宮沢賢治の食卓

宮沢賢治の食卓

童話作家の宮沢賢治の半生と、彼にかかわってきた人々に関する複数のエピソードを基にしたヒューマンドラマ。紆余曲折を経て、岩手県の花巻農学校で教師を務める賢治の、生徒たちとの心温まる交流や、愛した人との出会いと別れ、そして進むべき道に迷っていた賢治自身が、宮沢清六や宮沢政次郎などの家族や、近森善一や及川四郎といった仲間たちに支えられて、自分が何をしたいか見いだしていく姿を、当時の食生活と照らし合わせて描く。「思い出食堂」15号から32号にかけて、不定期に掲載された作品。

正式名称
宮沢賢治の食卓
ふりがな
みやざわけんじのしょくたく
作者
ジャンル
ヒューマンドラマ
関連商品
Amazon 楽天

あらすじ

第一巻

1921年。25歳を迎えた宮沢賢治は、宮沢トシが結核を患ったという知らせを受けて故郷の花巻市へと帰還し、のちに花巻農学校となる「稗貫農学校」の教師に就任する。そして、学校での仕事を終えると毎日のようにトシのもとへと見舞いに訪れ、そのたびに面白おかしい話を聞かせては彼女を喜ばせていた。また学校でも、農業実習の中で麦こなしのつらさを共有し合いながら、スイカ畑や北上川で遊ぶことで「何事も楽しむこと」を教えて、生徒たちに対して親身になって接し、さまざまな人たちから慕われる日々を過ごしていく。しかしそんなある日、下根小桜の別宅で療養していたトシの結核が悪化し、余命いくばくもない状態となる。苦しみながらも気丈な様子を見せるトシに、賢治をはじめとする宮沢家の人々は悲痛な思いを抱えつつ、それでも残された時間をかけて、彼女を精一杯幸せにしてあげたいと願う。そして12月を迎えたある夜、トシは家族たちの暖かな思いを受けながら、笑顔のまま静かに息を引き取る。それから約3か月後。賢治は、かねて書き溜めていた童話を出版することを思い立ち、東京で下宿中の宮沢清六のもとを訪れ、出版社に持ち込んでもらうように依頼する。さらに、以前より交際していた大畠ヤス子に対して結婚を申し込み、これを受け入れられる。しかしヤス子の体は、奇しくもトシが命を落とした結核に蝕まれており、ヤス子と賢治の、双方の将来を案じたヤスの母親の計らいによって、ヤス子は医者と結婚してできる限りの治療を受けることを選択する。愛しい人と相次ぐ別れを経験した賢治は、それでもめげることはなく、花巻農学校で教鞭を執りつつ、童話や詩の執筆に没頭する。そんな中、賢治は学生時代の後輩だった近森善一及川四郎と再会し、彼らの協力を仰いで童話集の一つである「注文の多い料理店」を発表する。しかし当時の反響は今一つで、やがて赤字を出してしまったことで思い悩んだ賢治は、現在の自分に疑問を持ち始める。そんな時に宮沢政次郎から励ましの言葉を受け、彼に感謝しつつ、やがて一つの決意を固めるのだった。

メディアミックス

ドラマ化

本作『宮沢賢治の食卓』のTVドラマ版が、WOWOWプライムの「連続ドラマW」枠で、2017年6月17日から7月15日まで放送された。製作会社はWOWOWで、監督を御法川修が、脚本を池田奈津子が担当している。キャストは、宮沢賢治役を鈴木亮平、宮沢トシ役を石橋杏奈、宮沢政次郎役を平田満が演じている。また、大畠ヤス子が「櫻小路ヤス」に改名され、その人となりも変更されているなど、ドラマ独自の設定も多く見られる。

登場人物・キャラクター

宮沢 賢治 (みやざわ けんじ)

