鬼滅の刃、名探偵コナン、推しの子、・・・。毎年いくつものエンタメ作品が世を騒がせます。ヒット作品は、50万部突破、興行収入100億円、総PV1億回など、数字や結果ばかりが表にでてくるものですが、作品が作られるまでには数々の試行錯誤や葛藤があるものです。
本連載ではそのような試行錯誤や葛藤に焦点を当て、ヒット作品の輝かしい実績の「裏側」に迫ります。次々とヒット作を生み出すクリエイターは、どのような道を歩んできたのか。挫折や逆境を乗り越え、今に至るまでのキャリアの築き方についてお伺いしました。
鬼滅の刃、名探偵コナン、推しの子、・・・。毎年いくつものエンタメ作品が世を騒がせます。ヒット作品は、50万部突破、興行収入100億円、総PV1億回など、数字や結果ばかりが表にでてくるものですが、作品が作られるまでには数々の試行錯誤や葛藤があるものです。
本連載ではそのような試行錯誤や葛藤に焦点を当て、ヒット作品の輝かしい実績の「裏側」に迫ります。次々とヒット作を生み出すクリエイターは、どのような道を歩んできたのか。挫折や逆境を乗り越え、今に至るまでのキャリアの築き方についてお伺いしました。
音楽プロデューサー・菅野祐悟氏のインタビューを4週に渡り、お届けしています。
2週目の今回は、菅野氏の幼少期から音楽との出会い、そして作曲家の夢を描くまでの過程をお伺いしました。
1997年、東京音楽大学作曲科に入学。在学中よりアーティストへの楽曲提供を始め、卒業後は「森永」や「新ビオフェルミンS」など、現在も使用されているCMサウンドロゴを制作。2004年フジテレビ系月9ドラマ「ラストクリスマス」において、27歳にて劇伴デビュー。その後、ドラマ「ハケンの品格」「ホタルノヒカリ」、アニメーション「PSYCHO-PASS」や「ジョジョの奇妙な冒険」など、ヒット作品を数多く担当する。
2.好きなことを仕事に選ぶ - 映画音楽との出会い、大河ドラマへの憧れ
―― 大学では映画放送作曲コースを専攻し、作曲家の中でもポップスや映画音楽に特化したコースかと思います。作曲家としても多様なジャンルがある中で、いつからご自身の方向性を絞っていましたか?
菅野祐悟氏(以下、菅野) 今みたいな形を想像したのは、多少の変化はあっても、中学1年生のときから変わってないですね。
僕が小学生の高学年くらいのときに、とても美しい音楽を書く作曲家の存在を知りました。ミシェル・ルグランと、エンニオ・モリコーネという映画音楽の作曲家です。クラシックでもジャズでもない、でもすごく綺麗で美しい音楽で。その音楽を純粋に好きだなと思ったんです。
こういう音楽が世の中にあるということは、映画音楽の作曲家というものが職業としてあるということに気がつきました。なので僕の中では、映画で流れる音楽という認識より、純粋に音楽単体として映画音楽を聞いたというのが最初でした。
もちろんテレビとか映画で、音楽を聞いてはいたと思います。ただ映画音楽自体を意識したのは音楽単体が先で。それは父親が聞いているレコードやCDから意識したのかな。
―― 音楽を知ってから映画やテレビでも意識するようになった、と。お父様の影響が大きいんですね。
菅野 父親も母親も音楽が好きで。父親はいわゆるオーディオマニアだったんですが、レコードやCDがいっぱいある家でした。基本的にはジャズとクラシックが好きな父親で、オーディオルームを家に作ったりとか。
幼稚園とか小学校の頃は、木を切って、箱を作って、半田ごても使って、すごく大きなスピーカーを作ったりしました。あとは当時何十万もするようなCDプレーヤーを買ってきたりとか。
ジャズではキース・ジャレット、クラシックでは指揮者のカラヤンのレコードを聞いたりしていました。あとはわりとポップなところで言うと、リチャード・クレイダーマンとかのライトクラシック的な音楽を聞いたりもしていました。
もう1個は、親が大河ドラマを見ていた影響が大きいと思います。毎週オープニングで大河ドラマのテーマ曲が流れます。毛筆でテレビ画面の真ん中にどんと音楽を担当される方の名前が、キャストよりも先に書かれるんですよ。
何より大河ドラマのテーマ曲ってすごくいいんですよね。壮大でキャッチーでかっこいいんです。そういう大河ドラマの音楽っていうのが小学生や中学生の時からかっこいいなと思ってはいて。
大河ドラマに自分の音楽が流れるっていうのは、親からしても現実味がない。自分の息子が野球が好きだからって大リーガーになる、サッカーが好きだからセリエAで活躍する選手になる、宇宙飛行士になる、そのぐらいありえないことだったと思うんだけど、そこに対する憧れの気持ちみたいなのがずっとありました。
余談なんですが、20代半ばぐらい……、今の事務所に入る時、今の事務所の社長に、「僕は大河ドラマの音楽と、月9の音楽と、ガンダムの音楽をやれる作曲家になりたいと思うんで、よろしくお願いします。」と最初に言って事務所に入ったんですよ。そんな感じで1つの目標だったんですよね、きっと。大河ドラマっていうのは。
―― では、大河ドラマの音楽が決まったときはご両親もすごく喜んでくれたのでは?
