の後藤賢豊を手に掛け、結果として隠居させられた六角義治の取り扱いについて、のんびりとした余生を過ごせると見通していた。実際には義治の隠居は強制的なものであり、後ろ盾が盤石ではない、後継となる当主の立ち位置などから、基綱は1年余りでなにかしらの理由を付けて命を絶たれるだろうと予測していた。そのため、叱責までいかないものの、将来のためとして、その時ばかりは基綱から見通しの甘さを正されている。しかし、どこか緩んだ雰囲気のある点はその後も改善されず、越前の敦賀を制圧する戦に同行した際に、基綱に厳命されていた鎧を脱ぐなという命令を軽視しする姿勢を見せている。

山口 教高 (やまぐち のりつぐ)

朽木家に仕える家臣の男性。仮名や官名を含めた名前は「山口新太郎教高」。野良田の戦いが起こる3か月前に、山内一豊と共に朽木家へと仕官を願い出てきたので、人手不足に喘(あえ)いでいた朽木基綱が無条件で雇った。背景には元服を終えたばかりの尾張(おわり)出身者という事情があり、近江出身者でなかったことが起因している。雇われてからしばらくのあいだは近習として基綱のそばに仕えていたが、北近江の一帯を治めるほどに朽木家の勢力が拡大すると共に、山内一豊ともども兵糧方に任命された。配属後は同じく兵糧方である朽木直綱、朽木輝孝と協力して慣れない役職に苦慮しながらも功績を挙げている。特に木ノ芽峠で行われた朽木家と一向門徒の戦では、陣地の要となる馬防柵を作る木材集めに奔走し、基綱からはその苦労を認められている。

山内 一豊 (やまうち かつとよ)

朽木家に仕える家臣の男性。仮名や官名を含めた名前は「山内伊右衛門一豊」。野良田の戦いが起こる3か月前に、山口教高と共に朽木家へと仕官を願い出てきたので、人手不足に喘いでいた朽木基綱が無条件で雇った。背景には元服を終えたばかりの尾張出身者という事情があり、近江出身者でなかったことが起因している。現代の史実では、妻が夫のために節約して貯めたお金で馬を買い与えたという「内助の功」の逸話で有名な人物。木下秀吉や徳川家康に仕えて功績を挙げ、のちの土佐藩の祖となった人物でもあり、雇う際には基綱も本当に雇ってよいのか悩む素振りを見せていた。雇われてからしばらくのあいだは近習として基綱のそばに仕えていたが、北近江の一帯を治めるほどに朽木家の勢力が拡大すると共に、山口教高ともども兵糧方に任命された。配属後は同じく兵糧方である朽木直綱、朽木輝孝と協力して慣れない役職に苦慮しながらも功績を挙げている。特に木ノ芽峠で行われた朽木家と一向門徒の戦では、陣地の要となる馬防柵を作る木材集めに奔走し、基綱からはその苦労を認められている。実在の人物、山内一豊がモデル。

林 員清 (はやし かずきよ)

朽木家に仕える家臣の男性。仮名や官名を含めた名前は「林与次左衛門員清」。かつて高島越中に仕えていたが、朽木家を除く高島七頭が戦に負けたあとに召し抱えられ、朽木家に仕えることになった。筋骨逞(たくま)しい屈強な男性だが、顔なじみである堅田の殿原衆(とのばらしゅう)の面々からは、慎重な人物として評価されている。一方で朽木基綱のことを不世出の英雄として尊敬しており、斜陽の六角家よりも基綱の方が近江の旗印として相応(ふさわ)しいと持ち上げるなど、暑苦しい一面がある。北近江の覇者となった朽木家の船団を預かる人物で、淡海乃海に対する強い影響力を有する。堅田の殿原衆とは顔なじみではあり、将来的に朽木家が一向門徒との戦に突入するのをにらんでいた際、基綱とのあいだに面会の機会を設け、顔をつないだ。その後、朽木家が越前で一向門徒との本格的な戦に突入していく中で、一時的に殿原衆と敵対関係となることもあった。しかし、堅田の中でも一向宗ではなく臨済宗を信じる殿原衆は、朽木家の軍が堅田へ向けられた時に降伏しているため、実際に戦うことはなかった。

高野瀬 秀隆 (たかのせ ひでたか)

元六角家家臣だった男性。仮名や官名を含めた名前は「高野瀬備前守秀隆」。肥田城の城主として六角家に仕えていたが、浅井家と六角家の戦の始まりにおいて、浅井家の調略によって浅井家に寝返っている。その際、六角家が差し向けた大軍を一度は退ける活躍を見せているが、その後に行われた「野良田の戦い」において、浅井家が六角家に大敗を喫したことで、秀隆も降参し、許されることなく城を追い出されている。肥田城を追い出されてからは仕官先を求めて朽木家を訪れると、六角家との戦いで示した実力を評価して朽木基綱が召し抱えた。この時、朽木家に属することになった秀隆は、自分が浅井家に寝返った調略が一昨年から仕掛けられていたことを基綱に告げており、「野良田の戦い」で討ち死にした浅井賢政が、元服を終えて当主となる以前の出来事であった。このことから、黒幕が浅井久政であることを示す有力な情報となった。浅井家との戦が朽木家と六角家の勝利に終わると、今度は越前で行われた朽木家と朝倉家の一向門徒との戦で活躍している。敦賀を制圧した朽木家は、北方に位置する朝倉家の越前を木ノ芽峠に砦を築いて押しとどめようと画策し、その砦を預けられたのが秀隆だった。その際は軍略方の明智光秀、竹中重治、沼田祐光らに、朽木家普代の家臣である田沢張満と協力して事に当たっており、のちに元甲斐の武田家の家臣であった芦田信守と室賀満正も砦を守る人員として加わっている。

元浅井家の家臣だった男性。仮名や官名を含めた名前は「井口越前守経親」。磯野家、赤尾家、雨森家と並んで湖北四家と称される井口家の当主で、浅井家の元当主である浅井久政に妹の阿古が嫁いでいる。久政のあとに家... 関連ページ:井口 経親

雨森 弥兵衛 (あめのもり やひょうえ)

元浅井家の家臣だった男性。雨森家は井口経親の井口家や赤尾家、磯野家といった家柄と並んで湖北四家と称される淡海乃海の北部における有力な家柄で、浅井家が朽木家、六角家を相手取った戦に負けたあとに朽木家の家臣となった。外様でありながら評定衆に命じられるなど、安養寺三郎左衛門尉と共に破格の扱いを受けている。背景には8000石の小国の国人領主だった朽木家の人材不足があり、浅井家の所領の大半を領地としたことで、構成する家臣たちの割合も外様が大半を占めることとなったことに起因する。そのため、評定衆といった重要な決断をする組織には、組織の均衡を保つために外様の人間を積極的に登用する必要があり、雨森弥兵衛がその一人として任じられた。家臣となってから、六角家が美濃の不破郡を攻めたことで困窮した坂田郡の国人領主たちの陳情を受け、経親や弥兵衛と共に朽木基綱に救済の嘆願に赴いている。当初は、朽木家に服属したいという坂田郡の国人領主たちの申し出だったが、六角家との関係や美濃の一色家と相対したくない基綱の思惑もあり、綿糸の原料となる綿花の種の融通と、石鹼の製法を秘密裏に教えることで決着を見た。この際、朽木家はいっさいこの件を知らないものとし、浅井郡の人間がひそかに坂田郡に流したものとするという、建前を約束させられた。

安養寺 三郎左衛門尉 (あんようじ さぶろうさえもんのじょう)

元浅井家の家臣だった男性。浅井家が朽木家、六角家との戦に負けたあとに朽木家の家臣となった。外様でありながら評定衆に命じられるなど、雨森弥兵衛と共に破格の扱いを受けている。背景には8000石の小国の国人領主だった朽木家の人材不足があり、浅井家の所領の大半を領地としたことで構成する家臣たちの割合も外様が大半を占めることとなったことに起因する。そのため、評定衆といった重要な決断をする組織には、組織の均衡を保つために外様の人間を積極的に登用する必要があり、安養寺三郎左衛門尉がその一人として任じられた。家臣となってから、六角家が美濃の不破郡を攻めたことで困窮した坂田郡の国人領主たちの陳情を受け、井口経親や弥兵衛と共に朽木基綱に救済の嘆願に赴いている。当初は、朽木家に服属したいという坂田郡の国人領主たちの申し出だったが、六角家との関係や美濃の一色家と相対したくない基綱の思惑もあり、綿糸の原料となる綿花の種の融通と、石鹼の製法を秘密裏に教えることで決着を見た。この際、朽木家はいっさいこの件を知らないものとし、浅井郡の人間がひそかに坂田郡に流したものとするという、建前を約束させられた。

竹中 重治 (たけなか しげはる)

かつて美濃の国人領主である竹中家の当主を務めていた男性。仮名や官名を含めた名前は「竹中半兵衛重治」。六角家の六角義治が美濃の不破郡を攻めた際に、調略によって不仲であるという噂を流された結果、主君の一色義興に後詰めの兵を送ってもらえず、不破郡を明け渡している。重治はこの一件によって義興との関係が悪化したため、家の存続のために弟へ家督を譲って国を出ることを余儀なくされており、それを知った朽木基綱が同じく狙っていた織田家を出し抜く形で召し抱えた。朽木家の家臣となってからは、新しく設けられた軍略方という役職に就けられると、軍議での基綱の相談役から城の縄張りや普請、砦の建設などに従事している。基綱からはその性格や、人柄を「おっとりお坊ちゃま」と称されており、その優れた容姿故に威圧感のある嗤(わら)いを浮かべる、同じ軍略方である明智光秀との均衡が絶妙であるとひそかに思われている。穏やかな性格ではあるものの、基綱の思考を予想して目線があっただけで頷(うなず)き返すなど、人並み外れた頭脳を持っている。越前の一向門徒を相手取った戦では、光秀、沼田祐光らと共に木ノ芽峠を中心とした防衛網の構築に従事して活躍している。その後も、坂田郡に新たに築城する今浜の城の縄張りにかかわるなどの活躍を見せている。実在の人物、竹中重治がモデル。

明智 光秀 (あけち みつひで)

かつて朝倉の家臣だった男性。仮名や官名を含めた名前は「明智十兵衛光秀」。美濃出身で、朝倉家の家臣として仕えていたが、家中の争いが酷(ひど)いため、それに嫌気が差して逃げ出している。その後、当時北近江一帯を手中に収めたばかりの朽木家の当主、朽木基綱によって召し抱えられ、新たに設立された軍略方という役職に就けられると、主に軍議における基綱の相談役から築城の縄張り、砦の建設などに従事している。基綱からひそかに色白の優男と称される美貌の持ち主で、その整った顔立ちからは窺(うかが)えないが30代後半の年齢。そのため、20代ばかりの軍略方の中では一番の年嵩で、その経験から来る強(したた)かな考えで「秀才熱血優等生」とも称される、最年少の沼田祐光の考えをサポートすることも多い。基綱からはその関係性を師弟のようだと思われている。ほかにも、基綱からは馬鹿を許せない性格と見なされており、朝倉家の当主である朝倉義景が一向門徒がせまりつつある中、家中がまとまらぬ状態にもかかわらず、曲水の宴を開いて雅に過ごしていた様を基綱から指摘された時には、かつて朝倉の家臣であった故にその性格を知っていた光秀は、危機感のない人物だからと義景の行いに対して嘲笑を浮かべている。朽木家に仕えてからは越前の一向門徒を相手取った戦で活躍しており、木ノ芽峠を中心とした防衛網の形成にほかの軍略方の二人と共に尽力している。また、坂田郡の今浜に新たに作る経済拠点となる城の築城の中心となって取り仕切っている。実在の人物、明智光秀がモデル。

沼田 祐光 (ぬまた すけみつ)

かつて若狭の家臣だった男性。仮名や官名を含めた名前は「沼田上野之介祐光」。朽木基綱が国をあとにせざるを得なかった竹中重治を召し抱えた際に、同時に明智光秀と共に召し抱えられている。朽木家の家臣となってからは、新たに設けられた役職である軍略方の一人として働いており、主に軍議での相談役から築城の縄張り、砦の建設などに従事している。その性格は基綱から「秀才熱血優等生」と称される人物で、同じく軍略方に務める明智光秀とは10歳ほど年齢が違うこともあって経験の違いから考えを質(ただ)されることもあり、師弟のような関係を築いている。朽木家に仕えてからは、主に越前での一向門徒を相手取った戦で活躍しており、木ノ芽峠を中心とした防衛網の形成に尽力した。また、若狭出身であるため、近隣である丹波も含めた情勢に詳しく、三好家の内藤宗勝が、冬がせまりつつある中で丹波での戦を決行した際には、雪が積もると途端に攻めづらくなる土地に関する知識から難しい表情を浮かべていた。ほかの軍略方である光秀、重治と共に城作りに強い意欲を示しており、縄張りから城普請までどれほど忙しくても請け負う姿勢を見せている。実在の人物、沼田祐光がモデル。

疋壇 昌之 (ひきだ まさゆき)

越前にある疋壇城の城主を務める男性。仮名と官名を含めた名前は「疋壇六郎三郎昌之」。朝倉家の家臣だったが、加賀から押し寄せる一向門徒との戦に朝倉憲景が向かったスキを突く形で、朽木基綱が敦賀制圧に乗り出した際、黒野影久が仕掛けた調略により寝返った。この調略は疋壇昌之のほかにも、手筒山城の城主だった寺田采女正成温(てらだうねめのしょうなりあつ)にも仕掛けられており、のちにこちらも裏切っている。それと共に氣比神宮の大宮司である氣比憲直が中立を表明したことで、朽木家の領地から敦賀へと続く道のりにほぼ敵は存在しなくなり、調略が成功した時点で影久をして敦賀は手に入ったも同然と言わしめている。基綱が敦賀へ向けて移動する際、威圧する目的で卯(う)の刻に出てから強行軍で疋壇城を訪れると、その意気込みを前にして昌之は度肝を抜かれている。さらには、城での歓待も拒否されたため、翌日には息子の疋壇晶定を人質として基綱に随行させている。

疋壇 晶定 (ひきだ まささだ)

疋壇城の城主を務める疋壇昌之の息子。仮名と官名を含めた名前は「疋壇右近晶定」。敦賀制圧へと乗り出した朽木基綱の行軍の際に、父親の昌之が朝倉家から朽木家に寝返ったことで、人質として基綱に預けられた。背景には、早朝に出立し道なき道を走破してきた強行軍ぶりに昌之が度肝を抜かれ、城での歓待も許されなかったことから、改めて追従の姿勢を示す必要性があると判断したことがある。

氣比 憲直 (けひ のりなお)

敦賀軍の曙町にある氣比神宮で、大宮司を務める男性。朽木基綱による敦賀侵攻の際に敵対せず、中立を保つことを宣言していた。基綱が敦賀の制圧を終えたあとに、陣中で命令に違反して鎧を脱いだ若者を殴りつけたという出来事を聞き、その人となりを噂どおりに鬼のような人物と認識している。好奇心旺盛な氣比雪乃という娘がいるが、活動的な娘を持て余している節がある。実在の人物、氣比憲直がモデル。

真田 幸隆 (さなだ ゆきたか)

元甲斐武田氏の家臣だった男性。仮名や官名を含めた名前は「真田弾正忠幸隆」で、剃髪してからは「一徳斎」と号している。史実では息子の真田信綱、真田昌輝、真田昌幸らと共に武田二十四将に数えられる名将で、孫には真田信繁(幸村)がいる。武田家の中でも指折りの有力武将だが、「第四次川中島の戦い」で史実とは異なり、武田家が上杉家に大敗を喫したことで信濃にあった領地を失って武田家の居候となった。しかし武田家家中では、信濃衆が上杉家へ寝返って所領をもらう心づもりなのではないかという不信感が根強く、また領地を急激に失った武田家が信濃衆を持て余していたのもあり、当主の武田信玄が病に倒れたのを機会に武田家を室賀満正、芦田信守らと共に去っている。その後、当初は信玄公が恨みを抱いていた相手ということもあり難色を示していたものの、弟や家臣の説得もあり、新興の大名ながら北近江の覇者として名を馳せはじめていた朽木家へ仕官することを決める。そして、満正や信守らの一族郎党200名と共に塩津浜を訪れると、日置行近を訪ねて仕官を申し出ている。その際、史実の知識を持っていた朽木基綱が即座に謁見を決めたため、旅塵を落とす間もなく呼びつけられると、少々の問答の末に3000石の禄(ろく)で召し抱えられることが決定した。朽木家の家臣となってからは、坂田郡を視察する基綱の護衛として付き従うと、ほかの武将とは違い、流通の活性化による経済力強化と、それによって得た財力を行動基盤に置く朽木家の思想に洗礼を受け驚愕(きょうがく)している。そして、早くこのやり方に慣れなければ主君の基綱にはついていけないと自らを戒めている。その後に、朽木家が敦賀に得た金ヶ崎城を預かり、三人の息子たちと共に敦賀を守っている。実在の人物、真田幸隆がモデル。

真田 信綱 (さなだ のぶつな)