花巻農学校で教師を務めている青年で、年齢は25歳。妹である宮沢トシや恋人の大畠ヤス子といった親しい間柄の人たちからは「賢さん」と呼ばれている。我慢強い孤高の人と評されることが多いが、実際は、写真を撮る際にルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのように写してほしいとねだるなど、明るくややちゃめっ気のある性格の持ち主。かつて東京に下宿していたが、トシが結核を患って倒れたことを知ると故郷の花巻に戻り、花巻農学校で働くことになる。そしてその傍らで、トシを毎日お見舞いしては、アイスクリームをごちそうしたり、自作の寓話を面白おかしく聞かせて、彼女を喜ばせている。人生そのものを成長の機会であると考えており、花巻農学校では、家庭の事情で東京に出稼ぎにいくことを余儀なくされた沼田に、かしわ南蛮そばをごちそうしつつ励ましの言葉を掛けるなど、生徒一人一人にしっかりと向き合うことで、生徒や同僚から慕われている。一方で、情に厚いが故に後先を考えずに行動する癖がある。そして、そのことが金銭感覚にまで影響を及ぼして他者に迷惑を掛ける場合もあり、宮沢賢治自身も、そのことを自分の短所であると認識している。妹のトシを誰よりも大切に思っており、彼女が療養のために下根小桜の別宅へ移った際も頻繁に様子を見に行き、顔を合わせるたびに元気づけている。そのかいあって、彼女が死の間際でありながらも絶望せずにいられたが、やがて死別する。さらに、交際していたヤス子も結核を患っていたことから別れを余儀なくされ、相次いで大切な人との別れを経験することになる。しかしそれでくじけることなく、教職を続けつつ、その中で知り合った藤原嘉藤治や近森善一、及川四郎と協力して、書き溜めていた童話や詩集を出版する。その道は決して平坦なものではなく、一時は赤字を出したことから父親の宮沢政次郎に迷惑を掛けたこともあった。そのため、賢治自身も今後について思い悩んでいたが、ほかならぬ政次郎から、どうすればいいかではなく、どうしたいかを問われたことで悩みを吹っ切り、やがて作家として大成していく。実在の人物、宮沢賢治がモデル。

宮沢 トシ (みやざわ とし)

宮沢賢治の妹で、年齢は23歳。賢治の最大の理解者の一人で、彼のことを「賢さん」と呼んで強く慕っている。かつて小学校の教師を務めていたことから、花巻農学校で教師を務める賢治に対してアドバイスをすることもある。賢治からも大切に思われており、1921年頃に結核を患うと、東京から帰還した賢治は毎日のようにお見舞いに訪れ、さまざまな料理や土産話を持ち込んだ。宮沢トシ自身も兄が見舞いに来る時を心から楽しみにしていたが、長期にわたる療養生活を送るものの回復の兆しが見られず、やがて下根小桜の別宅へと住居を移す。それでも病状は次第に悪化し、自分はもう助からないと自覚。しかし、家族たちが心から自分を思いやってくれていることから、死を目前にしてもなお笑顔を絶やさず、穏やかな気持ちのまま生涯の幕を閉じる。トシの死は賢治に強い悲しみを与え、彼が樺太に旅行へ出かける理由となった。実在の人物、宮沢トシがモデル。

沼田

花巻農学校に通っている男子で、宮沢賢治の教え子の一人。賢治の気さくで聡明な性格に好感を持ち、彼を恩師として慕っている。1か月前に父親が病に倒れたことから、花巻農学校を退学して東京に出稼ぎに出ることを余儀なくされる。そのことを告げるために賢治の自宅を訪れたところ、海外ゆかりのさまざまな珍しいものを見せられたうえに、フレデリック・ショパンやヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのレコードを聞かせてもらい、感激する。しかし、それだけに賢治との別れが惜しくなり、花巻農学校を去らなければならなくなったことを涙ながらに打ち明ける。すると、賢治から近所の食堂に招かれてかしわ南蛮そばをごちそうになり、さらに賢治がコレクションしていたレコードの一枚をプレゼントされた。そして、学ぼうとする意志さえあれば、花巻でも東京でも変わらずに成長を果たせることを聞かされると、丁重にお辞儀をして、希望を胸に東京へと旅立つ。

清作

花巻農学校に通っている男子で、宮沢賢治の教え子の一人。実家で農家を営んでいるが、取れ高に余裕がなく、農学校の授業の中で賢治がトマトを作ろうと言い出すと、「花巻でトマトを買ってくれる人なんているわけがない」と反論し、後ろ向きな姿勢を見せてしまう。それを見た賢治から、農作業の実習で麦こなしの作業を課され、体中が麦の殻でかゆくなるつらさを学校の仲間たちと共有する。そのうえで、北上川に泳ぎに出かけたり、賢治とスイカ畑の主人の仕込みによるスイカ泥棒を楽しんだことで、農作業もつらいことばかりではないと思い出す。そして、賢治から「農作業のみならず、この世界のあらゆるものには楽しい側面が眠っている。それを知らないままでいるのはもったいない」と諭されて、わだかまりを解消した。実習が終わったあとは、かつて賢治が提案したトマト作りに着手し、やがて実家の畑に大きなトマトを実らせる。

