概要
三好家の重臣である松永久秀の弟。仮名や官名を含めた名前は「内藤備前守宗勝」。久秀と同じく三好家に仕え、武将としての才覚は久秀を上回るとされる。三好家が手に入れた丹波の所領を預かっており、若狭の武田家を虎視眈々(たんたん)と狙い続けていた。しかし、丹波には反三好家の国人領主がいるため、近隣に領地を持つ朽木家の朽木基綱は牽制(けんせい)の意味合いも兼ねて、朽木八門衆による調略で反三好家の感情を煽るように仕掛けている。内藤宗勝が積極的な行動を取ったのは、六角家で「観音寺崩れ」の騒動が起こった際で、近江の南で勢力の均衡を保っていた六角家が家督争いで一時的に力を失ったのを見るや、これに合わせる形で兵を動かし、永禄6年(1563年)の6月には京を経由して近江を攻める素振りを見せながら若狭に攻め込んでいる。それに対した若狭の武田家の当主である武田義統は反抗らしい反抗を示すことなく、近隣の朝倉家を頼って逃げ出したため、半月もかからないうちに若狭を三好家のものとしている。この時、基綱も宗勝の動きに即応する形で清水山城に兵を集めているが、六角家のみならず、六角家内にいる朽木家縁の平井定武や鯰江為定といった人物も反応を示すことなく、宗勝の行動を黙認している。丹波と若狭を三好家の領地とした宗勝だったが、その後も丹波の国人領主たちによる反乱が収まる様子を見せず、若狭に兵を残すことができずに無防備な状態で事に当たらなければならない状態が続く。その後、永禄7年の7月、三好家当主である三好長慶が病死し、家中の不安定感が増す事態が発生する。9月になると宗勝は丹波の反三好家の勢力を鎮圧しようと改めて兵を挙げるが、攻めづらく冬がせまりつつある時期の出兵に、基綱は長慶の死による焦りがあったのではないかと推察している。その考えの根拠には史実における宗勝がそろそろ命を落とした頃だったという、現世の知識も背景にあった。その予想は半ば的中することとなり、10月から12月にかけて越前の朝倉家が加賀の一向門徒による一揆(いっき)勢の乱入を食い止められず、越前の北半分から払拭されたのと時期を同じくして丹波での戦で大敗を喫している。原因は味方だと思っていた国人領主による裏切りにあり、辛うじて命だけは拾ったものの、内藤氏ごと丹波から叩き出され、丹波が反三好家の勢力で一本化される結果を招いている。この敗北は、足利義藤(当時は義輝)の増長を招き各地へ反三好家の兵を挙げるようにという文を出させることとなった。結果、家督を継いで間もないうえに、地盤に不安定要素のあった新当主の三好重存は義藤の動きを無視できず兵を挙げると、二条御所を包囲して将軍ともども幕臣たちを襲撃する「永禄の変」を起こすことへとつながっていく。実在の人物、松永長頼がモデル。
登場作品
淡海乃海 水面が揺れる時 (あふみのうみ みなもがゆれるとき)
イスラーフィールの小説『淡海乃海 水面が揺れる時 ~三英傑に嫌われた不運な男、朽木基綱の逆襲~』のコミカライズ作品。現世では昭和生まれで歴史好きの50代のサラリーマンは、ある日、戦国時代の国人領主(こ... 関連ページ:淡海乃海 水面が揺れる時