真田幸隆の三人の息子の一人。嫡男。仮名や官名を含めた名前は「真田源太郎信綱」。鼻の上あたりに一文字に走る刀傷がある。父親の幸隆と共に甲斐の武田家を去って朽木家に仕えた人物で、敦賀にある金ヶ崎城で父親や兄弟と共に一向門徒に備えている。新しく仕えることになった主君の朽木基綱に強い興味を抱いており、送られてきた文を弟といっしょに食い入るように見つめていた。実在の人物、真田信綱がモデル。

真田 昌輝 (さなだ まさてる)

真田幸隆の三人の息子の一人。次男。仮名や官名を含めた名前は「真田徳治郎昌輝」。右の眉の上に縦並びの二つと、左の口元に一つ、特徴的な黒子がある。父親の幸隆と共に甲斐の武田家を去って朽木家に仕えた人物で、敦賀にある金ヶ崎城で父親や兄弟と共に一向門徒に備えている。新しく仕えることになった主君の朽木基綱に強い興味を抱いており、送られてきた文をきょうだいといっしょに食い入るように見つめていた。実在の人物、真田昌輝がモデル。

真田 昌幸 (さなだ まさゆき)

真田幸隆の三人の息子の一人。三男。仮名や官名を含めた名前は「真田源五郎昌幸」。父親の幸隆と共に甲斐の武田家を去って朽木家に仕えた人物で、敦賀にある金ヶ崎城で父親や兄弟と共に一向門徒に備えている。新しく仕えることになった主君の朽木基綱に強い興味を抱いており、送られてきた文を兄といっしょに食い入るように見つめていた。ほかに、明智光秀、竹中半兵衛、沼田祐光ら軍略方の三人が縄張りした城を見学して強い関心を抱き、今浜に築く予定でいる新しい城の縄張りがどのようになるかに興味が尽きぬ様子を見せていた。実在の人物、真田昌幸がモデル。

室賀 満正 (むろが みつまさ)

元甲斐武田家の家臣だった男性。仮名や官名を含めた名前は「室賀甚七郎満正」。「第四次川中島の戦い」が史実とは異なる結果を迎え、武田家が大敗したことで信濃の所領を失った。その後、同じ信濃衆と共に武田家の居候の身となっていたが、上杉家に寝返るのではないかという武田家家中からの不信の目や、急激に所領を失ったことで信濃衆を持て余さざるを得なくなった武田家のお家事情から、当主である武田信玄の病に倒れたのをきっかけに真田幸隆、芦田信守と共に武田家を去っている。背景にはこのほかにも、信濃という土地が元は上杉家に属する村上や高梨の土地であったため、ようやく奪還した土地を明け渡す見込みがなく、武田家を裏切るに裏切れなかったといった理由もある。武田家をあとにしてからは、北近江の覇者として新興の大名ながら名を馳せはじめていた朽木家へ仕官することを決めると、真田家、室賀家の一族郎党200名で塩津浜へたどり着き、日置行近を訪ねている。仕官の旨を伝えた際には、史実の知識を持っていた朽木基綱が即断したこともあり、旅塵を落とす間もなく謁見を許されると、簡単な問答の末、幸隆、信守と共に3000石の禄で即日に召し抱えられている。朽木家の家臣となってからは越前で一向門徒との戦を見据えて朽木家が動く中で、木ノ芽峠へ行き、田沢張満の指揮下に入るようにと信守と共に命を受けている。しかし、その簡単な命令の割に実際に現地へ着いてみると、木ノ芽峠に築かれていた複数の砦のうちの一つを任され、兵500に鉄砲20丁を付けられるという破格の待遇で迎え入れられた。これは軍役にして2万石相当の扱いで、同じ扱いを受けた信守ともども、この扱いに驚愕している。その後、この朽木家の出鱈目(でたらめ)な風潮を信濃衆へ警告しなければと、文をしたためることを信守と共に考えるが、その際、高野瀬秀隆が基綱のものぐさな一面を表した「とにかく押しつけてやらせてしまえ」という言葉を思い浮かべ、外様だろうといっさいの差別をしない家風に、ほかの信濃主たちもこぞって来るだろうと、予想していた。実在の人物、室賀満正がモデル。

元甲斐武田家の家臣だった男性。仮名や官名を含めた名前は「芦田四郎左衛門信守」。信濃土豪の一族で、元は独立した国人領主。史実では甲斐武田氏に仕えると信濃先方衆として活躍し、「第四次川中島の戦い」では妻女... 関連ページ:芦田 信守

黒野 影久 (くろの かげひさ)

朽木家が召し抱える忍者集団「朽木八門衆」の頭領を務める男性。仮名や官名を含めた名前は「黒野重蔵影久」。古くは源義経に仕えて歴史の裏で活躍しながらも、主運に恵まれず不遇を託(かこ)ってきた鞍馬(くらま)忍者を率いてきた人物で、表の顔としていた木地師が世話になった縁から徐々に頭角を現し始めていた朽木基綱の人となりを噂に聞き、雇われようと寝込みに忍び込んで直談判(じかだんぱん)した。その際、鞍馬忍者の来歴を知った基綱によって雇うのではなく、召し抱えることを決断されると同時に、朽木家の隅立四ツ目結の家紋にちなんだ「八門」という名前を鞍馬忍者に授かった。基綱に仕えて以後は朽木八門衆で収集した各地、各家の情報や内情を知らせると共に、基綱が警戒する勢力に対する調略任務を担い、急成長を遂げる朽木家の躍進を陰から支えた。忍びとしての実力は六角家の甲賀など、著名な忍びの者たちにまったく劣らないもので、本拠地の位置すら明かさない周到さも持ち合わせる。仕えるべき主を見出せずにいた鞍馬忍者に名前と破格の待遇を与えてくれた基綱に心服しており、忠義を捧げている。嫡男に息子の黒野小兵衛がいるが、現在は見習いとして里での訓練に励ませている。元は前頭領の一人娘を妻に娶ったという話があり、息子の小兵衛を産んだ際に生来の体の弱さから死別している。そのため、本来は頭領の家系の人間ではないが、婿(むこ)養子となって家を継いだ。忍びらしく謹厳実直で感情を表に表さず、白目と黒目の逆転した特徴的な瞳を持った人物ながら、基綱の寄せる信頼に思わず感謝の表情を浮かべることもしばしばある。また、特別に感状を賜った際には、思わず涙していた。

黒野 小兵衛

朽木八門衆の頭領である黒野影久の嫡男。外働きを許されておらず、もっぱら里に残って頭領から課されている訓練に明け暮れる日々を送っている。同い年のキリというくノ一を妻として娶っており、お互いのあいだには「八彦」という子供を設けている。嫡男である一方、妻のキリが外働きを許されているにもかかわらず、自らは未(いま)だに役に立てていない現状に懊悩(おうのう)している。また、経験不足から来る知識のなさが原因で、組頭たちの報告会では内容がわからず、キリに気を回されるまで身を縮めているしかなかった。そのため、外働きをするみんなを羨む余りキリに八つ当たりする時もあったが、その際は、グチグチと悩みながらも訓練を続けている黒野小兵衛の人柄や、頑張りを認めるキリの大らかな愛情に絆(ほだ)され、一応の解決を見ている。

キリ

朽木八門衆のくノ一の一人。18歳となり朽木綾の側仕(そばづか)えとして働いている。朽木八門衆の頭領を務める黒野影久の嫡男、黒野小兵衛の妻で、20歳となった際に「八彦」という子供を設けている。出産を機に、綾の側仕えを辞するためにヒマをもらっていたが、その後は里に残って訓練に明け暮れる小兵衛に八彦を預けると、再び朽木家の城で働いている。嫡男でありながら外働きを許されず、訓練ばかりを送る日々に懊悩する小兵衛をよく支えている人物で、グチグチと悩みがちな小兵衛の性格も含めて愛している。その仲睦まじい様子は、小兵衛とキリが結ばれる前から見守っていた朽木八門衆の組頭たちからも温かく見守られており、夫婦仲がよい様子に正木正昭などは、好いた相手と結ばれてよかったと安堵している。

小酒井 幸孝 (こさかい ゆきたか)

朽木家が召し抱える忍び集団「朽木八門衆」において、一の組頭を務める男性。仮名や官名を含めた名前は「小酒井秀介幸孝」。丸顔の初老の人物で、朽木八門衆が朽木基綱に召し抱えられた際には、基綱が下した任務である朝倉家を探る任務に従事している。朽木八門衆の頭領を務める黒野影久の嫡男、黒野小兵衛の技の師匠でもある。

正木 正昭 (まさき まさあき)

朽木家が召し抱える忍び集団「朽木八門衆」において、二の組頭を務める男性。仮名や官名を含めた名前は「正木弥八正昭」。朽木八門衆が朽木基綱に召し抱えられた際には、基綱が下した任務である浅井家を探る任務に従事している。キリと黒野小兵衛の恋路を心配しており、仲睦まじく子を育んでいる姿を見て安堵する様子を見せていた。

村田 綱安 (むらた つなやす)

朽木家が召し抱える忍び集団「朽木八門衆」において、三の組頭を務める男性。仮名や官名を含めた名前は「村田伝兵衛綱安」。痩せた体型で毒舌家。朽木八門衆が朽木基綱に召し抱えられた際には、基綱が下した六角家を探る任務に四の組頭である石井光久と共に従事している。

石井 光久 (いしい みつひさ)

朽木家が召し抱える忍び集団「朽木八門衆」において、四の組頭を務める男性。仮名や官名を含めた名前は「石井佐助光久」。たくましい体軀の持ち主ながら、超慎重派と称されている。朽木八門衆が朽木基綱に召し抱えられた際には、基綱が下した六角家を探る任務に三の組頭である村田綱安と共に従事している。

瀬川 昭良 (せがわ あきよし)

朽木家が召し抱える忍び集団「朽木八門衆」において、五の組頭を務める男性。仮名や官名を含めた名前は「瀬川内蔵助昭良」。老人のような容姿で歯も欠けているが、そういう風に装っているだけで、実際には外見以上に若い人物。朽木八門衆が朽木基綱に召し抱えられた際には、基綱が下した任務のほかに独自の方針として頭領の黒野影久が下した高島七頭の様子を探る任務に、六の組頭である佐々義一と共に従事している。

佐々 義一 (ささ よしかず)

朽木家が召し抱える忍び集団「朽木八門衆」において、六の組頭を務める男性。仮名や官名を含めた名前は「佐々八郎義一」。額と頰に刀傷があり、人相が非常に悪い。朽木八門衆が朽木基綱に召し抱えられた際には、基綱が下した任務のほかに独自の方針として頭領の黒野影久が下した高島七頭の様子を探る任務に、五の組頭である瀬川昭良と共に従事している。

望月 延良 (もちづき のぶよし)

朽木家が召し抱える忍び集団「朽木八門衆」において、七の組頭を務める男性。仮名や官名を含めた名前は「望月主馬延良」。女装の似合いそうな細面の顔立ちをしている。九の組頭を務める梁田幸保と共にほかの組頭が外働きをする中、里に残っている。

佐田 満重 (さた みつしげ)

朽木家が召し抱える忍び集団「朽木八門衆」において、八の組頭を務める男性。仮名や官名を含めた名前は「佐田弥之助満重」。耳飾りや雅な服装に身を包み、京都訛(なまり)の口調で話す。また、京の漆器売り商人としての顔を持つ。朽木八門衆が朽木基綱に召し抱えられた際に下された、京に拠点を作る任務をこなしている。所在地が京ということで、公家や朝廷の情報に詳しく、基綱が慶事のたびに祝いの品を盛大に贈ったことが市井でも評判になっていることを報告した。一方で、同じく京で活動をする三好家に対して調略を行っており、特に三好長慶の後継者を巡って問題が発生していた時期には、三好実休や安宅冬康が本家を乗っ取ろうとしているという噂を流し、三好家内部の混乱をより大きくしていた。

梁田 幸保 (やなだ ゆきやす)

朽木家が召し抱える忍び集団「朽木八門衆」において、九の組頭を務める男性。仮名や官名を含めた名前は「梁田千兵衛幸保」。恰幅(かっぷく)のよい豊満な体格で、吃音(きつおん)気味に話す特徴がある。ほかの組頭が外働きをする中、七の組頭である望月延良と共に里に残っていることが示唆されていた。

当麻 葉月 (とうま はづき)

朽木家が召し抱える忍び集団「朽木八門衆」において、十の組頭を務める女性。境で刀剣や武器を売る「桔梗屋」を営む商人としての顔を持つ。実年齢よりも若く見える美貌と豊満な体つきで、一度笑い出すと止まらなくなる癖がある。主君の朽木基綱を前にしても物怖(お)じせずに我を通す心胆の持ち主であり、堅田を巡る一件を報告するために家臣団の前で基綱と面した際には、歯に衣(きぬ)着せず基綱が相手から舐(な)められていると言い放つだけでなく、顔のすれすれに苦無(くない)を投げつけるという暴挙に出た。朽木八門衆の頭領である黒野影久とは古なじみで、彼にはその性格をよく知悉(ちしつ)されている。そのため、基綱に当麻葉月が暴挙を働いた際には、この展開を予期されていたのか、影久に眉間を抑えるほどの苦悩の表情を浮かべさせている。

奈津 (なつ)

朽木小夜の侍女。元は六角家の六角六人衆の平井家に雇い入れられた女性で、数年前に平井定武が雇った。のちに小夜が朽木家の朽木基綱へ嫁いだことで、小夜を支えるために同行を願い出て、朽木家でも引き続き小夜の侍女を務めている。実は甲賀の者で、三雲定持によって平井家へ潜り込まされていた間者。平井家に雇われた当初は、実力者である定武の動向をそれとなく探りたかった思惑があると見られている。しかし、その後に小夜が朽木家へ嫁いだことで、朽木家の内情を探る使い道が生まれ、小夜に同行したうえで定武に命じられていた平井家への文とは別に、甲賀へも情報を流していた。その行いは、朽木家の朽木八門衆に看破されると、問題が大きくなる前に基綱から定武へと知らされ、両名立ち会いのもとで身柄を拘束されると平井家へと渡されたうえで処断されている。朽木八門衆の頭領である黒野影久は、朽木家の情報を手に入れる以外にも、六角家内部では親朽木派に属する平井家を排除するための謀略に利用しようと、六角義治が命じたのではないかと推察している。

美津 (みつ)

朽木家の女中。朽木家家臣の娘ながら行儀見習いを兼ねて城に上がっている女性で、当主の朽木基綱の正室で、奈津と年近い朽木小夜のそばに侍ることも多い。小夜のことを心の中で心優しい天女として慕っており、六角家と朽木家が将来的に手切れとなって敵対した時に実家に帰るかを問われ、応えられぬまま悲嘆していた小夜を見かねて発破を掛けた張本人でもある。毎日のように涙に暮れていた小夜を見かねた奈津が、宿直が黒野影久である時に小夜を基綱のもとへ連れ出すと、直接に思いを伝えるよう半ば強要した。その時、影久とは目線だけで通じ合い、小夜と基綱を二人きりにすることに成功している。

四国や畿内の覇権を握る三好家の当主を務める男性。仮名や官名を含めた名前は「三好筑前守長慶」。現代の知識を持って転生した朽木基綱が生きる時代において、最も天下人に近い人物で室町幕府の征夷(せいい)大将軍... 関連ページ:三好 長慶

三好 長逸 (みよし ながやす)

三好家の重鎮である男性。三好長慶の祖父の弟で、大叔父にあたる。仮名や官名を含めた名前は「三好孫四郎長逸」。現代の知識を持って転生した朽木基綱が朽木家の家督を継いで頭角を現し始めていた頃、岩神館に逼塞していた将軍の足利義藤に対して三好家攻略の空論を耳にして、当主である長慶と共に基綱へと目を付けた。当初は味方に付けたいという方針のもと、公家や朝廷へ送る正月の祝いの品を誤って配下が強奪してしまったという狂言を用いて、その謝罪という呈で朽木谷へ3000の兵と共に押しかけると、わずか5歳の基綱を相手に交渉に及んでいる。その際、将来的に三好家が手に入れる若狭の領土と引き換えに、足利家を裏切って三好家に付くよう告げている。しかし、三好長逸が長慶にこの取り引きの許可を取っていなかった点や、三好家がまだ手に入れていない若狭を褒賞としている点など、基綱からは空手形だと看破されており、実質的には3000の兵力による脅し以外のなにものでもなかった。さらには、基綱と二人だけでの会談を終えた別れ際に、幕臣たちがひそかに覗(のぞ)き見ているのを知りつつ「先程の件」をよろしくお願いすると、疑心を招く物言いを告げて退路を断とうと画策し、6歳を相手取って本気の交渉を仕掛けている。だが、この時は基綱に会談の内容を暴露されたうえで、たとえ3000が3万になろうと将軍家は裏切らないと、啖呵(たんか)を切られたことで朽木家を味方に付ける調略は失敗に終わり、長逸は会談の失敗を悟っていた。会談の折には自分と話す基綱の口ぶりや剛胆さ、老獪(ろうかい)さから長逸自身と同年代を相手にしているようだと、相手の年齢を疑う軽口を叩くなどしながら、基綱の実力を認める素振りを見せていた。実際に現世で50代まで生きていた頃の経験を知識として持っている基綱が相手だったので、その所感はある種の的を射ていた。実在の人物、三好長逸がモデル。