スイカ畑の主人

花巻農学校の近くにあるスイカ畑を管理している、老年の男性。宮沢賢治や、彼の生徒たちから育てていたスイカを盗まれ、怒って彼らを追い回した。しかし実際は、前もって畑のスイカを賢治に購入してもらい、それを盗ませるレクリエーションだった。そして、賢治と共に一芝居を打ち、彼の教え子を楽しませたほか、農作業に対して後ろ向きだった清作の心を軽くすることにも一役買った。

大畠 ヤス子

「花城小学校」の教師を務めている女性で、年齢は23歳。実家はそば屋を営んでおり、家族たちからは「ヤス」と呼ばれている。藤原嘉藤治が花巻の女子高等学校で開いたレコードコンサートを通じて宮沢賢治と知り合い、やがて相思相愛の関係となる。当時は結婚前の恋愛は認められておらず、特に職場恋愛は半ば禁忌に近いものであったために交際を表沙汰にはできず、互いの仕事が終わってからこっそりと逢引するという日々を過ごしていた。そのため必然的に、二人が恋人同士だということは宮沢トシなど少数の人しか知られていなかった。また、賢治は大畠ヤス子と共に過ごせる時間を心から幸せに思っていた一方で、病気のトシを差し置いて自分だけが幸せであることに罪悪感を抱いており、二人の関係はなかなか進展しなかった。しかし、樺太へ旅行に赴いたことで病没したトシの弔いを済ませた賢治から、ついにプロポーズを受けて、ヤス子自身もこれを喜んで受け入れる。さらに、結婚を前提にしていることを宮沢政次郎とヤスの母親へと伝えるが、実はヤス子も結核を患っており、かつて賢治が同じ病気でトシを失ったことを知ったヤスの母親から、賢治に再び同じ思いを味わわせるよりは、きちんとした治療環境を整えて少しでも長生きしてほしいと懇願され、泣く泣く賢治と別れる決断をし、彼に別れを告げる。のちに医者の男性と結婚し、療養のためにアメリカへと渡る。

宮沢 清六 (みやざわ せいろく)

宮沢賢治の弟で、年齢は18歳。兄に似て明るく朗らかな性格で、ふだんは控え目ながらも時として大胆な行動に出ることもある。かつては花巻で、父親の宮沢政次郎や姉の宮沢トシらと暮らしていたが、やがてトシと死別すると、気持ちを切りかえるために東京の本郷龍岡町に一時的に移り住み、療養と勉強の日々を過ごす。そんな中、賢治から依頼を受けて、彼の記した童話や詩集の数点を、「婦人画報」や「コドモノクニ」を出版している東京社へと持ち込む。そしてそのお礼として、当時は高価で知られていたサザエのつぼ焼きをごちそうになる。東京社からは色よい返事をもらえずに落ち込むが、当の賢治自身は落ち込む様子を見せなかったうえに、帰り際に現代で換算すると15万円にもなる大金をひそかに渡されて、兄の器の大きさに感服する。のちに東京の工業高等学校に合格し、このまま本郷龍岡町で暮らそうかとも考える。しかし、政次郎から反対されたことで、本当に賢治たち家族の意思に背いてまでやりたいことなのかと疑問を抱く。その結果、工業高等学校への進学を辞退して花巻に戻って家族と共に暮らし、家業を継ぐことを選択する。しかしのちに、自ら志願をして陸軍へと入り、政次郎からもそれを認められる。実在の人物、宮澤清六がモデル。

村山

花巻農学校に通っている男子で、宮沢賢治の教え子の一人。実家は小作農家で貧困のあまり、銭湯で盗みを働いて警察に補導されてしまう。そして、賢治に警察まで迎えに来られると、彼から怒られることを覚悟するが、当の賢治は怒る様子をまったく見せず、自分と村山が教師と生徒になれた偶然を喜びたいと告げられる。そして本当に困っていたら、罪なんかを犯すより、自分をとことんまで頼ってほしいと諭され、涙する。それからは彼に恩義を感じるとともに、二度と盗みなどの犯罪に手を染めないことを誓う。

細越 健

樺太の豊原市にある製紙工場に務めている青年。宮沢賢治の中学校と高校時代の後輩であり、病没した宮沢トシを弔うために樺太へと旅行に出かけた賢治と再会し、旧交を温め合う。先輩と共に賢治を宴会に誘おうとするが、これを断られて電車でできる限り北まで行きたいと、その方法を求められる。そして、栄浜駅までの道順を教えると、いったん賢治と別れるが、栄浜駅からの帰りに豊原市を訪れた賢治を迎えて盛大に宴会を催す。