菅野 そうですね。大河ドラマと朝ドラは親孝行になったと思います。
―― その夢がすでに叶えられていることが素敵だなと思います。
菅野 コナンの音楽をやることになるとは、夢にも思ってなかったですけどね(笑)。
―― 25作目からコナンの音楽を菅野さんがされると知って嬉しかったです。
菅野 ええ!本当ですか、変わってますね(笑)。
劇伴作曲家やサウンドトラック自体、一般の人たちは存在をほぼ意識しないで生活していると思うんですよ。アニメを好きな人たちは、スタッフに興味を持ってくれる人が多いですが。
例えば僕を誰かが紹介してくれる時に、「あのドラマの音楽を作った作曲家だ」と紹介すると、「え?ミスチルの人?」って主題歌の人と勘違いされるんです(笑)。
―― 映画音楽の道を目指すようになったのはいつ頃でしたか?
菅野 作曲家になるという意識は、小学校1年生の頃から今までも変わってないですが、映画音楽をやる、アニメやドラマの音楽をやることに関しては、もちろんやってみたかったですが、やれる方法がわかりませんでした。当時は、映画音楽も歌ものの曲も、両方作る作曲家になりたかったんです。
―― もう少し具体的に伺いたいです。
菅野 ただ僕の音楽のインストゥルメンタル*に対して、世の中が興味を持って使ってくれたというのが大きくて。仕事になっていくと数をこなしていくし、気づいたらインストゥルメンタルに向いてる作曲家なんだなというのを、世の中が教えてくれました。
大学生の時に、15曲から20曲ぐらいのデモテープをCD-Rに焼いて、レコード会社や音楽事務所に送るという営業活動をやっていました。
頭に歌ものをばーっと入れて、後ろにインストゥルメンタルを入れて送ってたのに、ことごとく「君は面白いね」と言われるのが後ろの方なんです。歌もののコンペ形式はことごとく落ちて、全然引っかからなくて。最初もCMの会社からインストゥルメンタルで音楽の仕事が来ました。
結局それが仕事になってきて、そんなことをしているうちに、今の事務所の社長との出会いがあったんです。そこでもやっぱりデモテープの中で「この曲とてもいいね」と言ってくれたのが、ピアノとストリングスの曲でした。
世の中が求めてくれてることに頑張って応える。ファンの方に喜んでもらうというか、一生懸命やって来たことが、ひょんな出会いとか、運命のいい意味でのいたずらみたいな繰り返しで、今の僕という人間が出来上がっていると思います。
*インストゥルメンタル・・・歌のない楽器のみで演奏された音楽。
―― 最初から映画音楽の作曲家をまっしぐらに目指していたわけではないんですね。
菅野 そうですね。それがたまたま人に恵まれてやりたいことができている。ただ、作曲家になりたいとはずっと思っていたし、そこに対しては極端だなと自分でも思うんですが、「作曲家」という職業以外の選択肢を持ったことが人生で1回もないんですよ。1秒もないです。
人にピアノを教えたりとか、レストランでピアノを弾くバイトとかもやったけど、どんな仕事をやったとしても全部副業なんですよ。極端に言うと、作曲家になるために生まれてきたみたいな(笑)。そんな風に思い込んでたんです。
音楽のジャンルは変われど、そこは一度もぶれたことがないですね。音楽好きの家庭ではあったけど、父親も母親もプロの音楽家ではなくて、サラリーマンの普通の家で生まれていますから。作曲家として生まれてきたわけでは全くなくて。
歌舞伎の家に生まれたから、歌舞伎役者に必ずなるとか、そういうわけではないんだけど、ただ自分の中で、そんな風に思い込んでましたね。
【第3回記事】 はこちらから。
難関なオーディションや障壁を、どのように乗り越えてきたのか。狭き門である「作曲家」になるまでの道のりについてお伺いしました。
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