三好長慶亡きあとの三好家の当主を継いだ男性。仮名や官名を含めた名前は「三好孫六郎重存」。三好家の家督を継ぐ前は、長慶の弟である十河一存の一人息子として十河家の嫡男として育っており、「十河孫六郎重存」と... 関連ページ:三好 重存

松永 久秀 (まつなが ひさひで)

三好家の重臣である男性。当主である三好長慶の信頼厚い実力者で、弟の内藤宗勝も含めて、三好家の屋台骨の一角を形成している。長慶が病死したあとに起こった畠山高政と三好家の戦に、三好実休、安宅冬康といった重鎮たちと共に参加して事に当たっている。実在の人物、松永久秀がモデル。

三好家の重臣である松永久秀の弟。仮名や官名を含めた名前は「内藤備前守宗勝」。久秀と同じく三好家に仕え、武将としての才覚は久秀を上回るとされる。三好家が手に入れた丹波の所領を預かっており、若狭の武田家を... 関連ページ:内藤 宗勝

将軍家である足利家の当主で、足利幕府第十三代征夷大将軍を務める男性。のちに「足利義輝」と名前を改めており、仮名や官名を含めた名前は「足利左近衛中将義輝」。征夷大将軍をあらわす「公方(くぼう)」と呼ばれ... 関連ページ:足利 義藤

細川 藤孝 (ほそかわ ふじたか)

幕臣として足利義藤に仕える男性。官名や仮名を含めた名前は「細川兵部大輔藤孝」。三好家との戦に敗れて朽木家へと逃げて来た義藤に付き従っていた幕臣の一人で、岩神館に逼塞しているあいだはなにかと朽木家や朽木基綱のもとへ使わされていた。基綱が行っていた銃を使用した調練を見学に来た際には、三人一組の三段撃ちによって相手方の侍大将や物頭を確実に狙うという、基綱の冷酷な戦術眼に「この幼児は」と震懼(しんく)していた。朽木家が公家や朝廷の力を使って足利家と三好家の和睦を成立させ、義藤が長年の逼塞から京へ戻るとそれに付き従って岩神館をあとにしている。その後も、基綱と平井小夜(朽木小夜)の婚礼の場に義藤の名代として出席したり、大舘藤安が基綱を激怒させ義藤との関係を断とうとした際に、幕府方の使者として朽木家へ謝罪を申し入れに赴いていたりと、たびたび朽木家とかかわりを持っている。実在の人物、細川幽斎がモデル。

細川 晴元

幕府の重臣である細川家の男性。将軍を補佐する管領という役職にある。官名や仮名を含めた名前は「細川左京大夫晴元」で、「細川六郎」と呼ばれることもある。かつては家臣である三好家に盛り立てられ、主君として将軍家である足利家の家督争いを戦うなど親しい関係にあったが、三好長慶の父親を裏切って相手方につき、その死の原因を作った過去がある。そのため長慶にとっては許し難い父親の仇にほかならず、たびたび行われた三好家と足利家、細川家による戦の際には、和睦の条件に晴元を許さないことが明記されていた。しかし、足利義藤によってこの和睦の条件は幾度も無視され、その度に戦が起こされている。このように細川晴元を義藤がそばに置き続けることが三好家にとって義藤の取り扱いを難しくしており、頭痛の種となっていた。最終的には朽木家の朽木基綱によって、長らく岩神館に逼塞していた義藤を京へ帰すために公家や朝廷の力を使って和睦が結ばれた際に、改めて晴元の去就について管領から外されることとなった。さらに、別人を管領に就けることが条件として明記され、受諾されたことで一応の解決を見ている。しかし、このことは晴元を切り捨てる決断にほかならず、この和睦成立の中心に立った朽木家と晴元のあいだに因縁を生み出すきっかけとなった。嫁に六角家の娘を娶っており、六角義賢とは義理の兄弟の関係にある。そのため、六角家が「観音寺崩れ」の騒動によって当主を失った際に、後継者候補として晴元の次男が選ばれ、のちに六角輝頼と名乗って六角家の家督を継いでいる。実在の人物、細川晴元がモデル。

大舘 藤安 (おおだち ふじやす)

征夷大将軍である足利義藤の側近で、新しく六角家を継いだ六角輝頼に就けられた男性。官名や仮名を含めた名前は「大舘兵部藤安」。永禄7年の7月に三好長慶が病死したのを機に朽木基綱のもとを訪れ、かつては六角家の領地だった坂田郡の半分を返却し、輝頼のもとへ挨拶に出向いて来るようにとの、六角家に有利な申し立てを一方的に行った。基綱は当然、その要求に激怒し断ったが、その際に大舘藤安が将軍家(足利家)からの使者であると騙(かた)ったため、基綱は「朽木のことはご放念いただきたい」と義藤へ告げるよう伝え、朽木家と将軍家のあいだに致命的な決裂をもたらした。これにより、朽木家は将軍家からの使者や文をいっさい受け付けぬ状態となったが、最終的には朽木家と親交のある細川藤孝が朽木稙綱に懇願することで、謝罪を受け入れてもらうことで決着している。一方、藤安ら輝頼のそばに付けられた幕臣たちは今回の件で義藤(当時は義輝)から叱責をもらうこととなり、六角家との関係以上に朽木家を重んじる将軍家の姿勢を以前よりも強調することとなった。一連の申し入れの背景には、年若い輝頼が六角家中を掌握できていない地盤のもろさがあり、このままでは将軍家に有利になるように家督を継がせた意味がなくなると案じた幕臣たちの懸念があった。そのため、北近江の覇権を握る基綱に六角家の要求を吞ませることで箔(はく)をつけようと幕臣たちが画策し、藤安が実行役を担った。一連の騒動のあとも、藤安は義藤から激しい叱責をほかの幕臣ともども受けたものの幕府重臣の一族ということもあり、腹を切らされることだけは免れている。実在の人物、大舘藤安がモデル。

淡海乃海の南方に、巨大な所領を抱える六角家の当主を務める男性。仮名や官名を含めた名前は「六角左京太夫義賢」で、出家してから名乗った名前は「承禎」。そのため、「六角承禎入道」とも呼ばれる。近隣で急速に所... 関連ページ:六角 義賢

六角家の当主である六角義賢の嫡男。仮名や官名を含めた名前は「六角右衛門督義治」。幼い頃から六角家の後継者として育てられており、重要な軍議の場にも六角家を支える屋台骨である六角六人衆と共に参加させられ、... 関連ページ:六角 義治

六角 義定 (ろっかく よしさだ)

六角家の後継者である六角義治の弟。仮名や官名を含めた名前は「六角次郎左衛門尉義定」。兄の義治に代わる次期後継者候補として名前が挙がってきた人物。背景には義治の主導で侵略して手に入れた美濃の不破郡が、一色家との紛争地帯となったことで、旧浅井領だった坂田郡をはじめとする国人衆が貧困に喘ぎ、義治が支持を失ったことがある。地盤が揺らいだ義治の立場を盤石なものとするため、父親であり当主の六角義賢が隠居し、義治に家督を継がせるも時機を逸しており、それを見て取った一色家に仕える鉢谷衆による調略もあって、市中に義治に代わって六角義定が当主となるべきという、噂が広がることとなった。また、この噂に対して義定本人も乗り気となった結果、兄弟仲は義賢による仲介も意味を成さないほど悪化の一途をたどっていった。転機となったのは、朽木家の当主である朽木基綱による提案で、朽木家はその時期、北方の朝倉家との戦を視野に入れていたため、背後の守りとして六角家に盤石でいてもらう必要があった。そのため、自らに反感を持つ義治、義定に思うところはあるものの、家臣からの進言もあり、六角家の家督を巡る争いを解決するため、どちらか一名を引き取る提案を義賢へと申し入れている。同様にこの問題に頭を悩ませていた義賢は基綱の提案を受け入れ、義治を基綱のもとへ預ける覚悟を決める。これによって義定が次期当主として六角家の家督を継ぐことになるが、家督相続の場で義治によって「観音寺崩れ」が起こされ、義賢や六角六人衆の一人である後藤賢豊と共に凶刃に倒れる結末を迎えた。実在の人物、六角義定がモデル。

六角 輝頼 (ろっかく てるより)

六角家の当主として外部から迎えられた男性。官名や仮名を含んだ名前は「六角左京太夫輝頼」で、左京太夫は六角義賢が名乗っていたものにちなむ。六角家が当主の六角義治が引き起こした「観音寺崩れ」の騒動によって、前当主で義治の父親である義賢と後継者候補で弟の六角義定を失うと、騒動の責任を取らされた義治が蟄居させられたために一時的に当主の座が空位になった。これを解決するべく動いた家臣たちによって、先の管領代であった六角定頼の娘を娶っていた細川晴元の次男で、義賢の甥にあたる六角輝頼が見出され、将軍家である足利家の取りなしもあって、六角家の当主として家督を継ぐこととなった。父親の晴元は三好家とのあいだに因縁浅からぬ事情があり、たびたび足利家と組んでは戦を行っているほどに仲が悪い。その影響から当主の座に座るだけで六角家が反三好として周囲から見られるという背景を持つ人物で、六角家の当主となってからは、幕府から大舘藤安ら幕臣がそばへと付けられており、幕府の意向を六角家の家臣たちよりも重要視する体制が作られた。また、父親の晴元は朽木家がかつて足利家と三好家のあいだの和睦を、公家や朝廷の力によって強引に取りまとまめた際、その和睦の条件として幕府の中央から排斥された人物であり、朽木家に対しても因縁を持っていた。子供である輝頼もそのことを知っており、幕臣ともども朽木家のことを妬ましく思い見下す傾向があり、朽木基綱の頭を悩ませる要因となっている。六角家の当主に据えられた背景から家中に後ろ盾の少ない状況にあり、唯一の後ろ盾ともいえるのが将軍の足利義藤(当時は義輝)ら幕府だったが、「永禄の変」が三好家によって起こされ、二条御所を襲撃された義藤や幕臣たちが命を落とすと、途端に基盤が脆弱(ぜいじゃく)なものとなってしまう。そのため、「永禄の変」に呼応するように時を置かず、蟄居していた義治が命を落とした件は公表された病死ではなく、輝頼らの手によるものだろうと基綱によって推察されている。

平井 定武 (ひらい さだたけ)

六角家の有力な家臣である六角六人衆の一つ、進藤家の当主を務める男性。仮名や冠位を含めた名前は「平井加賀守定武」。朽木基綱の正室となる朽木小夜の父親でもあり、基綱の舅にあたる。六角家に臣従していた浅井家から人質として嫡男の浅井賢政(当時は猿夜叉丸)を家で預かっており、妻の平井美緒と共に、息子の平井高明や娘の小夜と分け隔てなく育てていた。その後、元服を迎える歳まで賢政が育つと、浅井家へと返し、今度は六角家の当主であった六角義賢の義理の娘として小夜を養子としたうえで賢政と婚姻を結ぶ。しかし、わずか数か月で小夜は離縁されると平井家へと送り返されている。その後、今度は近隣で急成長を遂げていた朽木家の当主、基綱と娘の小夜のあいだに婚姻の話が持ち上がり、浅井家の時と同様に義賢の義理の娘としたうえで婚儀を結んでいる。朽木家と縁戚となったことで文を通してのやりとりを頻繁にしており、六角家家中の情報を基綱へ知らせる情報源としての役割を担っている。逆に、浅井家との戦の後に北近江の覇者となった朽木家を六角家へつなぎ止める役割も果たしており、六角家中での立ち位置の重要性も増していった。一方、六角家の後継者である六角義治が父親の義賢や弟の六角義定、一方的に恨んでいた後藤賢豊を手に掛けた「観音寺崩れ」の騒動を起こした際には、ほかの六角六人衆ともども自らの領地へ引き上げている。さらには、仇討ちを名目に義治討伐の宣言を挙げた後藤壱岐守を、平井家や目賀田家と共に支持して旗幟を鮮明にしている。義治が蟄居させられたのちに、六角家が新たな当主として義賢の縁戚である幕臣の細川家より六角輝頼を迎えたあとも、領内の混乱を収めようとほかの家臣たちと尽力している。実在の人物、平井定武がモデル。

蒲生 定秀 (がもう さだひで)

六角家の有力な家臣である六角六人衆の一つ、進藤家の当主を務める男性。仮名や冠位を含めた名前は「蒲生下野守定秀」。六角家の中でも海千山千の実力者で、浅井家と六角家の戦である「野良田の戦い」でも先陣を務めて浅井家の軍勢と戦った。同じ六角六人衆の一人である三雲定持と共に、六角家の後継者である六角義治を盛り立てようと親しくしており、美濃の一色家と事を構えた不破郡の一見では義治の強硬な侵略策や織田信長の妹を娶っての同盟策などを支持し、困窮に喘いでいた国人衆の代弁者的立場にあった後藤賢豊と対立している。しかし、義治の暴走が目に余るようになると、定持と共に義治をもてあまし始め、距離を置こうと考えるようになる。だが、それを後ろ盾の乏しかった義治が蒲生定秀も定持も離したがらず、執着されたため、その様子を知った朽木基綱からは、自分が将軍家である足利家に付きまとわれて困っているのと同じだと同情されていた。その後、義治が父親の義賢や弟の六角義定を手に掛けた「観音寺崩れ」の騒動を起こした際には、この時に命を落とした後藤賢豊を除いた、ほかの六角六人衆ともども自身の領地へ引き上げている。しかし、それによって居城であった観音寺城の防備が機能しなくなったことに気がついた義治が蒲生家の日野城へ逃げ込んできたため、この時も距離を置くことに失敗している。結果として、義治は蟄居させられ定秀もようやく距離を置くことに成功するのだが、今度は新たな当主として義賢の縁戚である幕臣の細川家より迎えた六角輝頼や、そのお付きの幕臣たちによって義治よりの人間と、定持ともども見られ不遇な扱いを受けることになる。最終的には自身の息子に家督を譲って事を収めざるを得ない状況まで、義治との縁は尾を引くこととなった。実在の人物、蒲生定秀がモデル。

三雲 定持 (みくも さだもち)

六角家の有力な家臣である六角六人衆の一つ、三雲家の当主を務める男性。仮名や冠位を含めた名前は「三雲対馬守定持」。六角家の所領の一つである甲賀郡を治める実力者で、忍びとして有名な甲賀者を使って情報収集から調略活動など、六角家の忍び働きを担う。そのため、朽木家の朽木八門衆とは朽木基綱の情報や朽木家の領内を調べる際に対立することもしばしばあった。しかし、朽木八門衆によって忍び働きの多くは阻止され、手に入れられたのは「朽木八門衆」という名前であるという情報のみに留まっている。また、六角家が浅井家との戦に突入していった際には、「野良田の戦い」の背後で浅井家と朝倉家が共同して動いていたことや、高野瀬秀隆に対する調略が浅井賢政が元服するよりも前の時期から行われていたこと、さらには、朝倉家のみならず若狭の武田義統も浅井家と通じている節があるとの情報を、基綱に知らされるまで何一つとして把握していなかったという失態を犯している。しかし、これについては三雲定持だけの責任とはいいがたく、六角家の当主である六角義賢の方針や立地関係もあって京や三好家を重要視する傾向があったのが要因となっている。また、一方の浅井家は戦に突入するまでは味方であり、朝倉家は北方で一向門徒による一揆に押されがちだったことから注視しづらい状態にあった。六角家内では蒲生定秀と共に、後継者である六角義治を盛り立てる傾向にあり、基綱からは当初、親義治の人間と見られていた。しかし、義治の暴走が日に日に増していくに連れて付き合いきれなくなり、定秀と共に義治から距離を置こうとした頃には、逆に後ろ盾の少ない義治に執着され、逃げ切れない状況に追い込まれていった。ようやく義治から離れられたのは、義治が父親の義賢や弟の六角義定を手に掛けた「観音寺崩れ」の騒動を起こした際で、この時に命を落とした後藤賢豊を除いた、ほかの六角六人衆ともども自らの領地へ引き上げている。だが、騒動の責任を取って義治が蟄居させられたあと、幕臣で義賢の縁戚である細川家から六角輝頼を当主として迎えたあとも、輝頼らに義治よりの人間だったと見られ不遇な扱いを受けることになる。実在の人物、三雲定持がモデル。

六角家の有力な家臣である六角六人衆の一つ、後藤家の当主を務める男性。仮名や官名を含めた名前は「後藤但馬守賢豊」。同じ六角六人衆である進藤賢盛と共に「両藤」と称えられる実力者で、他家に対する調略をはじめ... 関連ページ:後藤 賢豊

後藤 壱岐守 (ごとう いきのかみ)

六角家の有力な家臣である六角六人衆の一つ、後藤家の嫡男。六角家の後継者であった六角義治が引き起こした「観音寺崩れ」の騒動の際に、彼と反目していた父親の後藤賢豊を手に掛けられ失っている。ほかにも義治の父親で実質的な権力者であった六角義賢や、弟の六角義定を手に掛けたこの騒動のあとに、六角六人衆の目賀田忠朝、平井定武、進藤賢盛の支持を得ると父親の敵を名目に義治討伐を宣言し、六角家の現体制に反旗を示した。その後、義治が蟄居に追い込まれると、新たに義賢の縁戚である幕臣の細川家より迎えられた六角輝頼を当主に、混乱を極める六角家のざわつきを収めようと、ほかの六角六人衆と共に奔走している。