藤原 嘉藤治 (ふじわら かとうじ)

花巻の女子高等学校で、音楽教師を務めている青年。岩手の新聞社に自作の詩を寄稿しており、それを知った宮沢賢治から、詩を作る同士として親交を深めるように求められ、やがて生涯の親友となる。さらに、レコードコンサートを開催して賢治と大畠ヤス子を引き合わせたり、宮沢トシを失ったことで失意に沈んでいた賢治を、岩手の新聞社が連載する童話の書き手として推薦することを約束するなど、幾度となく賢治の助けとなる。実在の人物、藤原嘉藤治がモデル。

ヤスの母親

大畠ヤス子の母親で、夫と共にそば屋を営んでいる。仙台藩の武家の出身で、思ったことをはっきりと口にする凛とした人物。一方で、家族に対する愛情は深く、中でも結核を患っているヤス子に対してはつねに心配する素振りを見せる。ある時、ヤス子から宮沢賢治にプロポーズされたことを打ち明けられる。しかし、ヤスの母親自身は、賢治が宮沢トシを結核によって失ったことを知っていた。さらに、賢治はヤス子が結核にかかっている事実を知らないことを聞くと、彼に同じ理由で愛しい人を二度失わせるよりは、よりよい環境で治療して、少しでも長生きしてほしいと伝える。そして、娘を思う心に触れたヤス子からもこのことを受け入れられると、あいさつに訪れた宮沢政次郎に対して、二人の結婚を断る意思を告げる。

宮沢 政次郎

宮沢賢治や宮沢トシ、宮沢清六の父親。厳格ながらも子供思いのやさしい性格で、トシが病没すると、ショックを受けた清六に対して、気分転換のために一時的に東京で暮らすことを了承する。ただし、彼に家業を継いでもらうことを望んでいるため、工業高等学校に通うために東京で暮らし続けたいと言われた時はさすがに憤りを見せ、学費を払うつもりはないと言い放つ。賢治に対してもつねに心配しており、トシを失った彼を気遣いつつ、やがて彼が大畠ヤス子にプロポーズを行ったことを知ると、家族を代表してヤスの母親にあいさつに向かった。さらに、近森善一や及川四郎と共に発行した童話集が売れ残ったことや、同僚の小野寺先生の力になれなかったことなどが重なり、自分の進む道について悩み始めた賢治に対して、大金の援助を行ったうえで、どうすればいいかではなく、どうしたいかを考えるように諭して、彼の悩みを吹っ切らせる。

白藤 慈秀

花巻農学校の教師を務めている男性。宮沢賢治の同僚で、彼とは放課後によくいっしょに食事をする間柄。ある時、寄宿舎の舎監に任命された賢治から飲みに誘われ、友人である堀籠文之進と共に同行する。しかし、誘われた先はそば屋で、飲むものも酒ではなくサイダーであることが判明するが、特に文句を言うことはなく、天ぷらそばとサイダーの味に舌鼓を打つ。さらに食事を進める中で、賢治から天ぷらそばがあまりにおいしいためについ通いすぎてしまい、酷いときには3日で月給を使い切ったこともあると聞き、大いに驚く。同時に、白藤慈秀自身や堀籠の食べた分の代金も支払うと聞いて、賢治の金銭感覚を心配する。しかし、押し切られる形で、結局彼に奢ってもらうことになった。

松田

花巻農学校に通っている男子で、宮沢賢治の教え子の一人。村山や中野健一と同様に生活に余裕がなく、放課後はアルバイトとして貨物列車からの荷出しを行っている。ある時、その様子を目に留めた賢治から、食事の誘いを受けてサイダーと天ぷらそばをごちそうになる。そして、その見返りとして彼の書いた小説の清書を頼まれ、これを引き受ける。清書した原稿は、のちに心象スケッチ本『春と修羅』として売り出される。さらに賢治から謝礼として、売り上げ金の一部を差し出され、驚きの声をあげた。のちにサイダーや天ぷらそばは口実でしかなく、実際の目的は生活に困っている生徒に対して、自分の本の出版を手伝う仕事を任せる意図があったことが判明する。

