概要
永禄8年(1565年)の1月21日に山城国の二条御所にいる征夷大将軍の足利義藤(当時は足利義輝)を、三好家の一万の軍勢が襲撃した事件。史実でも起こった事件だが、それよりも半年ほど早く起きている。事の発端は丹波で反三好勢力と戦っていた内藤宗勝が、味方の国人衆に裏切られる形で大敗北を喫し、丹波から追い出されたことで三好に悪感情を持っていた畠山氏と足利家が息巻いたことにある。また、その前段階として三好家は三好長慶の後継者として評判の高かった三好義興を喪っており、それによって腑抜けとなった当主の長慶も病没して内情が不安定な状態にあった。あとを継いだ三好重存は、長男、長慶の兄弟の中でも四男である十河一存の一人息子ながら、その父親、一存は既に故人となっており、代わりに長慶の弟で兄弟の中でも次男の三好実休の次男が十河家の養子となって家を存続する形となった。この複雑な後継問題は、三好家内で穏やかならぬ雰囲気を生み出している。そのため、足利家に対して強い不満を持ちながらも、朽木谷への逼塞や京への帰還を許した長慶の時代と比べると、三好家内外の状況が非常に不安定化しており、事情がまったく変わっている状況にあった。その状態で足利家が方々の大名に三好討伐の手紙を出したことで、反三好運動が拡(ひろ)がることを恐れた重存は丹波遠征の名目で京に兵を集めると、訴訟と偽って二条御所の門を開けさせ、白昼に攻め入るや義藤を討ち取った。この時、一万の兵に包囲されたことを知った義藤は逃げられぬことを悟り、別れの杯を家臣たちと交わすと鎧をまとわず、大量の刀を座敷に刺して刺客を待ち構えた。その際、三好勢を相手に奮戦をするも、討ち取られている。「永禄の変」のあとに飛鳥井家から朽木基綱に送られてきた文によれば、襲撃の前日に義藤は一度、二条御所を逃げ出す素振りを見せていたものの、この際に逃走を近臣によって反対され、しぶしぶ二条御所へと戻っている。基綱は、おそらくは義藤が三好家の計画について知っており、その情報は三好家内部で計画に反対した人間が故意に流したものだろうと推測している。「永禄の変」では義藤側は全員討ち死にしたうえ、公家の有力者である近衛家の出身で、義藤の母親である慶寿院と、側室で子供を妊娠していたとされる小侍従も命を落としている。一方、義藤の正室であり、朝廷で関白の地位にある近衛前嗣(この時期は近衛前久に改名している)の妹は丁重に近衛家へと帰されており、三好家の動向を朝廷側が正確につかんだうえで、裏取引をしながら黙認の姿勢を見せたのではないかと、基綱は怪しんでいる。この考えを裏付ける形で、義藤の弟で出家していた覚慶は奈良一乗院に軟禁状態におかれた一方、もう一人の出家している弟で、義藤、覚慶とは異なり慶寿院とは別の母親を持つ周暠(しゅうこう)は命を奪われている。「永禄の変」のあと、六角家では蟄居されていた六角義治が死去する。六角家からは病死との発表がされるものの、将軍という後ろ盾を失った六角家の当主を務める六角輝頼が反乱を警戒して、毒殺したのではないかと噂されている。また三好重存は、「永禄の変」を終えても京を空ける不安から兵を丹波へ動かすことなく、そのまま留めている。また、丹波は新足利色の強い国人衆が多いという土地柄もあり、「永禄の変」後は反三好感情がさらに強まっている状況にある。
登場作品
淡海乃海 水面が揺れる時 (あふみのうみ みなもがゆれるとき)
イスラーフィールの小説『淡海乃海 水面が揺れる時 ~三英傑に嫌われた不運な男、朽木基綱の逆襲~』のコミカライズ作品。現世では昭和生まれで歴史好きの50代のサラリーマンは、ある日、戦国時代の国人領主(こ... 関連ページ:淡海乃海 水面が揺れる時
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