進藤 賢盛 (しんどう かたもり)

六角家の有力な家臣である六角六人衆の一つ、進藤家の当主を務める男性。仮名や官名を含めた名前は「進藤山城守賢盛」。同じ六角六人衆の一人である後藤賢豊と共に、「両藤」として称えられる実力者で、六角家の重要な会議や催しに出席しており、当主である六角義賢によく仕えている。特に六角家が浅井家と争った「野良田の戦い」が終わったあとに行われた会議では、朽木基綱が独自に入手した情報をもとに今回の一連の騒動はすべて、隠居したはずの浅井家元当主、浅井久政による謀(はかりごと)であったのではないかと推察し、義賢に進言している。基綱に対しては彼が六角六人衆の一家である平井家の娘を、六角家当主である義賢の、義理の娘として娶った際に、その婚礼の場へ賢豊と共に駆け付けている。また、基綱が正月に観音寺城を訪れた際には三雲定持、蒲生定秀を除く六角六人衆と共に出迎えるなど、幾度か顔を合わせている。六角家の後継者であった六角義治が義賢や弟の六角義定、六角六人衆の後藤賢豊を手に掛ける「観音寺崩れ」の騒動を起こすと、ほかの六角六人衆と同様に観音寺城の曲輪をあとにして所領へと帰っている。その後、父親である賢豊の仇討ちを名目に義治討伐を宣言した後藤壱岐守を支持することを、平井定武や目賀田忠朝らと共に表明し、反義治の姿勢を明確にしている。一連の騒動のあと、義治が蟄居へと追い込まれ、新たな当主として義賢の縁戚で幕臣である細川家より六角輝頼が迎えられると、混乱の収まらない六角家領内をまとめようと、ほかの家臣たちと共に奔走している。実在の人物、進藤賢盛がモデル。

目賀田 忠朝 (めがた ただとも)

六角家の有力な家臣である六角六人衆の一つ、目賀田家の当主を務める男性。仮名や官名を含めた名前は「目賀田次郎左衛門尉忠朝」。六角家の屋台骨ともいえる六角六人衆の一人として、六角家の重要な会議や催しに出席しており、当主である六角義賢によく仕えている。しかし、その後継者である六角義治が義賢や弟の六角義定、六角六人衆の後藤賢豊を手に掛ける「観音寺崩れ」の騒動を起こすと、六角家の居城であった観音寺城の曲輪をあとにし、所領の目賀田城へと帰っている。その後、父親である賢豊の仇討ちを名目に義治討伐を宣言した後藤壱岐守を支持することを、同じ六角六人衆の一人である平井定武や進藤賢盛らと共に表明し、反義治の姿勢を明確にしている。一連の騒動のあと、義治が蟄居へと追い込まれ、新たな当主として義賢の縁戚で幕臣である細川家より六角輝頼が迎えられると、混乱の収まらない六角家領内をまとめようと、ほかの家臣たちと共に奔走している。

鯰江 為定 (なまずえ ためさだ)

六角家に仕える家臣の一人で、鯰江城の城主を務める男性。仮名や官名を含めた名前は「鯰江備前守為定」。朽木基綱の父親、晴綱の姉である照、すなわち基綱の伯母を娶っており、血縁上は義伯父の関係にある。しかし、義弟の晴綱が戦死した時でさえ人を送らなかったほど付き合いが途絶えていた。朽木家が高島七頭の領地をすべて所領とするほどの成長を見せると、浅井家と六角家のあいだに起こったクーデターである「野良田の戦い」において、六角が命じたのではなく朽木家から自主的に兵力を出させるための使者として派遣される。親戚付き合いも碌(ろく)にしていない関係だったが、この際は基綱が兵を派遣したことで面目を失わずに済んでいる。この時、基綱に兵を出させるために、六角家が朽木家へ不満を持っているという体を装うよう指示されていたことを基綱に知られている。このことが「野良田の戦い」で功績を挙げた基綱が、褒賞と引き換えに六角義賢から不満を抱いていないという言質を引き出す結果へとつながっている。「野良田の戦い」後も基綱とは交流を維持し続けている様子が窺えるものの、三好家の内藤宗勝が近江に攻め入る様子を見せた際に、朽木家が軍を集結させた動きを無視するなど、つかず離れずの距離を保ち続けている。

平井 美緒 (ひらい みお)

六角家の有力な家臣である六角六人衆の一つ、平井家の当主を務める平井定武の妻。朽木基綱の正室となる朽木小夜の母親で、基綱の姑にあたる。幼い頃に浅井家の嫡男、浅井賢政が人質として六角家へ差し出された際、平井家で預かっていたために面識がある。そのため、娘が賢政へ嫁いでさほど月日も経たずに離縁され出戻って来たことを酷く気にしており、塞ぎ込んでいる小夜を心配に思っていた。その後、基綱と小夜の縁談が持ち上がった際には、基綱から送られてきたさまざまな贈り物や、心配りの行き届いた文のやりとりなどから、よい縁談が来たと安心した様子を見せている。小夜のほかには、平井家の嫡男で小夜の兄、平井高明がおり、二人で朽木家へ嫁いだ小夜へ文を出している様子が窺える。

平井 高明 (ひらい たかあき)

六角家の有力な家臣である六角六人衆の一つ、平井家の嫡男。平井定武の息子で、朽木基綱のもとへ嫁いだ朽木小夜の兄。仮名や官名を含めた名前は「平井弥太郎高明」。浅井家の嫡男であった浅井賢政が人質として平井家に預けられていたため、妹との小夜と共に幼少の頃より仲よく過ごした幼なじみの関係にある。しかし、賢政が浅井家へ戻って小夜を嫁として娶ったのも束の間、彼女を離縁すると六角家と敵対したことで、その後再び会うことはなかった。小夜の身をよく案じる妹思いの兄で、母親である平井美緒と共に朽木家の小夜と文を取り交わしている。中には父親である定武が文に書けないような六角家中の不安を記して、小夜から間接的に基綱へと知らされることもある。

飛鳥井 雅春 (あすかい まさはる)

朽木基綱の母方の伯父で、朽木綾の兄。仮名や官名を含めた名前は「飛鳥井左衛門督雅春」。京に住まう公家の一人で、朽木家と朝廷や公家たちを結ぶ実質的な窓口の役割を果たしている。また、綾とは異なるもう一人の妹、目々典侍は朝廷へ出仕して方仁親王の寵愛(ちょうあい)を得ている人物である。天皇の代替わりの際に行われる御大葬と、御大典の儀式に掛かる巨額の費えを、朝廷が朽木家へ求めた際にその使者として使わされている。その時、朽木家の実質的当主を、幼児であった基綱ではなく朽木稙綱と間違えるなど、失態を犯していた。また、交渉の際には費えを支払うことを基綱へ了承させることに成功したものの、同時に朝廷が三好家と将軍家である足利家の和睦を仲介するという条件を差し出され、期限までにそれが果たされなかった場合は、飛鳥井家や朝廷とも縁を切るという恫喝(どうかつ)をされている。実在の人物、飛鳥井雅春がモデル。

目々 典侍 (めめ ないしのすけ)

朽木基綱の母親である朽木綾の妹で、基綱の叔母。公家の飛鳥井家の出で、朝廷に出仕して方仁親王の寵愛を得ており、春齢女王という娘を設けている。基綱の現代で得た知識によればその後、方仁親王とのあいだに永仁親王という嫡男を設ける未来にある。長らく続く戦乱によって困窮する公家や朝廷の暮らしに翻弄され、親王の娘として生まれた春齢女王の、内親王宣下における費えも払うことができずにいた。この時代、内親王宣下を行えない皇室の娘は寺へ出家する習わしだった。しかし、甥である基綱が朽木家の所領を富ませたことで展望が開けると、内親王宣下の際に姉である綾を通して費えを負担してくれないかと打診している。これを基綱が快諾したこともあり、娘を寺へ送り出さずに済んでいる。

春齢女王 (かすよじょおう)

朽木基綱の叔母である目々典侍と方仁親王の娘。基綱から見た場合は従妹にあたる。親王の娘として生まれながら、公家社会や朝廷が長らく続く戦乱によって困窮したことで、内親王宣下が行えない見通しとなっており、将来は寺へ出家して尼とならざるを得ない状態にあった。しかし、従兄である基綱が朽木家を富ませたことにより、母方の実家である公家の飛鳥井家のみならず朝廷へたびたび献金したことで未来が変わっていく。懸念材料だった内親王宣下の費えも基綱が快諾したことで、正式に皇女としての身分を得ると、その後は公家の名家で五摂家の当主、正三位権中納言(しょうさんみごんちゅうなごん)、一条内基への降嫁が決まった。

方仁親王 (みちひとしんのう)

今生天皇の息子。公家であり、朝廷に出仕している朽木基綱の叔母、目々典侍を寵愛しており、史実ではのちに彼女とのあいだに春齢女王という娘以外にも永仁親王を設けている。今生天皇がお隠れになった際に巨額の費えが必要となり、基綱がそれを朽木家で負担したことによって御大葬と御大典をつつがなく終えられ、天皇に即位した。その際、費用を負担する条件として三好家と足利家の和睦を仲介するよう求められると、即座に動いてみせている。これにより、僅か2か月余りで三好家と足利家の和睦は結ばれ、長年にわたって続いた将軍、足利義藤の朽木谷への逼塞状態も解決へと導かれた。実在の人物、正親町天皇がモデル。

近衛 前嗣 (このえ さきつぐ)

京の公家で、関白を務める男性。朽木基綱と朽木小夜の婚姻の祝いに駆け付けた際の名前は「近衛前嗣」だったが、のちに「近衛前久」に改めている。公家の有力な家である近衛家の当主を務める人物で、将軍家の足利家とも縁戚関係にある。特に将軍、足利義藤の母親である慶寿院は前嗣の叔母にあたり、二人は従兄の関係にある。さらには、前嗣の妹を義藤の正室に嫁がせてもおり、そのつながりは非常に強いものとなっている。関白として関東管領を務める長尾景虎の関東遠征に自ら下向し付き従っていた折、天皇の御大葬、御大典の莫大な費えを立て替えた功績を持つ朽木家の当主、基綱が結婚をするにあたり上杉家の名代と共に婚姻へ参加している。その際を思い返した小夜の発言から、朽木家は婚姻以前から近衛家とはつながりを持っていたことが示唆されている。二条御所が三好家の兵に襲撃され、幕臣ともども命を落とした「永禄の変」の折には、義藤(当時は義輝)の側室である小侍従が命を落としている一方で、正室だった前嗣の妹は丁重に近衛家へ帰されているなど、動きに不審な点があることを基綱は勘づいている。そのため、「永禄の変」が発生する前から既に事態を察知しており、水面下で交渉したうえに三好家の凶行を黙認したのではないかと基綱によって推察され、前嗣の強かな振る舞いには警戒心を強められている。実在の人物、近衛前久がモデル。

織田 信長 (おだ のぶなが)

尾張にある織田家の当主を務める男性。仮名や官名を含めた名前は「織田上総介信長」。うつけ者として史実にも名高い人物で、華美な髷結(まげゆい)を身につけている。駿府(すんぷ)で覇を唱えていた名家の今川家を「桶狭間の戦い」で破ると尾張で一勢力を築き上げ、その後は美濃の一色家へと進出を目論んでいる。関の廃止や税の軽減など、北近江で非常に豊かな所領を誇っている朽木家の当主、朽木基綱と瓜二つの政策や方針を執っていると見られている。実際には基綱は現世の知識を持って戦国時代へと転生してきた人物であるため、信長がやろうとしていたことなどを先取りした結果なのだが、そう見られていない。一色家との戦がうまくいかない中、同盟者である三河の松平家が一向門徒による一揆で伊勢の長島を脅かされ続けており、たびたび支援するもうまくいかず、八方塞がりの状況にあった。そんな最中、松平家と同様に同盟を結んでいた基綱からの打診で、西美濃の墨俣(すのまた)に築城する計画を授かり、家臣である丹羽長秀と木下秀吉に命じ、実行に移している。この作戦が成功裏に終わると織田家はこれによって西美濃に侵略の橋頭堡(きょうとうほ)を得ている。実在の人物、織田信長がモデル。

織田 信広

織田家に仕える家臣の男性。仮名や官名を含めた名前は「織田三郎五郎信広」で、当主を務める織田信長の異母兄にあたる。美濃の一色家との戦に悩んでいた織田家が、美濃と領地を接している朽木家へ同盟の打診をする際に、朽木基綱のもとへ使者として使わされた。その際、北に朝倉家という敵がいるためにあまり役に立てないという基綱に対して、多少なりとも戦力を引き受けてくれればそれでいいと返答し、同盟の締結にこぎ着けている。実在の人物、織田信広がモデル。

木下 秀吉 (きのした ひでよし)

織田家に仕える家臣の男性。仮名や官名を含めた名前は「木下藤吉郎秀吉」で、当主を務める織田信長からは「藤吉郎」とも呼ばれている。美濃の一色家との戦に埒(らち)が明かず悩み果てていた信長のもとに届いた、敵地である墨俣に城を建てるという作戦において、それを任された丹羽長秀の補佐を担い、昔なじみで木曽川沿いに勢力を持つ川並衆の蜂須賀正勝や前野長康らを味方へと引き入れている。木曾川沿いに勢力を持つ川並衆を用いて時を掛けずに墨俣に築城する作戦は、織田家の同盟者であり、現世の知識を持っている朽木基綱の立案によるものだが、それを信長から聞かされた時には、いち早く作戦の意図を読み取り、感心する様子を見せていた。また墨俣への築城は、織田家の悩みを解決する打開策であると同時に、北方の朝倉家、一向門徒と本格的に事を構えたい朽木家の背後をより安全なものとする作戦だったが、長秀と秀吉の活躍により成功を収めており、これによって織田家は西美濃に侵略の拠点を手に入れることとなった。実在の人物、豊臣秀吉がモデル。

丹羽 長秀 (にわ ながひで)

織田家に仕える家臣の男性。仮名や官名を含めた名前は「丹羽五郎左衛門長秀」で、当主を務める織田信長からは「五郎左」とも呼ばれている。美濃の一色家との戦に埒が明かず悩み果てていた信長のもとに届いた、敵地である墨俣に城を建てるという作戦を任された。木曾川沿いに勢力を持つ川並衆を用いて時を掛けずに墨俣に築城する作戦は、織田家の同盟者であり、現世の知識を持っている朽木基綱の立案によるもので、織田家の悩みを解決する打開策であると同時に、北方の朝倉家、一向門徒と本格的に事を構えたい朽木家の背後をより安全なものとする作戦だった。木下秀吉と共に作戦に当たった丹羽長秀は、最終的に築城に成功し、西美濃へ侵略していく橋頭堡を手にする結果を織田家へともたらしている。実在の人物、丹羽長秀がモデル。

蜂須賀 正勝 (はちすか まさかつ)

木曾川沿いに勢力を持つ川並衆の男性。仮名や官名を含めた名前は「蜂須賀小六正勝」。木下秀吉の昔なじみで、織田家による西美濃攻略の橋頭堡となる墨俣城を立てる企てのため、秀吉に誘われた。現世の知識を持っている朽木基綱によって立案された、敵地である墨俣に城を築くという作戦は、丹羽長秀や秀吉のもとに成功を収めており、これによって織田家は、西美濃に拠点を手に入れている。実在の人物、蜂須賀正勝がモデル。

前野 長康 (まえの ながやす)

木曾川沿いに勢力を持つ川並衆の男性。仮名や官名を含めた名前は「前野将右衛門長康」。木下秀吉の昔なじみで、織田家による西美濃攻略の橋頭堡となる墨俣城を立てる企てのため、秀吉に誘われた。現世の知識を持っている朽木基綱によって立案された、敵地である墨俣に城を築くという作戦は、丹羽長秀や秀吉のもとに成功を収めており、これによって織田家は、西美濃に拠点を手に入れている。実在の人物、前野長康がモデル。

越後を治める上杉家の当主を務める男性。仮名や官名を含めた名前は「長尾弾正少弼景虎」。また、上杉家の家督を継いでからは「上杉政虎」と名乗っており、その後、「上杉輝虎」と改めている。また、この時の仮名や官... 関連ページ:長尾 景虎

浅井 賢政 (あざい かたまさ)