近森 善一

親友の及川四郎と共に出版社「光源社」を営んでいる男性。宮沢賢治は高校時代の先輩にあたり、彼から同級生だった及川と共に牛丼をごちそうになったり、演劇に連れて行ってもらったりするなど、面倒を見てもらっていた。また、当時から賢治が小説を書いているところを度々見ており、多才な彼を今でも尊敬しているが、現在も執筆活動中であることは知らない。賢治が花巻農学校の教師を務めていることから、彼に対して自社の教科書を学校で使ってもらえるように交渉しようとするが、逆に賢治からは自費出版した心象スケッチ本『春と修羅』を提示され、さらに現在もさまざまな童話や詩集を出版予定であることを聞かされる。さらに、それらを光源社で出版してほしいと持ち掛けられ、これを快諾する。さらに、及川も交えて幾度も賢治と打ち合わせを重ねて、やがて賢治初の童話集となる『注文の多い料理店』を出版する。しかし、それからしばらくしたあと、家庭の事情によってやむなく光源社を退社して実家の高知へと帰還する。

及川 四郎

親友の近森善一と共に出版社「光源社」を営んでいる男性。宮沢賢治は高校時代の先輩にあたり、彼から同級生だった近森と共に牛丼をごちそうになったり、演劇に連れて行ってもらったりするなど、面倒を見てもらっていたことから、彼を強く尊敬している。ある時、近森から賢治が心象スケッチ本『春と修羅』を自費出版し、さらにさまざまな童話や詩集を今後も出版予定であることを聞かされ、光源社でそれらの本を出版したいという彼の意見に合意する。そして、賢治や近森を交えて打ち合わせの場を持ち、やがて賢治初の童話集となる『注文の多い料理店』を出版する。しかしそれからしばらくしたあと、家庭の事情によって近森が光源社を退社して実家の高知へと帰還する。さらに多くの本が返本され、その赤字を埋め合わせるようにせまられてしまう。しかし、宮沢政次郎から援助を受けた賢治が赤字の補填をしたため、事なきを得る。

校長先生

花巻農学校の校長を務めている男性。厳格な性格で、よくも悪くも自由を求めるあまり、破天荒な行動を取る宮沢賢治に対してたびたび説教をしている。一方で、賢治の童話や小説の技量を高く評価しており、彼が自費出版した『春と修羅』を見た時は、ほかの先生といっしょにその出来栄えを賞賛する。また、教師の仲間たちを大切に思っており、小野寺先生が病気によって長いあいだ学校に出られなくなった時は、このままだと給料も出せなくなるかもしれないと哀しげにつぶやく。

小野寺先生

花巻農学校の教師を務めている男性。宮沢トシや大畠ヤス子と同様に結核を患っており、現在は満足に登校すらできない状況にある。その現状を重く見た宮沢賢治から、たびたび差し入れをされていたほか、給料すらあやぶまれる中でひそかにまとまったお金を渡されていたことから、彼に深く感謝する。しかし一方で、体が一向によくならないことから自分の体にいら立ちを募らせ、一時は賢治の行いに対して自己満足だと糾弾することもあった。それでも差し入れを止めようとしない賢治の優しさに助けられるものの、結局体調はよくならず、のちに賢治自身も己の無力さを思い知る結果となる。

森 佐一 (もり さいち)

宮沢賢治の著書を愛読している少年で、年齢は17歳。賢治が最初に出版した『春と修羅』に強い感銘を受け、感想を添えて賢治に手紙を差し出す。それがきっかけで賢治と文通仲間になり、住んでいる場所が近いという理由から、事前に通達されることなく自宅に訪問され、強い驚愕と歓喜を覚える。さらに、西洋料理店に案内され、高価な料理を奢られたことから賢治がお金持ちなのだと考え、ますます尊敬の念を深めていく。なお、賢治は当初、森佐一が自分と同年代の青年だと思っていたため、17歳であることに驚いた様子を見せた。実在の人物、森荘已池がモデル。

中野 健一

花巻農学校に通っている男子で、宮沢賢治の教え子の一人。村山や松田と同じく実家が貧しく、酷いときは食事に満足にありつけないこともある。ある時、授業中に栄養不足による貧血で倒れてしまい、放課後まで保健室で休んだあと、賢治の手によって自宅にまで運ばれる。そして、家族と共に賢治に感謝の言葉を伝えると、お礼として大根めしを振る舞った。賢治が中野健一が倒れたことや、その食事情を理解したことは、花巻には野菜が足りないと思い至る理由となり、教師を辞めて農家として本格的に活動するきっかけにもなる。

