概要
六角家の当主である六角義賢の嫡男。仮名や官名を含めた名前は「六角右衛門督義治」。幼い頃から六角家の後継者として育てられており、重要な軍議の場にも六角家を支える屋台骨である六角六人衆と共に参加させられ、意見を述べることも許されていた。しかし、その性格は短慮で激しやすく、次第に将来を不安視されていくこととなる。近隣で当主として頭角を現し、評価を高めていった朽木基綱とはほぼ同世代で、基綱よりも3歳ほど義治が年上である。のちに基綱の嫁として嫁いだ朽木小夜は、六角六人衆の一家である平井家の娘だが、六角家と朽木家の誼を結ぶため、形式上とはいえ義賢の娘として養子に入ったうえで基綱へと嫁いでいる。そのため、六角義治と小夜は関係上、義理の兄妹という関係になる。周囲が同年代である基綱の武功や発想を褒め称えれば褒め称えるほど、やがて基綱に対して強い妬みを持つようになり、父親である義賢までもが基綱を重要視するようになると、その感情を隠さなくなる。この感情はたびたび基綱への嫌がらせとして現れており、朽木家に対して牽制のもめ事を起こすだけのところを、高島七頭を動員した戦争に発展させるなど、多大な影響を六角家、朽木家のみならず周辺の諸家に対してももたらしている。決定的となったのが武功を焦った義治が主導して行った美濃の不破郡に対する侵攻作戦で、義賢、基綱の双方から成功しないと見られていたこの作戦が成功を収めたことにある。これにより、一時は不破郡を手中に収めるも、即座に反撃に出てきた美濃の一色家と泥沼の紛争へと突入し、度重なる戦によって負担を掛けた国人衆の信頼を失ってしまう。これに慌てた義賢が義治の才覚のなさに気づきながらも、自らが戦の責任を取って出家し、隠居することで義治に家督を譲って丸く収めようと画策する事態となる。しかし、一色家が鉢谷衆をつかった調略を仕掛けていたことで義治の弟である六角義定を当主へ推す噂を領内に流されたことや、義治を不安視した国人衆が義賢の隠居を許さなかったことなども相まって、時機を逸するばかりか家督を譲ったことが裏目に出てしまう。また、不破郡を巡る一件を収める方策として自身を推していた六角六人衆の蒲生定秀とは異なり、国人衆の代弁をせざるを得なかった後藤賢豊を、一方的に敵視するようにもなっている。この段になると、定秀と共に義治を推していた三雲定持も義治と距離を置こうとし始めるが、賢豊ら六角六人衆と反目する義治は定秀、定持をそばから離そうとせず、のちにこのことは両家の不利益を招いている。転機となったのは一向に収まりを見せない家督騒動に、背後の守りが不安となった基綱が、家臣の進言もあって義治と義定のどちらかを当家で預かるという提案を義賢にしたことがある。これを知った義治は自身の才覚のなさを自覚し、一度は進んで隠居するそぶりを見せるも、家督相続の場で義賢、義定、後藤賢豊をその手に掛ける「観音寺崩れ」を引き起こす。これによって六角六人衆は一時期全員が領地へ引き上げ、父親を失った後藤壱岐守は仇討(あだう)ちを名目に義治討伐を宣言している。さらにこの宣言を平井定武、目賀田忠朝、進藤賢盛などの六角六人衆が支持したことで、家中での対立構造を作り出してしまった。観音寺城の曲輪(くるわ)から六角六人衆が去ったことで防御力を失ったと気がついた義治は、この時、定秀を頼って蒲生家の日野城へと逃れているも、その後、騒動の責任を取らされる形で蟄居させられている。その際に基綱の見立てでは、1年ほどしか生きられないだろうと見られていたが、その予想どおり、三好家による将軍、足利義藤(当時は義輝)を襲撃した「永禄の変」に呼応する形で時を置かず病死している。この義治の死は、後継者となった六角輝頼の手による毒殺と噂されている。幕臣であり、義賢の縁戚でもあった細川家からの養子という形で家督を相続した輝頼にとって、六角家家中に味方は少なく、将軍である義藤は数少ない強力な後ろ盾だった。それを「永禄の変」によって失ったことで、六角家当主としての地盤が不安定な状態へ追い込まれており、義治の存在を危険視したためではないかと、基綱は推察している。実在の人物、六角義治がモデル。
登場作品
淡海乃海 水面が揺れる時 (あふみのうみ みなもがゆれるとき)
イスラーフィールの小説『淡海乃海 水面が揺れる時 ~三英傑に嫌われた不運な男、朽木基綱の逆襲~』のコミカライズ作品。現世では昭和生まれで歴史好きの50代のサラリーマンは、ある日、戦国時代の国人領主(こ... 関連ページ:淡海乃海 水面が揺れる時