近江に居を構える浅井家の嫡男。仮名や官名を含めた名前は「浅井新九郎賢政」で、幼名は「猿夜叉丸」。史実では織田信長の妹であるお市を娶った「浅井長政」として知られる。幼少の頃は人質として六角家の平井定武の家に預けられており、その子供である平井高明や平井小夜(のちの朽木小夜)とは年の近い幼なじみとしてなかよく育った。浅井家が六角家への謀略を企ると、それに巻き込まれる形で実家の浅井家へ帰還し早々に元服している。そして、六角家の当主である六角義賢の養子となった小夜を娶ると、義賢から偏諱(へんき)を賜って「浅井賢政」を名乗るようになる。だが、その4か月後には六角家の家臣にはならないという理由をつけて小夜と離縁し、浅井家と六角家の戦争へと突入していく。当初は朝倉家と通じながら、六角家の高野瀬秀隆に調略を仕掛け、城ごと寝返らせることに成功。しかし、六角家と正面から相対した「野良田の戦い」で、相手の布陣を崩すことができず劣勢に追い込まれると、状況を覆すために乾坤一擲の突撃を仕掛けたところで、史実では存在しなかった朽木家の鉄砲隊の逆撃に遭い、討ち死にした。六角家からの自立を狙った浅井家の謀り事は、その裏に前当主であり父親の浅井久政がいたとされ、事実、浅井賢政亡きあと、次男の玄蕃頭政元が家督を継いだあとに追い出されたはずの彼が家中に戻って実権を掌握しても、浅井家内で混乱は見られなかった。そのため、小夜との婚姻から「野良田の戦い」に続く一連の流れは久政の意図によるもので、その「野良田の戦い」ですら朝倉家との共同作戦がうまくいかなかったため、一部の人間による暴挙として浅井家から切り捨てられた結果だったのではないかと、六角家では推察されている。また、小夜との離縁も本来であれば、浅井家に残して六角家に調略を仕掛ける道具として使いたかった久政に対して、平井家に恩を感じていた賢政が我を通す形でなしたことで、それにより小夜の身と将来を守りたかったのではないかと、朽木基綱によって推測されている。実在の人物、浅井長政がモデル。

浅井 久政 (あざい ひさまさ)

近江に居を構える浅井家の当主を務める男性。仮名や官名を含めた名前は「浅井下野守久政」。家臣らの反感を買ったことで竹生島(ちくぶしま)に蟄居され、家督を嫡男の浅井賢政に譲ることとなった。しかし、それは六角家を欺くための謀りで、実際には当主交代劇からその後に行われた高野瀬秀隆に対する調略、野良田の戦いといった一連の流れすら浅井久政の策略の中にあった。近国である朝倉家ともひそかに共同して動く約束を取り付けていたが、土壇場で朝倉家が様子見を決めたことで計画は破綻した。そのため、野良田の戦いを浅井家の一部の強行派が行った戦であるとして賢政らの切り離しと同時に、ほかの浅井家に対する責任問題の転嫁を図った。野良田の戦い以後、賢政の後を次男に継がせながら、久政自身も竹生島より帰還し、実質的な権力を掌握するや侵略してきた六角家、朽木家に抵抗する。しかし、迅速果断な朽木家と南方から軍を進める六角家の両家を前に、なす術なく領地を切り取られ、最終的には朽木家との合戦に負けた末、離反した井口経親の手によって小谷城で一族郎党ともども捕虜となる。その後、要望に従う形で朽木家から六角家へ引き渡されると、経親の近親である阿古の方とその娘を除いた浅井一族もろとも処刑されている。浅井久政は周囲から凡骨、意気地無しと蔑まれながらも、国人領主のまとめ役から戦国大名へ浅井家を押し上げようと尽力した人物だったが、そのやりようには反感も多かった。特に正室であった阿古の方の扱いを巡っては、彼女の兄である井口経親からの強い反感を招いており、のちに経親が離反して合戦の最中に小谷城を占領される結果へと招いて、浅井一族を滅ぼす原因となっている。実在の人物、浅井久政がモデル。

武田 信玄

甲斐の武田家の当主を務める男性。甲斐を中心に信濃の一部も所領に治める関東の有力者で、戦国の世にあって武勲名高い人物。甲斐は元来耕作地が少なく、山間部特有の天候不順も相まって旱魃(かんばつ)や冷害、洪水といった被害を受けやすいことも重なって凶作、飢饉に陥りやすいという特徴がある。そのため、貧困に見舞われた状態が常態化しており、そうした状況を改善すべく、豊かな所領を外へ求める必要性があった。こうした行動を確たるものとすべく、相模(さがみ)の北条家、駿河(するが)の今川家と共に甲相駿三国同盟を結んでおり、北方の信濃へとたびたび軍を進めては所領を切り取っていた。関東管領である長尾景虎にとってはまさしく眼前の敵であり、関東進出を阻む、巨大な壁として君臨していた。史実では上杉家の家督を継いだ景虎と5度にわたる「川中島の戦い」を繰り広げ、上信濃の覇権を争うも明確な勝敗が着かずに終わり、朽木基綱からは不毛な戦いだったと分析されている。しかし、現世の知識を持った基綱が生まれ落ちた今世では、彼の助言を受けた景虎によって「第四次川中島の戦い」において致命的な大敗を喫し、武田信玄も自らの片腕を失う重傷を負った。これによって武田家は信濃にあった所領の多くと、多数の重要な家臣を失い、大幅な弱体化を余儀なくされる。また、信玄自身もケガが原因で痰(たん)、咳(せき)、熱に襲われると末期には景虎へ助言を授けた基綱に対する恨み言を口にしてこの世を去った。実在の人物、武田信玄がモデル。

武田 勝頼

甲斐の武田家の当主を務める男性。武田信玄が「第四次川中島の戦い」で負った傷が原因でこの世を去ったあとに家督を継いだ四男。仮名や官名を含めた呼び名は「武田四郎勝頼」で、家督を継いでからは「武田信頼」と名を改めている。偉大な父親の信玄には及ばない才覚の持ち主で、長尾景虎(当時は上杉政虎)に大敗した「川中島の戦い」の影響を払拭できず、信濃に所領を持っていた家臣と甲斐の家臣のあいだにある確執や禄の問題を取りまとめることができず、大規模な致仕を招いている。これによって真田幸隆や室賀満正、芦田信守といった有力武将が朽木家へと一族郎党を率いて仕官することとなり、その後、真田幸隆らが朽木家で厚遇されたのを見た信濃勢もこぞって合流する流れが出来上がった。父親の信玄が末期に、「川中島の戦い」への助言を景虎へ授けた、朽木基綱に対する恨み言を叫んだ影響もあり、朽木家に対してはいい感情を抱いていない。実在の人物、武田勝頼がモデル。

朝倉 義景 (あさくら よしかげ)

越前を所領に納める朝倉家の当主を務める男性。仮名や官名を含めた名前は「朝倉左衛門督義景」。朝倉家の当主を長らく務めていた朝倉宗滴が、周辺諸国に知れ渡るほどの名将であったため、たびたび将軍家の足利家から反三好家の戦力として頼られている。しかし、宗滴亡きあとは北に抱える加賀の一向門徒による一揆という大敵に歯が立たなくなるほど弱体化著しく、足利義藤によって和睦を仲介される有様に陥っている。朝倉義景が当主となってからも相変わらず北に一向一揆を抱えながら、今度は内情も不安定となるなど、朝倉家の屋台骨が揺らぎ続けていたが、その最中に宮中行事である「曲水の宴」を開くなどしており、元家臣であった明智光秀からは危機感のない人物と称されている。一方で、浅井家が六角家と争った戦では国境に朝倉景鏡の兵を進めさせるなど、共同する素振りを見せており、同時に若狭の武田の所領を狙うなど、狡猾(こうかつ)な一面も覗かせている。しかし、朽木家が浅井家の旧領を併吞(へいどん)して北近江の覇者となった頃、朽木基綱が内情の不安を煽るために朝倉景垙へ仕掛けられた調略に対応できずにいる。この時、調略が原因でたびたび景鏡から、景垙が朽木家に内通していると訴えられるようになっているが、どっちつかずの態度を取って騒動を収められない様子を露呈してしまい、当主として頼りない一面を覗かせている。転機となったのは六角家で「観音寺崩れ」の騒動が起こった際、六角家の家督を巡る惨事が発生して体制が揺らいだと見るや、景鏡が景垙を一乗谷で急襲して討ち取ると、すぐさま敦賀群司家を滅ぼした。これにはさすがの義景も非難の声を上げるが、あいだを置かずに兵を進めた景鏡によって景垙と同様、討ち取られ当主の座を奪われている。実在の人物、朝倉義景がモデル。

朝倉 景鏡 (あさくら かげあきら)

越前を所領に治める朝倉家の男性。大野群司家の当主を務めている。仮名や官名を含めた名前は「朝倉式部大輔景鏡」で、「朝倉式部大輔」とも呼ばれる。また、のちに名を「朝倉憲景」へと改名している。元朝倉家の家臣だった明智光秀に、その性格を陰湿にして傲慢と称される気性の持ち主で、名将として名高かった朝倉宗滴亡き後に当主となっていた若年の朝倉義景を侮り、朝倉景鏡自身と同様に敦賀群司家の当主を務める朝倉景垙を酷く嫌っている。浅井家が六角家との戦を行っている最中、浅井家とひそかに内応していた朝倉家の人間として国境まで兵を進めるなど、狡猾な動きを見せており、それに気づいていなかった六角家の面々を驚かせている。浅井家との戦によって北近江一帯を朽木家が手に入れると、朽木基綱によって調略を仕掛けられ、景垙が断った朽木家からの誘いを、朽木家と通じていると曲解し、義景へ強硬に訴える騒ぎを起こしている。転機となったのは六角家が「観音寺崩れ」を引き起こしたことで、これによって南の内情が不安定になったと見てとるや、一乗谷で景垙を急襲して討ち取ると、そのまま敦賀群司家を滅ぼしている。さらには、その行いに非難の声を上げた当主の義景をも襲って討ち取り、そのまま朝倉家の当主の座を奪い取ることに成功すると、名を憲景と改めている。しかし、その後は加賀の一向門徒による一揆との戦へ突入していき、永禄7年(1564年)の8月の末に、加賀の一向門徒による一向一揆と争っている最中、越前と加賀の国境近くの北潟湖そばで劣勢の戦況を覆すため、自ら先頭に立って突撃を敢行し、一向一揆勢に多大な損害を与えるも討ち死にしたことで朝倉勢も瓦解した。その後、状況を立て直せなかった朝倉家は明くる年に雪が解けると一向門徒に再び攻められ、滅ぼされる結果となった。実在の人物、朝倉景鏡がモデル。

朝倉 景垙 (あさくら かげみつ)

越前を所領に治める朝倉家の男性。敦賀群司家の当主を務める。官名や仮名を含めた名前は「朝倉孫九郎景垙」。朝倉家の敦賀の湊を含めた所領を治める人物で、同様に大野群司家として朝倉家の所領の一部を治める朝倉景鏡とは不仲にある。特に浅井家の所領を勝ち取って朽木家が北近江の覇者となると、朽木基綱が調略を仕掛けてきており、景鏡との関係性は悪化の一途をたどっていく。特に朽木家へ願えるようにという打診を受けたことが景鏡に知られたことは、その誘いを断っていたにもかかわらず朽木家と通じていると曲解され、朝倉家当主である朝倉義景へ進言される事態に発展しており、処罰を求める景鏡と、強引に罪を作られる朝倉景垙のあいだで不和が増していくことになる。この関係が決定的となったのが、六角家で「観音寺崩れ」の騒動が起こった際で、近江の覇者であった六角家の体制が崩れたのを見て取った景鏡が迅速に動かした兵に、一乗谷で急襲され、討ち取られている。その後、敦賀群司家のみならず、その行いにようやく非難の声を上げた義景も景鏡の凶刃に掛かり、朝倉家の家督や所領は景鏡のものとされている。実在の人物、朝倉景垙がモデル。

朝倉 景嘉 (あさくら かげよし)

金ヶ崎城主の城主を務めていた男性。仮名や官名を含めた名前は「朝倉修理亮景嘉」。朽木基綱が敦賀と木ノ芽峠までの越前領を攻めた際に、加賀の一向門徒と戦っていた朝倉景鏡(当時は憲景)に後方へ置かれていた人物で、基綱が攻め寄ると戦うことなく、憲景のもとへ行くことを許すのを条件に降伏している。基綱からは、一向門徒との生存を掛けた戦の際に後方に置かれていたというのは、景鏡から信頼されていなかったのではないかと見られている。実在の人物、朝倉景嘉がモデル。

畠山 高政 (はたけやま たかまさ)

紀伊に所領を持つ畠山家の当主を務める男性。仮名や官名を含めた名前は「畠山修理亮高政」で、「畠山修理亮」とも呼ばれる。六角家と同様、将軍家の足利家に頼られる家の一つで、三好家には及ばないものの大領を持つ名門の家柄。たびたび将軍である足利義藤から六角家、上杉家などと組んで三好家を討伐し、上洛しろという文を送られてきていた。朽木家が北近江を中心に勢力を拡大すると、今度は朽木家とも組むよう文を送られたりと、都合のよい戦力として常々見られていた。畠山高政自身も三好家に対してはよい感情を抱いておらず、機会をうかがっていたが、六角家が「観音寺崩れ」で不安定になるなど、長らく時期が訪れることはなかった。転機となったのは、丹波で内藤宗勝が反三好勢力との戦で手痛い敗北を喫したことで、その前段階として、三好家は当主を務める三好長慶の息子、三好義興を失ったあと、後継者が定まらぬうちに今度は長慶をも失っていた。これにより家督を誰に継がせるのかという問題がいよいよ表面化し、三好家の内情が不安定になったところへ、追い打ちを掛けるようにして、宗勝が敗戦したため、畠山高政は三好家の覇権が揺らいだと見て取り、兵を挙げると三好家との戦へと突入していく。しかし、この戦に便乗した義藤(当時は義輝)が再び反三好の兵を出すように周辺諸国へ文を出したことで、新当主として不安定な座に着いていた三好重存を刺激してしまう。結果として、畠山家の挙兵は、永禄8年(1565年)に三好家が義藤のいる二条御所を一万の兵で襲撃する「永禄の変」を起こす遠因となってしまう。また、畠山家と三好家の戦もうまくいかず、三好家が三好実休、安宅冬康、松永久秀という主力を送って対応したことで一進一退の攻防が長らく続き、双方の国人衆へ大きな負担を強い続けた。実在の人物、畠山高政がモデル。

組屋 源四郎 (くみや げんしろう)

朽木家と取り引きを行う若狭出身の商人の男性。西洋の道化のような服装を身につけている。糸のように細い目が特徴で、よく煙管(きせる)を口にくわえている。ほかの若狭出身の商人、古関利兵衛や田中宗徳らと比べて、朽木家が裕福になる前から付き合いがある。朽木基綱が現代の知識から生み出した新しい朽木谷の特産品を金品へと変えていた。特に「澄み酒」の材料となる米の買い付けでは、組屋源四郎と基綱はよく連携して事に当たっていた。朽木家が経済的に裕福となってからも、利兵衛や宗徳らと連携して朽木家との商売を行ない、朽木基綱が六角家の六角六人衆の一家である平井家の娘を、六角義賢の義理の娘として嫁に取った際には、設けられた宴席の場へ彼らと共に祝福に駆け付けている。

古関 利兵衛 (こせき りへえ)

朽木家と取り引きを行う若狭出身の商人の男性。豪奢(ごうしゃ)な服装をした老人で、両手の指に大ぶりな宝石の付いた指輪をはめ、両耳には大きな耳輪を付けている。手をすり合わせて朽木基綱に阿(おもね)ることを躊躇わない一方で利に聡(さと)く、古関利兵衛自身の要求を強かに伝え、自らが商売の本拠地とする若狭を基綱の所領とするよう働きかけていた。組屋源四郎や田中宗徳らとは同郷の商人ということもあり、連携して朽木家との取り引きに当たっている。朽木基綱が六角家の六角六人衆の一つである平井家の娘を、六角義賢の義理の娘として嫁に取った際、設けられた宴席の場へ祝福に駆け付けている。また、基綱が敦賀を所領とした際には真っ先に商人団と共に駆け付けると、朽木家による政策のもとで大々的に各地との交易を開始している。

田中 宗徳

朽木家と取り引きを行う若狭出身の商人の男性。右目に片眼鏡をはめている。組屋源四郎や古関利兵衛らとは同郷の商人ということもあり、連携して朽木家との取り引きに当たっている。朽木基綱が六角家の六角六人衆の一家である平井家の娘を、六角義賢の義理の娘として嫁に取った際、設けられた宴席の場へ祝福に駆け付けている。

高島 (たかしま)

高島七頭の一つである高島家の当主を務める男性。越中守という官職を代々世襲したことから「佐々木越中」、あるいは「高島越中」とも呼ばれる。高島家は佐々木源氏から出た大きな家の一つで、六角家、京極家、大原家らに並ぶ四家の一つ。しかし、所領の大きさは六角家や京極家には遠く及ばず、高島家の分家筋や庶流の集まりである高島七頭を形成しながらも、将軍家の足利家へ忠義立てする朽木家を除いて、実質的に六角家に従っている。朽木家とは過去に戦を行っており、特に朽木基綱が2歳の時に起こした戦では、朽木家の当主だった朽木晴綱を討ち取っており、基綱が家督を継ぐ原因を作った。そのため、基綱からは父親の仇にあたる。この戦のあとに朽木家のもとへ三好家との戦に敗れた足利義藤が、たびたび逃げてきたのもあって戦こそ起こらなかったものの、基綱の政策によって急速に富んでいく朽木家とは裏腹に、商人に素通りされるようになったことで、ほかの高島七頭らと共に物価高騰に悩まされ、次第に困窮していく。それもあって、三好家との和睦が成って朽木家から義藤がいなくなると、すぐさま朽木家へ文句を付けて賠償金を求め、断られるや否や朽木家以外の高島七頭らと組んで朽木谷へと攻め入っている。この背景には朽木家の財力や公家、朝廷とのつながりを重んじた六角家が、朽木家を手に入れたいと思った意向もあり、実際に手を出すわけにはいかない六角家の指図によって、戦をさせられた面も大きかった。戦は戦端が開かれたばかりの緒戦に、朽木家が蓄えた財によってそろえていた銃による掃射で、田中重政が討ち取られ、高島自身も乗馬を仕留められて生死不明となるなどしてすぐさま決着している。そればかりか、その後に軍を進めた朽木家によって居城であった清水山城も接収されている。その後、生きながらえていたところを、ひそかに朽木家によって捕らえられると、高島七頭らの生き残りによる申し開きの場で、彼らに責任を擦(なす)り付けられた場面で呼び出され反駁(はんばく)させられる。そして、背後に六角家の指示があったことの生き証人として生かされ、その後も名前を変え別人を装ったうえで、商人という形で朽木八門衆のもとで働いている。その様子は、元来銭勘定が好きだった高島の性格に商人という職業があっていたのか、今川や北条、武田相手に米の買い付けを阿漕(あこぎ)に行っていると報告されていた。

田中 重政 (たなか しげまさ)

高島七頭の一つである田中家の当主を務める男性。仮名を含めた名前は「田中久兵衛重政」で、「田中久兵衛」とも呼ばれる。朽木家が関の廃止を始め、さまざまな減税政策を行ったことで物価上昇や人口流出といった害を被った領地の一つを収めており、朽木家にたいして憤懣やる方ならぬ思いを、朽木家を除いたほかの高島七頭の領主たちと同様に抱いていた。天皇の葬儀と、代替わりの儀式である御大葬、御大典が終わり、その費用に巨額の資金を提供した朽木家に対して、ほかの高島七頭と組んで戦を仕掛ける。しかし、戦の緒戦において、朽木家の鉄砲隊が放った銃撃によって討ち死にしている。その後、戦自体も敗北に終わっており、生死不明となった高島と同様に所領を朽木家に取られている。

武田 義統 (たけだ よしずみ)

若狭の武田家当主を務める男性。仮名や官名を含めた名前は「田中治部少輔義統」で、「武田治部少輔」とも呼ばれる。母親が六角家の当主を務める六角義賢の姉であり、血縁上は叔父と甥の関係にあたる。また、妻に将軍家である足利家から足利義藤の妹を娶っており、本来であれば六角家や足利家にとって信頼の置ける存在となるはずだが、度重なる内乱に統制が取れず、長い間、領内を混乱させ続けているため役に立てずにいる。六角家や越前の朝倉家が「観音寺崩れ」や家督を巡った争いによって体制を崩したところで、周辺からの圧力が減った三好家に兵を向けられ、内藤宗勝によって所領を攻め取られた。その際、武田義統は越前の朝倉家を頼って逃げ出したものの、その朝倉家も混乱した体制を立て直すことができないまま、加賀の一向門徒の一揆との戦に突入したことで大敗を喫し、一族郎党が滅ぼされている。そのため、今度は同族である甲斐の武田家を頼って逃げ出している。朽木基綱が朝倉家の最後を知らされた際に、義統の逃げようを見習うべきだったと称しており、所領を始めとするさまざまなものを失いながらも、その命と一家の命運だけは戦国の乱世にあって維持し続けている。実在の人物、武田義統がモデル。

猪飼 昇貞 (いかい のぶさだ)

堅田の殿原衆の男性。仮名を含めた名前は「猪飼甚助昇貞」。水軍指揮官の一人で、強面(こわもて)で頰がたるんでいる。同じ殿原衆の水軍指揮官である居初又次郎、馬場孫次郎らと共に堅田の水軍をまとめている。勢力を増しつつある朽木家に対して興味を持っており、ほかの殿原衆の面々といっしょに林員清の紹介で、当主の朽木基綱と何度か面会を重ねている。朽木家が越前との戦を本格的に始めると、将来的に加賀の一向一揆との戦に突入するのを予想し、一向門徒の影響が強い堅田も巻き込まれることを殿原衆の面々で予期していた。一方で、殿原衆とは別の集団であり一向門徒が大半を占める全人衆(まろうどしゅう)が、強欲にも朽木家の所領に手を出そうとしているのを憂えており、かつて堅田が焼き討ちにあった「堅田大責」の再来となることを危惧している。その後、朽木家が越前で一向一揆の大軍を追い払うと堅田へ軍を引き返してきたのを見て取ると、金銭による詫(わ)びですませようとする全人衆とは異なり、猪飼昇貞ら殿原衆は服属を申し出て、これを受け入れられている。実在の人物、猪飼昇貞がモデル。

居初 又次郎 (いそめ またじろう)

堅田の殿原衆の男性。水軍指揮官の一人で、同じ殿原衆の水軍指揮官である馬場孫次郎、猪飼昇貞らと共に堅田の水軍をまとめている。勢力を増しつつある朽木家に対して興味を持っており、ほかの殿原衆の面々といっしょに林員清の紹介で当主の朽木基綱と何度か面会を重ねている。朽木家が越前との戦を本格的に始めると、将来的に加賀の一向一揆との戦に突入するのを予想し、一向門徒の影響が強い堅田も巻き込まれることを殿原衆の面々で予期していた。一方、殿原衆とは別の集団であり一向門徒が大半を占める全人衆(まろうどしゅう)が、強欲にも朽木家の所領に手を出そうとしているのを憂えており、かつて堅田が焼き討ちに遭った「堅田大責」の再来となることを危惧している。その後、朽木家が越前で一向一揆の大軍を追い払うと堅田へ軍を引き返してきたのを見て取ると、金銭による詫びですませようとする全人衆とは異なり、居初又次郎ら殿原衆は服属を申し出て、これを受け入れられている。

馬場 孫次郎 (ばば まごじろう)

堅田の殿原衆の男性。水軍指揮官の一人で、額から右頰に掛けて伸びる刀傷がある。同じ殿原衆の水軍指揮官である居初又次郎、猪飼昇貞らと共に堅田の水軍をまとめている。勢力を増しつつある朽木家に対して興味を持っており、ほかの殿原衆の面々といっしょに林員清の紹介で、当主の朽木基綱と何度か面会を重ねている。朽木家が越前との戦を本格的に始めると、将来的に加賀の一向一揆との戦に突入するのを予想し、一向門徒の影響が強い堅田も巻き込まれることを殿原衆の面々で予期している。一方、殿原衆とは別の集団であり一向門徒が大半を占める全人衆(まろうどしゅう)が、強欲にも朽木家の所領に手を出そうとしているのを憂えており、かつて堅田が焼き討ちにあった「堅田大責」の再来となることを危惧している。その後、朽木家が越前で一向一揆の大軍を追い払うと堅田へ軍を引き返してきたのを見て取ると、金銭による詫びですませようとする全人衆とは異なり、馬場孫次郎ら殿原衆は服属を申し出て、これを受け入れられている。

ハル

朽木基綱の乗馬。白い体毛を持つ。朽木家と浅井家のあいだで行われた戦で基綱の乗馬を務めており、隠居でありながら実質的な浅井家の権力者として君臨していた浅井久政を追い詰める際に、基綱を背中に乗せて小谷城まで疾駆した。戦の際は豪雨に見舞われ、途中で休憩を挟まねばならないほどに全軍が疲弊する、尋常ならざる状態にあった。しかし、ここで浅井家を食い切らなければ朽木家を追い詰められないという決戦でもあり、基綱はハルに対してたびたび名前を呼びかけながら「頼むぞ」と声を掛けていた。

集団・組織

朽木家 (くつきけ)

淡海乃海(現代の琵琶湖)の南西部に位置する近江高島郡の一角、朽木谷を領する国人領主。佐々木源氏家の庶流で、彼の家から派生した大きな四つの家である京極家、六角家、大原家、高島家のうち、高島家の分家筋の集... 関連ページ:朽木家

三好家 (みよしけ)

畿内や四国の多くを所領に治め、戦国大名の中でも随一の勢力を誇る大家。将軍家である足利家と、幕臣である細川晴元とのあいだに因縁があり、お互いに不仲であるためたびたび戦を起こしている。足利義藤の起こした兵... 関連ページ:三好家

足利家 (あしかがけ)

室町幕府の中心的存在の家。当主は公家(朝廷)から征夷大将軍に任じられる。実質的に武家の棟梁(とうりょう)である家で、「足利将軍家」「将軍家」とも呼ばれる。朽木基綱が現代の知識を持って転生した1550年頃の足利家は、室町幕府の中心的存在としての力を失っており、畿内に覇を唱える三好家との戦でたびたび敗北しては、当主である足利義藤が朽木家の朽木谷にある岩神館に逃げ込んで逼塞する、という事態が続いていた。足利家から過去に各地を治めるように任じられた領主たちも時代の流れにより、多くが栄枯盛衰の憂き目に遭っており、現在も勢力を維持している家であっても、足利家や彼らが運営する幕府に対する経緯は形骸的なものと成り果てている。その中でも朽木家は8000石という小さな身代の家ながら、足利家に対して忠義の家と見られており、京に近い立地もあって避難所としてよく利用される関係にあった。ほかにも、三好家へ対抗するためという名目もありつつ、幕臣との縁戚や利害関係から協力関係にある六角家や畠山家、上杉家など、比較的協力的な家も少なからず存在していた。しかし時代が経ち、義藤の逼塞する帰還が長くなるにつれてその影響力は薄まり、代わりに三好家の影響力が増していくと、たびたび諸侯に対して無理な討伐の嘆願書を送るようになり、次第にさまざまな勢力から煙たがられるようになっていく。特に、岩神館で長らく世話を焼く羽目になった基綱からの反感は根強く、朝廷で御大葬や御大典の話が持ち上がった際には体よく所領から義藤を追い出すため、その巨額の費用を肩代わりして三好家と足利家の和睦の仲介を強要しているほどである。幕府の権威が形骸化していく一方、下克上の誹(そし)りを恐れて誰も手を出さない状態が続くが、三好家の当主が代替わりした際、その混乱に乗じようとした義藤の動きを、新当主である三好重存に危険視され永禄8年(1565年)に「永禄の変」が発生し、二条御所が三好家一万の兵によって攻め立てられる結果を招いた。これにより幕臣たちを含め、足利義藤(当時は義輝)に付き従った者たちは近衛家の一部の係累など、ごく少数を除いて尽く討ち取られ、全滅している。

六角家 (ろっかくけ)

淡海乃海の南方を中心に巨大な勢力を誇る家。元は佐々木源氏から派生した四つの大きな家の一つで、ほかの高島、大原、京極などと比べても圧倒的な権勢を誇る。また、将軍家の足利家や、その重臣である細川家と縁戚関... 関連ページ:六角家

六角六人衆

近江に巨大な勢力を誇る六角家の家臣団の中でも、特に有力者とされる六家。その構成は、平井家、蒲生家、三雲家、目賀田家、後藤家、進藤家となっており、六角家の武力や調略、政策といったさまざまな面を支えている。特に平井家は朽木基綱のもとに娘を嫁がせているため、縁戚関係にある。六角家の屋台骨ともいえる家臣団であり、当主の六角義賢のもとにまとまっていたが、その後継者である六角義治に家督を譲る時期が近づくにつれ、体制に揺らぎが生じ始める。特に、近隣で勢力を急速に拡大して見せた基綱に対する義治の妬みから、功績欲しさに行われた美濃の不破郡への侵攻は、義治と後藤賢豊のあいだに不仲を生み出す結果を招く。これは、一度は成功を収めた侵攻が、結果として美濃との紛争地帯を作り出してしまうだけでなく、度重なる戦によって坂田郡を中心とした国人衆の疲弊と困窮を招いたことで、彼らの強い反発を招いてしまったことに起因する。その結果、会議の場で後藤賢豊が国人衆の意見を代弁し、美濃の一色家との和睦案を口にせざるを得ない状況となり、のちに六角家と一色家が和睦を結んだことで面目を潰される形になった義治の憤懣が、和睦を提案した後藤賢豊にも向かうこととなった。このことは当主の座を危ぶんだ義治が「観音寺崩れ」を起こした際に、隠居しながらも実質的に権力を握っていた義賢と義治の弟、六角義定に加え、賢豊すらも手に掛けられることにつながっていく。また、不破郡を巡る一件のあとには、義治を支えようとしていた蒲生家や三雲家も次第に距離を置こうとし始めており、義賢の時代にあった盤石の体制からはほど遠いものとなり始めていた。しかし義治が蟄居させられ、新たに幕臣の細川家より迎えられた六角義輝を当主としてからも両家は義治寄りの家として見られ、蒲生定秀に至っては家督を息子に譲らざるを得ない事態に発展するなど、混乱の収まる様子が見えずにいる。

公家 (くげ)

朝廷に仕える朝臣の家系、または朝廷そのものを含む。その多くは京で暮らしている。朽木基綱が現代の知識を持って転生した1550年頃の公家は貴族階級とは思えないほどに貧しく、日々の暮らしに困窮することも珍しくない有様にある。そのため、天皇が崩御した際に行われる御大葬や、その後に新しい天皇陛下の即位を行う御大典などの費用を賄うことも難しく、武家の財力に頼らざるを得ない状況に長らく置かれている。また、天皇の娘である春齢女王のように、位の高い女性ですら金銭面が理由で内親王宣下を行えないことが常態化していた。内親王宣下が行えない女王は、もれなく出家させられる決まりにあり、この時代の多くの皇室の女性たちは寺へと送られている。このように財力的な力を失っている一方、冠位の授与といった家や個人に対する権威の付与を行う職能は健在で、姻戚関係や冠位を利用して諸国に影響をもたらす力は武家が力を付けてきたこの時代でも、決して無視できるものではなかった。朽木家は、基綱の父親、朽木晴綱に公家の飛鳥井家から嫁を取っており、それが基綱の母親、朽木綾である。朽木家はこれにより、将軍家である足利家に忠義を立てると同時に、公家とのつながりを有する一族となっていた。基綱が朽木家の当主を継ぐと、所領を裕福にすると同時にそれによって得た特産品を母方の実家である飛鳥井家や朝廷へ送り、つながりを強固なものとしている。さらに、朽木谷の岩神館に長らく逼塞し、目の上の瘤(こぶ)のような状態となっていた足利義藤ら幕臣を所領から京へ帰すために、御大葬、御大典の費用を負担する代わりに三好家と足利家の和睦の仲介を、実質的に朝廷へ強要するなど、その権力を遺憾なく利用している。基綱のように公家、朝廷を利用する武家がいる一方、公家の側にも近衛家のように足利家に娘を出して縁戚となることで、武家の力を使おうとする一族もいる。特に関白の座にある近衛前嗣は関東制圧へと乗り出そうとしていた関東管領の上杉家へ下向して影響力を強めようと、自らが働いている。また、征夷大将軍が白昼に押し入られ討ち取られたという「永禄の変」の際には、義藤(当時は義輝)のもとへと嫁いでいた前嗣(当時は前久)の妹を帰して貰っているなど、事前に計画を知りながら黙認していた素振りがあり、力がないが故に、世渡りに慎重で狡猾な公家の一面を見せている。

高島七頭 (たかしましちとう)

佐々木源氏家の分家筋や庶流の集まりで、淡海乃海の西岸に位置する近江高島郡の南西部を治める国人領主の総称。佐々木源氏家から派生した四つの大きな家の一つ、高島家を筆頭に、その分家筋である朽木家、永田家、平井家、横山家、田中家に別系統である山崎家を加えた七家で構成されており、すべての家の所領を合わせると5万石ほどの大きさとなる。一方の同じ佐々木源氏家から出た六角家や京極家は比べものにならないほど大きな所領を誇っており、特に六角家に対しては朽木家以外の高島七頭は臣従の構えを見せている。唯一朽木家だけは、将軍家の足利家に忠義を捧げており、親族が幕臣として仕えているなど、ほかの家とは違いがある。特に、それまでの奉公で重ねてきた信頼と、本拠地である朽木谷の立地が京に近く、狭隘(きょうあい)で守りやすい土地だという理由もあって足利家が戦に負けるたびに、将軍が逃げ込む避難地としての役割を持っている。そのためか、朽木家とほかの高島七頭の家とのあいだは決して良好な関係とはいえない。現代の知識を持って転生した朽木基綱が、朽木家の家督を2歳という幼さで継ぐことになったのも、高島との戦で当主である朽木晴綱を失ったためだった。その後、足利義藤が朽木家に逼塞しているあいだはおとなしくしていたものの、基綱が持ち前の知識と素質で朽木家と所領を富ませ始めると、楽市楽座を模した関所の撤廃と減税が、他領にとっては商品の流通量低下が原因で物価高としてのしかかっている。そして、義藤が三好家と和睦を結んで朽木家をあとにすると、不満を抑えきれなくなった領主たちは六角家の思惑に従う形で朽木家との戦に突入していく。しかし、朽木家が大量に揃えた銃と、朽木八門衆による調略の効果で戦は早期に終わり、最終的に田中家は当主である田中重政が討ち死にする。高島も命こそ助かったものの所領をすべて失い、ほかの家も幕臣を交えた沙汰のあとに命惜しさから逐電している。そのため、高島七頭の所領はすべてが朽木家のものとなった。

朽木八門衆 (くつきはちもんしゅう)

朽木家が召し抱える忍者集団。元は「九郎判官」こと「源義経」に仕えたとされる「鞍馬忍者」の裔(えい)で、羽黒の山伏の流れだと言い伝えられている。その来歴は悲運に彩られており、まず初めは義経に仕えて奥州へ行くが、彼が非業の死を遂げたため鎌倉幕府に嫌われ、上方へと逃げることとなる。その次に承久の乱の際に後鳥羽上皇に味方するも敗北し、丹波の山に身を隠すことになる。さらには鎌倉幕府を足利家が滅ぼそうとした際は、高師直(こうのもろなお)、師泰(もろやす)の兄弟に重宝されるも、のちに高一族が族滅の憂き目に遭ったため、それに伴い武功もすべて消し去られるという不運に見舞われた。このように時の有力者に仕えながらも、主運に恵まれることなく技のみを伝えて長らえてきたところ、朽木家が澄み酒を特産品として産み出したことで、表の生業である木地師が益を得たため、その政策を推し進めた朽木基綱の存在を知ることとなった。さらに、三好家を相手取った際の基綱の行動を始め、その風変わりな振る舞いに面白味を感じた当主の黒野影久が、基綱に雇われたいと考えたため、寝込みにひそかに押し入る形でそれを申し入れたところ、基綱によって予想外にも召し抱えられることとなった。それ以後は、基綱に与えられた「八門」の名を用い、「朽木八門衆」を名乗るようになる。忍者としては甲賀や伊賀、風魔といった有名どころにも劣らぬ実力者の集まりで、基綱の情報源としての役割をはじめ、さまざまな諜報や調略活動の要となって朽木家の躍進を支えることとなる。「八門」の名の由来は朽木家の家紋である隅立四ツ目結にあり、四方においてその四隅を守るという意味から「八門」との名を授けられた。

鉢谷衆 (はちやしゅう)

浅井家が抱える忍者集団。元は平将門の乱に加担した、ある一族の末裔ともいわれており、関東から山陰へと逃れたあとに鉢谷衆となった。その際、関東に残った者たちは風魔衆になったとされる。その後、出雲(いずも)の尼子経久に忍びとして用いられていたが、経久が京極から出雲を奪った際に、北近江に本拠地を持つ京極が力を蓄えて戻って来るのを警戒して、その一部を浅井家へと送っていた。近江で朽木家が力を付けてきてからは、浅井家によってその内情と朽木八門衆を探らせるために朽木領内へと派遣されてきていたが、六角家の派遣してきていた甲賀衆とも不意の遭遇をすることとなり、結果として鉢谷衆と甲賀衆とのあいだで疑心暗鬼を招いてしまっている。浅井家が朽木家に滅ぼされると、今度は美濃の一色家に仕え、不破郡を巡る一連のやりとりから関係の悪化していた六角家へ調略を仕掛け、内部に抱えていた家督争いと度重なる戦の負担に喘ぐ国人領主たちの不満を高めることに成功している。この効果は絶大で、六角家は跡目である六角義治の立ち位置を堅固とするために行った、六角義賢の隠居と出家を実質的に無効化している。さらには、国人領主たちが、義賢が政治の場から立ち去ることを許さなかったため、義治の当主就任も形式的なものとならざるを得なかった。そのため、義治とその弟、六角義定の後継者争いは、鉢谷衆の調略によって流される噂で加速し、最終的に永禄6年(1563年)に「観音寺崩れ」が起き、これによって義賢、義定のみならず国人領主たちの信頼を集めていた六角六人衆の一人、後藤賢豊が命を落とすこととなる。六角家は義治を強制的に隠居させ、幕府の重鎮で六角家から嫁を取っている細川晴元から次男を養子に取り、六角義輝を新しい当主として据える羽目となった。

評定衆

朽木家の当主の判断を総合的な観点から物事を判断し、補助する役割を担う職制。「家老衆」とも呼ばれる。朽木基綱が自らのサポートのために設け、最初期の内訳は親族から朽木稙綱、朽木惟綱。譜代から日置行近、宮川頼忠。外様からは井口経親のほかに雨森、安養寺が参加しており、親族、譜代、外様がそれぞれ疎外感を覚えないように配慮がなされた。

一向門徒 (いっこうもんと)

摂津国(現代の大阪)にある浄土真宗の寺院、石山本願寺を本拠地とした教団の信徒のこと。「一向宗」とも呼ばれる。越前の加賀国をはじめ、三河の伊勢長島などさまざまな地域で一揆を起こしており、淡海乃海一帯にも堅田という一向門徒の勢力が強い地域が存在している。信徒とはいえ、実態としては本拠地である石山本願寺や、比叡山延暦寺のように多くの僧兵を抱える有力な寺社、山門の意向に従って動く兵力にほかならず、国を守る兵力よりも膨大な数に膨れあがることも多々あり、各地方の大名や領主たちの頭痛の種となっていた。史実では織田信長と激しく敵対し、比叡山延暦寺の焼き討ちをはじめとした鎮圧を受けているが、現代の知識を持って転生した朽木基綱のいる今世では、朝倉家亡き後の越前で一向門徒との戦いへと突入していった基綱がその役割を担うこととなった。結果として、越前で朽木家の3倍近い兵力を持ちながら戦に敗れた一向門徒は、そのほとんどが逃げ出すことに成功したものの、その後、戦に連動して動いていた堅田と比叡山延暦寺も基綱に兵を向けられ、史実同様に比叡山延暦寺は焼き討ちの憂き目に遭っている。

軍略方

朽木家の中に設けられた軍略に関する部署。情報部や参謀本部といった区分に分かれており、情報部を朽木八門衆の黒野影久、参謀本部を明智光秀、竹中重治、沼田祐光らが担当している。戦における戦略および戦術の立案から砦、城の築城における指導など平時、緊急時を問わず軍略にかかわることを幅広く行っている。この部署が設けられてからは、朽木基綱と軍略方の面々で定期的に軍略上の重要事に関する報告と相談が行われ、そこで大まかな方針が決定されることが多くなった。また、所属する光秀、重治、祐光らはそれぞれ越前、美濃、若狭の情勢に詳しい。そのため、浅井家との争い後、北の朝倉家や各地の一向門徒をはじめとした勢力との争いが激化していく中、東の美濃の情勢も見なければならないといった状況がたびたび持ち上がっており、彼らの持つその土地ならではの見地が必要不可欠となっている。

場所

淡海乃海 (あふみのうみ)

現代の琵琶湖のこと。「淡海(あふみ)」と呼ぶことが多い。しかし、公家から嫁いできた朽木基綱の母親、朽木綾が、「淡海乃海(あふみのうみ)」という雅やかな呼び方しているため、基綱が紹介した際にはこちらの呼び名で紹介されている。その広大な面積から、巨大な水上航路として機能しており、淡海乃海の近隣にある近江高島郡や滋賀郡、浅井家や六角家の所領など、さまざまな地域にその恩恵をもたらしている。また、越前の敦賀の湊から交易で入った品なども淡海乃海の航路を利用して京へもたらされており、その逆も然(しか)りで、遠方と京を結ぶ重要な交通の要衝でもある。基綱は早くからこの淡海乃海が持つ経済的な力に目を付けており、所領内にさまざまな特産品を生み出すと同時に、商家と組んで流通網の形成に力を入れてきた。朽木家が所領を拡大し、浅井家が有していた北近江一帯を手に入れると、敦賀の湊と協力して明や蝦夷(えぞ)との交易を行い、莫大な富を得ている。そのため、堅田をはじめとした一向門徒がこれらを妬しく思う原因となっており、このことは、のちの基綱による比叡山の焼き討ちへと発展していった。

近江高島郡

淡海乃海の北西に位置する郡。越前、若狭、山城、滋賀郡、浅井郡などに接する。所領の南西部は高島七頭と呼ばれる国人領主によって治められており、高島を筆頭に、永田、平井、横山、田中、山崎に朽木家がそれを構成している。この高島七頭はその多くが佐々木源氏の庶流の一つであり、山崎を除いてすべて高島家の分家筋にあたる。七家の所領すべてを合わせても5万石ほどの大きさで、その規模はほかの佐々木源氏の庶流である六角家や京極家とは比べるべくもない。また、高島七頭が治める以外の近江高島郡は、六角家の蔵入り地と浅井家の所領となっている。のちに、朽木家が現代より転生した朽木基綱の手腕によってほかの高島七頭との戦に勝つと、続く「野良田の戦い」で六角家と共に浅井家に武威を示し、褒賞として六角家の蔵入り地をもらい受ける。そして、浅井家と領地を接することとなると、逆撃を受ける前に侵攻を始め、たちまちのうちに近江高島郡より浅井家を追い出すことに成功し、その全域を所領に治めている。これにより、朽木家が取っている関を廃止しての経済政策と特産品の流通が領内にもたらされることとなり、ほかの朽木家所領と同様に、経済的に富むこととなった。そのため、滋賀郡の一向門徒をはじめ、さまざまな勢力から羨望と嫉妬の念を向けられている。

朽木谷 (くつきだに)

朽木家が代々領する土地。淡海乃海の西部に位置する近江高島郡の一角で、石高にして8000石ほどの大きさを持つ。京の近くにあり、狭隘な地形となっているため守りやすく攻めづらい天然の要害で、将軍家である足利家の面々が戦に敗れた際、追撃を逃れるために逃げ込む場所として重要視されている。朽木基綱がわずか2歳で朽木家の家督を継いでからは「澄み酒」に石鹼、漆器に歯磨きとさまざまな特産品を生み出した。それと同時に、楽市楽座を先取りした関の廃止などが行われ、商人の行き来が活発な富んだ土地となっていく。また刀の生産も行われており、基綱が朽木八門衆を召し抱えてからは、彼らが扮した商家によって京で売られるなどしている。

朽木城

朽木家の居城。朽木谷に存在する第1の居城で、朽木基綱が生まれ育った城でもある。戦に敗れた将軍家である足利家の面々が住まう岩神館とはほど近い。新たな特産品として売り出している澄み酒の原材料となる大量の米を置く場所がなく、消費を待ってから買わなければならないほどに狭い城となっている。

清水山城 (しみずやまじょう)

朽木家の居城。朽木谷の朽木城から移った第2の居城で、元は近江高島郡を代表する国人領主たちである高島七頭の筆頭だった高島越中の城。朽木家と、それ以外の高島七頭とのあいだに行われた戦の結果、彼らの所領が軒並み朽木家の所領となったため、この城も朽木家のものとなっている。朽木基綱はこの城を手に入れたあと、新たに手に入れた所領の統治をしやすいという理由のほか、京の足利家と距離を取るため、この城へ居城を移した。近江高島郡に存在していた城の中でも特に立派な城で、淡海乃海を一望出来る櫓が存在し、絶景を見ることができる。その場所は朽木稙綱のお気に入りの場所となっており、毎日のように足繁く通っているため、稙綱の居場所がわからない際は真っ先にこの場所に迎えが出されるほど、周知されている。また、清水山城を抑えるということは、同時に近隣を流れる安曇川(あどがわ)の交通を抑えるということでもあり、これによってより活発な経済活動を行えるようになるため、朽木家お抱えの商人である古関利兵衛などはなによりもこの事実を喜んでいた。

岩神館

朽木家の朽木谷に存在する館。将軍家である足利家の面々が戦に敗れて朽木谷へと逃げて来た際に、彼らの住居として貸し出している館で、征夷大将軍の足利義藤と、その家臣たちが住んでいた。朽木基綱が家督を継いでからは、2歳の頃に義藤が逃げて来たのが最初で、その際は1年ほど住むと京の都へと帰っていった。それから2年後に再び三好家との戦に敗れた義藤が朽木谷へ逃げて来ると、今度は5年間ほど、岩神館に逼塞して過ごしていた。義藤が住んでいたあいだは、将軍を訪ねて来た諸大名がたびたび訪れており、史実では上杉謙信としてその名を知られる長尾景虎と基綱が初めて面識を持ったのも、この館を景虎が訪ねて来た際だった。また、「足利義藤」が「足利義輝」に名前を改めたのも、この館に逼塞していた時期だった。京に帰ることもできず、諸大名に文を飛ばしては、叶わぬ願望ばかり口にして酒浸りの足利家の面々は、幕府に忠義を誓ってきた朽木家の面々をして長らく頭痛の種となっており、基綱が大金を用いて、三好家と足利家の和睦を、公家と朝廷に斡旋させる決意を固めることとなった。

塩津浜城

朽木家の居城。朽木城、清水山城に続く第3の居城で、淡海乃海の北側にある浅井郡に位置する。元は浅井家の城だったが、「野良田の戦い」以後、六角家の策略により浅井家との矢面に立たされた朽木家が喰われる前に喰うという考えのもと、浅井領へ侵攻した際に手に入れた。同じく浅井領である伊香郡を東に接する城で、余呉湖にほど近い位置にある。南には塩津湊が淡海乃海へ向かって開かれており、水上を利用しての物流が存在している。朽木基綱が永禄4年(1561年)に元服を迎えたのもこの城で、この時に幼名の「竹若丸」から「朽木弥五郎基綱」と名を改めている。浅井家との戦に勝利したあとに、正室の朽木小夜を呼び寄せ、正式な居城としている。その後の越後方面を巡る朝倉家や、一向門徒との戦も塩津浜城を居城に行われている。

坂田郡

旧浅井家の所領。六角家と朽木家との争いに負けて浅井家が滅んだあと、朽木家から六角家へと譲られた。石高は9万石ほどだが、美濃不破郡と接する地域でもあり戦の火種となりかねない地域でもあった。実際に、坂田郡を手に入れた六角家は後継者である六角義治が同年代にして武名の高い朽木基綱の活躍を妬み、自分にも同様のことができるとばかりに不破郡への侵攻を行っている。結果、その土地を治めていた竹中氏と、美濃全体を治める一色家とのあいだの不仲を利用した調略などが功を奏し、侵攻には成功したものの、つねに一色家から狙われる紛争地帯を六角家は抱える羽目となった。また、浅井家に仕えていた坂田郡の国人領主たちは「野良田の戦い」での大きな被害に加え、六角家へ服属した際も不当な扱いを受けており、不破郡への侵攻の際も兵糧の供出を余儀なくされるなど困窮を極めていた。そのため、不破郡の情勢の不安定さが露呈してくるにつれ、さらなる兵糧の供出や兵の後詰めを恐れた有力な国人領主たちは、こぞって朽木家へ身を寄せることを、親交のあった井口経親らを経由して、基綱のもとへ嘆願している。しかし、北に朝倉家を抱える朽木家はこの時、六角家との協力関係を崩すわけにはいかず、妥協案として朽木家の特産品である石鹼の製造法と綿糸の材料となる綿花の種の横流しを経親らに許可している。しかしながら、永禄6年(1563年)に六角家中で「観音寺崩れ」が発生し、家督争いによってその支配力に致命的な陰りを見せると、改めて坂田郡の国人領主たちはこぞって朽木家へ服属を申し出ており、この時は基綱も彼らの申し出を受け入れ、所領へと加えている。だが、騒動後に六角家の家督を継ぐこととなった六角輝頼が、坂田郡を朽木家が所領としたことを不満に思い、また朽木家の事情をまったく鑑みない幕臣である大舘藤安によって、その要望が将軍家からの使者の言葉として伝えられ、基綱の大きな怒りを買うこととなった。最終的には基綱との関係を重んじた足利家の足利義藤によって、六角家と藤安ら幕臣に厳しい叱責が飛ぶと共に、基綱へ謝罪の申し入れがなされることとなったが、一時的とはいえ、その関係に甚大な影響を生じさせることとなった。

堅田 (かたた)

淡海乃海の南方の滋賀郡に位置する自治の町で、一向門徒の勢いが強い地域。越前の朝倉家と事を構えることとなった朽木基綱の頭を悩ませる存在で、越前の北部にある加賀国の一向門徒と連動して動かれると、南北で挟撃される恐れがあった。堅田はその大部分を一向門徒が占める農家、商家、大工、手工業者などの集まりである全人衆(まろうどしゅう)と、彼らよりも身分的には上位にあたり、臨済宗を信じる水軍の殿原衆(とのばらしゅう)という二つの勢力によって治められている。基綱にとっての関心事は特に水軍を率い、淡海乃海に影響力を強く持つ殿原衆にあった。朝倉家との戦に突入する前には、近江の水軍に通じる林員清の仲介もあって、基綱は堅田水軍を率いる主だった指揮官の猪飼昇貞、居初又次郎、馬場孫次郎との面会の場を設けることに成功している。彼らは全人衆が朽木家の所領を羨んでいることを危険視しており、かつて1468年に行われた「堅田大責」という、比叡山延暦寺によって町が焼き討ちにされた事件が再び発生することを恐れていた。しかし朝倉家が敗れ、朽木家と一向門徒の戦いが本格化していくと、越前の木ノ芽峠で行われた合戦の最中に、全人衆は朽木家の船を接収して援護する動きを取ってしまう。その後、越前で朽木家が勝利した報が届くと、すぐに船を返却するなど弱腰な一面を晒(さら)した彼らだったが、このことは基綱の怒りを買い、堅田のみならずそれを支援した比叡山の僧兵を粉砕すると、彼らが逃げ込んだ日吉大社を包囲し焼き払う結果を招いた。殿原衆はこの際、朽木家が兵を動かして堅田にせまる姿勢を見せた時に、服属を申し出て危機を脱している。そして永禄8年(1565年)の11月には、比叡山延暦寺が焼き討ちされる事態へと発展し、堅田を巡る一連の動きが基綱に、くしくも史実の織田信長が担った役回りと同様の行動を取らせる結果へとつながった。

国友村 (くにともむら)

旧浅井領の坂田郡にある鉄砲の生産地。境と肩を並べる二大生産地として史実では有名だが、現代の知識を持って転生した朽木基綱がいる今世では、そこに朽木谷が割り込んでいる。坂田郡は朽木家が浅井家との戦の際に、一度は制圧しながら美濃の一色家の所領と接することを嫌い、六角家へと譲り渡していた経緯がある。しかし、今度は「観音寺崩れ」によって六角家が崩れると、相当の不満を持っていた坂田郡の国人領主たちが、こぞって朽木家への服属を申し出たため基綱としても受け入れざるを得ず、朽木家の所領となった。朽木谷で鉄砲の生産を行うほど軍備において、その存在を重要視している基綱は、足利家の将軍である足利義藤から、鉄砲の火薬の製造方法について書かれた「鉄砲薬之方并調合次第」という書物を賜ったことで、火薬の自給もある程度果たしており、初陣も含めて大量の鉄砲を実戦で使用して武名を高めている。そのため、基綱率いる朽木家は国友村を有した時点で1000丁に近い保有数を誇っていた。この事実から、国友村と朽木谷という二つの生産地を所領に持つ朽木家という勢力は、新たに六角家を継いだ六角輝頼からすると不気味にほかならず、鉄砲生産を占有するのかと、たびたび不快感を朽木家へ示しており、両家の関係に影を落とす要因の一つとなっている。また、坂田郡に新たに基綱が築いている今浜城は、北国街道と淡海乃海を交通、経済の要衝として築かれていると同時に、国友村や北国街道を防衛する拠点としての側面があり、そのことも六角家を刺激することとなっている。

その他キーワード

川中島の戦い

上杉家と武田家が北信濃の覇権を争って繰り広げた戦。史実では5次、10年にわたって行われた。朽木基綱は現代に培った歴史知識によって、史実のそれを不毛な戦だったと分析している。戦が行われた背景には耕作地が... 関連ページ:川中島の戦い

野良田の戦い (のらだのたたかい)

浅井家が六角家へと仕掛けた戦。1560年の8月に行われ、浅井家の兵力6000に対して六角家は1万1000の兵力で迎え撃った。現代の史実では劣勢となった浅井家において嫡男の浅井賢政(のちの浅井長政)による乾坤一擲の突撃が功を奏し、六角家が敗れ去る下克上の結果となっている。現代から転生した朽木基綱はこの戦について、かつてよく調べた経験がありその詳細をよく知悉していた。そのため、六角家の意向によって手伝い戦に駆り出された際も、十分な兵力を整えて参加している。また、午(うま)の時の前後に浅井家の先鋒が崩れると、あとのなくなった浅井賢政が突撃を仕掛けてくることも基綱は知っており、それに備えて鉄砲隊の火種を絶やさぬようにしながら、真夏の昼前という酷暑によって兵が徒(いたずら)に体力を消費しないよう、適度に休めという指示を出している。結果、史実どおりに浅井賢政が六角家本陣へ突撃を仕掛けた際に、史実には存在しなかった朽木家の鉄砲隊による逆撃が成功し、浅井家は浅井賢政をはじめとする有力武将の大半が討ち取られるという、大敗を喫することとなった。この褒賞として朽木家は六角家から、近江高島郡にある蔵入り地1万石を賜る。しかし、これによって3倍の兵力を持つ浅井家と領地を接することとなった朽木家は、矢面に立つことを強制されたに等しく、お家存続のために浅井家の所領を喰うという、戦への舵(かじ)取りを余儀なくされてしまう。

桶狭間の戦い

永禄3年(1560年)に織田家と今川家のあいだで行われた戦い。史実と同じく、現代の知識を持った朽木基綱が転生した今世でも行われており、織田信長の率いる寡兵の軍勢によって、東海道の覇者とも謳(うた)われる今川家の軍勢に奇襲を仕掛け、当主である今川義元を討ち取る大戦果を上げている。これにより「うつけ者」と称されていた信長は一躍有名となり、戦国の世に武名を示すこととなる。

観音寺崩れ

永禄6年(1563年)に六角家で起こった、家督争いをきっかけとしたお家騒動と、それによって発生した内乱。史実でも発生した騒動で、作中では「観音寺騒動」あるいは「近江大乱」とも称されている。きっかけは美濃の不破郡での戦のあと、旧浅井領であった坂田郡に居を構える国人領主たちが戦の負担を強いられたことで、戦を主導した六角義治への不平不満が限界に達したこと。さらに不破郡を巡り、美濃を治める一色家と終わりの見えない紛争状態に突入したことで、六角家内部の国人領主たちからも六角義治への不信があらわとなったことなどがある。それにより、後継の座があやうくなった義治を慮った当主の六角義賢は、一色家との和睦に伴い出家することで国人領主たちへの謝罪すると同時に、面目を潰されることとなった義治の後継の座を確かにするため、家督を譲る決断をした。しかし、その決断は既に時機を逸しており、美濃の鉢谷衆による調略で次男の六角義定が当主に相応しいという噂を流されたことも相まって、騒動は収まりの着かない状態へと発展していった。その様子を見かねた朽木基綱は、朽木家の軍略方から出された案を飲み、騒動の原因となっている義治、義定のどちらかを朽木家で預かるという提案を義賢に持ちかけている。背景には妻の朽木小夜が義賢の義理の娘として嫁いできていることや、実家である平井家との関係を重んじた面があり、義賢も苦渋の決断ながらそれを受け入れる方針を固めている。しかし、最終的には基綱への嫉妬心と、当主の座を退かされる屈辱に耐えきれなかった義治の暴走を招き、義治の面目を潰す美濃との和睦案をだした後藤但馬守と、父親の義賢、弟の義定らを義治が弑(しい)する結果となった。史実では家臣のみの排除だったのに比べ、こちらでは親族に手を掛けていることから、より騒乱は大きなものとなっている。

永禄の変

永禄8年(1565年)の1月21日に山城国の二条御所にいる征夷大将軍の足利義藤(当時は足利義輝)を、三好家の一万の軍勢が襲撃した事件。史実でも起こった事件だが、それよりも半年ほど早く起きている。事の発... 関連ページ:永禄の変

澄み酒 (すみざけ)

現代人が転生した朽木基綱が朽木家を豊かにするため、最初に作り出した特産品。濁り酒に竈(かまど)の灰を入れて一晩寝かせることで出来上がる酒で、澄み切って味が絶品の清酒。そのため新年の祝いから、縁起物や出陣式とさまざまな場で供する品として相応しいと、売り出すや否や商人の手によって高値で取り引きされ、瞬く間に朽木家の名物となった。また澄んだ酒であるため、飲む時に使用する漆器の塗りにこだわる者たちも増えており、それを作る木地師や塗り師らも繁盛したため、彼らからの評判もいい。このことがのちに、表の顔として木地師として生計を立てていた鞍馬忍者たちを、基綱が朽木八門衆として従える縁につながることとなった。この澄み酒が遠方でも評判となるほどに売れたことで、朽木家はたちまち裕福となったのだが、一方で澄み酒を作るための材料として白米を大量に消費するようになったため、当主である基綱らも白米を口にする機会を減らすしかなく、金銭的余裕に逆行するようにして食生活が貧しくなった。朽木谷に足利家の面々が逼塞していたあいだ、彼らの無聊を慰めるために饗(きょう)されていたほか、そこへ挨拶に来ていた長尾景虎が大量に飲み干すなど、商品として以外にも贈答品や歓待の品としてさまざまな場面で活用されている。

椎茸

朽木基綱が所領で幅広く生産させている特産品。公家や朝廷、将軍家の足利家への献上品や年始、節目の祝い事に際して贈答品として用いられるような高級品で、その活動に膨大な資金を必要とする朽木家の体制を支える重要な特産品の一つとなっている。基本的には干し椎茸が贈られることが多い。栽培そのものを行っていることは、当初は朽木家の秘事とされており、朽木綾の口から公家や朝廷をはじめとした外部へ口外されることすら禁じられていた。また、ほかの特産品である石鹼や綿糸の原料となる綿花の種は、新たに所領とした国人領主たちへも条件付きで広めている一方、椎茸に関しては長いあいだ、朽木家の家臣団にすらその生産方法はもちろんのこと、自ら生産している事実ですら公にされていなかった。

石鹼

朽木基綱が所領で幅広く生産させている特産品。比較的誰にでも生産出来る一方、高級品であり、その活動に膨大な資金を必要とする朽木家の体制を支える重要な特産品の一つとなっている。当時の石鹼は洗浄剤としての使用は珍しく、主に下剤として使用される薬品としての側面が大きかった。綿糸の材料である綿花の種と並んで、新たに所領に加わった国人領主たちなどを、朽木家が採用する関を廃止した経済圏に取り込むため、その政策を押しつける交換条件として石鹼の製造方法が力を持つほど、領地に銭をもたらす需要がある。また、旧浅井領であった坂田郡の国人領主たちが六角家と美濃の一色家の争いに巻き込まれて困窮極まった際には、基綱に泣きついて綿花の種と石鹼の製造方法を秘密裏に譲り受けたほど、外交上の力としても働く力がある。

綿糸

朽木基綱が所領に生産させようとしている産物。船の帆をはじめ、包帯や火縄、衣服、布団、座布団とさまざまなものに使用できるため需要が非常に多いため、大量生産をしても無駄になることは考えづらい。年貢の取り立てや徴兵に至るまで貨幣の流通に重きを置く朽木家の所領では、関の廃止の見返りとして国人領主たちに、綿糸の材料となる綿花の種と石鹼の製造方法を教えることで、自分たちでお金を稼ぐ手段を与える方針を執っている。経済的に苦しい領地の人々にとっては綿花の種を手に入れられることは、ある種の施し以上の力を持っており、旧浅井領であった坂田郡の国人領主たちが六角家と美濃の一色家の争いに巻き込まれて困窮極まった際には、基綱に泣きついて綿花の種と石鹼の製造方法を秘密裏に譲り受けたほど、外交上の力としても働いている。

漆器

朽木家の特産品。朽木家の職人によって製作された漆器は、「朽木塗」とも呼ばれる。石鹼や椎茸といったほかの特産品とは異なり、朽木基綱が考案したものではなく、澄み酒が特産品として有名になるに伴い需要が増した結果、朽木家の所領で特産品となった。ほかの酒とは違い、透き通った澄み酒によって塗りがきれいに映えることで塗り師に喜ばれている。また、京の高級な観賞用の漆器と比較して、安価な朽木家の漆器は日常品として珍重されており、競合を避ける形で売れている。

鉄砲薬之方并調合次第 (てっぽうやくのかたならびにちょうごうしだい)

朽木基綱が三好長逸の誘いを断ったことで、その忠義を疑った謝罪に足利義藤から賜った書巻。もとは九州の大友家から将軍家の足利家へ献上されたものので、賜り物はその写しとなっている。鉄砲薬之方并調合次第には鉄砲に使用する火薬の製造方法が記されている。基綱自身は火薬の製造方法を既に現世の知識として有していたが、この書巻を賜ったことをきっかけに朽木谷の西山城で、秘密裏に火薬の配合に必要な硝石を製造する方針を固め、実行に移すこととなる。決断に至った背景には、弱小勢力である朽木家が力を付けるには装備を拡充し、鉄砲を活用するしかないと基綱が判断したことにある。そのため、火薬の確保に不安があってはならないと考え、金銭以外での確保手段を求めるに至った結果、製造そのものに手を付けることとなった。この硝石作りの事実を知る者は、朽木領内でも当主の基綱を除けば、当初は日置行近と大叔父の朽木惟綱のみとなっている。これは、朽木稙綱たちに知らせることで、間接的に足利家をはじめとする幕府方や三好家などの諸大名に、その事実が漏れることを避けるためだった。義藤らが朽木家からいなくなり、高島七頭の戦に勝ち居城を移すことになる時まで、稙綱には伏せられていた。

歯磨き (はみがき)

朽木基綱が考案した朽木家の特産品。刷毛(はけ)の部分に馬の尻尾の毛を用い、持ち手は竹でできており、形はそのまま現代の歯ブラシを模している。制作にはさまざまな動物の毛が試されてきたが、そのどれもがうまくいかず、試行錯誤の末に馬の尻尾にたどり着いた経緯がある。公家や足利家にもほかの特産品共々献上され好評を博しており、商家もさらに沢山の歯磨きを欲しがっているため生産が急がれている。そのため、馬の尻尾の毛が生えそろうや否や刈られることが多く、朽木の馬の尻尾は妙に短いと称されている。

感状 (かんじょう)

功績のあった者に主君が与える賞状。のちに領地安堵などのさまざまな証拠文書となる。朽木基綱が忍働きへの褒賞として朽木八門衆に与えた。これまでの歴史上、源義経をはじめとしたさまざまな人物に数々の貢献をしながら、それらすべてを闇へと葬られてきた朽木八門衆にとっては、何物にも代え難い形に残る功績である。基綱も感状を与える際には、将来的に朽木が滅びて主君を代えることになっても、これがあればいくらかましになるだろう、と語っている。

死生命なく死中生あり (しせいめいなくしちゅうせいあり)

「第四次川中島の戦い」に臨む前の長尾景虎に相談を持ちかけられた朽木基綱が贈った助言。のちに景虎が口にした際には「死中命無く死中生有り」と一部が漢字になっている。上杉家が「第四次川中島の戦い」で大勝したことにより、知らぬ者のいないほど有名な言葉となった。この言葉が生まれた経緯は、上杉家と武田家のあいだで3度にわたって行われた「川中島の戦い」において、勝敗のはっきりとしないことに悩んだ景虎が、上洛の際に朽木家を訪ねると、元服前ながら軍略において武名を高めつつあった基綱に助言を求めたことに始まる。当初は初陣を終えたばかりの若年であり、川中島の地理にも明るくなかったことから断った基綱だったが、露骨に肩を落とした景虎の様子に見ていられず、ついつい掛けてしまった言葉というのが実情であり、助言をした当人も当り前の言葉を掛けたとしか思っていなかった。しかし、そのやりとりから2年後に行われた「第四次川中島の戦い」に臨む際、陣中にあった景虎が配下の武将や兵たちにこの言葉を贈って士気を鼓舞すると、景虎は実際の史実とは異なり、後方に守り手を置くことなく攻撃を敢行し、武田陣営に甚大な打撃を耐えることに成功する。この大勝の報と共に諸国へこの言葉が広まると、上杉へ勝利をもたらした基綱の箴言として、たちどころに有名な言葉となった。景虎との会話の際に、基綱はこの言葉を「必死に活路を見いだす努力」が肝要である意味と説いている。また、「切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ」「踏み込みゆけばあとは極楽」という言葉を続けて語り、こちらは太刀で相対する際の恐怖は正に地獄だが、その恐怖を乗り越えれば相手の体があり、太刀を振るえば届く恐怖を感じるヒマもない極楽がある、と説いている。また、実際に「第四次川中島の戦い」の直前、陣中にあった景虎が掛けた言葉は「死生命無く死中生有り」のあとに「およそこの世に宿命(さだめ)などなし」「ただひたすらに死物狂いで戦う先にこそ生がある」と続けている。それにより、死を恐れずに戦った先にこそ、武田信玄の首があると家臣たちへ説いている。

朽木仮名目録 (くつきかなもくろく)

朽木家の所領に発布された分国法。法令、規則を箇条書きにしたもので、現代でいう法律にあたり、朽木基綱は「朽木分国法」とも称している。浅井家との戦のあと、急激に増えた所領と外様の家臣や国人領主たちに対し、理を持って統治に当たるという安心感を与えるため、基綱によって考案された。制作に当たっては今川家が使用している今川仮名目録を参考としている一方で、寺社仏閣などをはじめとした特定の領域に対して守護が立ち入れないよう幕府が定める「守護不入」という取り決めの否定が盛り込まれている。これによって幕府の権威を否定することで、旗色をより鮮明にする狙いもあった。

兵糧方

朽木家に設けられた役職。戦時に兵糧を戦場へと運ぶ小荷駄奉行(こにだぶぎょう)に対し、兵糧方は平時や戦時を問わず兵糧を管理する役を担う。戦があった際に動員する兵力を活動させるための兵糧の置き所から、戦場へと運ぶ手段の手配など、兵糧に関する事柄全般を幅広く担当する。また、兵糧のみならず武器弾薬の手配も仕事に含まれており、地味ながら朽木家の戦における兵站を担う重要な役職となっている。そのため、役職には朽木基綱の親族である朽木輝孝と朽木直綱が就き、のちに長らく基綱の近習を務めていた山口教高と山内一豊らも加えられている。

公事 (くじ)

現代でいう裁判。朽木基綱の所領に発布された「朽木仮名目録」をもとに、公事奉行へ届けられた訴えの決済を行う。公事は評定衆の同意のもと、必ず評定の一環として行われることとなっており、これにより基綱が恣意的に法を運用していないことを内外に示す仕組みとなっている。また、判決の書かれた沙汰書については基綱の右肩上がりのくせ字が喜ばれているという理由から、代筆ではなく基綱が直筆で全文を書くことを要望されている。

クレジット

原作

イスラーフィール

キャラクター原案

碧 風羽

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