場所

花巻農学校

岩手県に存在する農業学校で、生徒は男子のみが在籍している。かつては「稗貫農学校」と呼ばれていたが、宮沢賢治が教師として務めているあいだに、「花巻農学校」に名前が改められた。農学校というだけあって、生徒は農家の息子であることが多く、農業関連の進路に進むための教育が行われる。ただし、実家が小作農家である生徒は貧困に喘いでいる。賢治は花巻農学校の中で、麦こなしを取り入れた農業実習や学校登山など、ユニークな授業やイベントを多く取り入れ、生徒たちから絶大な人気を集める。また生徒と教員の多くは、賢治が詩や童話を執筆していることを知っており、彼が『春と修羅』を出版する際は生徒の一人である松田に清書を任せたほか、校長先生をはじめとした教師が本を見て、その出来栄えを賞賛した。

北上川

花巻農学校の近くにある川で、近くの畑には多くの麦が植えられている。イギリスからドーバー海峡に面した白亜の海岸と似ていることから、宮沢賢治からは「イギリス海岸」と呼ばれ、やがて賢治の教え子たちにもその呼び名が浸透する。また、川の形状が変わらないために付近の泥が石化する傾向があり、川の水を飲みに訪れるさまざまな動物の足跡がはっきりと残っている。賢治は、農業に嫌気が差した清作に、農作業ならではの楽しさがあることを示そうと、麦こなしを終えたことで体に多く付着した殻を洗い落とし、さらに動物たちの足跡を探すレクリエーションを企画して実行する。

下根小桜の別宅

宮沢政次郎と、その家族が使用している別宅。宮沢トシが、患った結核の治療に専念するため、1922年の7月より本家から移り住む。本家からは距離が離れて道も悪いが、妹思いである宮沢賢治は、花巻農学校の授業が終わると毎日のように通っては、シチューやアイスクリームなど、さまざまな食べ物を持ち込み、彼女の回復の助けになろうと懸命に励む。しかし、トシの病状は一向に回復せず、のちに体調が悪化したことにより、同年の11月19日に本家へと戻ることを余儀なくされる。

小岩井農場

学校登山の帰りに、宮沢賢治が花巻農学校の教え子たちに案内した農場。日本鉄道会社の副社長を務める小野義眞、三菱社の社長を務める岩崎彌之助、そして鉄道長官を務める井上勝の三人が、共同出資を行ったことで1891年に開かれ、創始者である三人の名字の頭文字を取って「小岩井農場」と名づけられた。主に酪農や乳製品の加工を行っており、その異質かつ雄大な光景から、賢治の教え子たちからは「まるで異国に迷い込んだかのようだ」と感嘆の声が上がった。さらに、学校登山で賢治が振る舞った食パンの製造にも携わっており、酪農と農業が切っても切れない関係であることを広く知らしめるに至る。

その他キーワード

麦こなし

宮沢賢治が農業実習の項目として取り上げている作業の一つ。収穫した大麦を干してから、実を外す脱穀作業を指す。大麦の穂には「のぎ」と呼ばれる細長い針のような毛が多数付着しており、作業の際には全身にのぎがついてかゆみを伴うため、農家からは嫌われている。しかし、のぎは水で洗うと落とせるため、この特性に着目した賢治から、麦こなしを終えたすぐあとに北上川に飛び込んで体のかゆみを解消しつつ、水遊びを楽しむというカリキュラムが組まれる。これにより、賢治の農業実習は多くの生徒から好評を博した。

農業実習

夏休みのあいだ、花巻農学校で定期的に行われている実習授業。午前中は主に畑の手入れを行い、午後は自由参加によるレクリエーションが行われる。農業実習の内容は各クラスによって異なり、宮沢賢治が受け持つ学級では、午前に麦こなしを行い、午後は「イギリス海岸にて足跡標本の採集」と名づけられた独自の遊びが行われる。当初、生徒たちはイギリス海岸の意味を計りかねており、何をやるのかまったくわからなかったが、麦こなしのすぐあとに北上川に飛び込み、その先で賢治から北上川とイギリス海岸の関係を説明されたことで、その趣旨を理解する。中でも清作は、農業自体に後ろ向きな姿勢を見せていたが、この農業実習を通じて農作業の楽しさを知り、自分一人でトマトを作る決意を固めさせるまでに至る。

学校登山

宮沢賢治が花巻農学校に提案したことで実現した、学校行事の一つ。春から夏にかけて行われる登山遠足で、夕方から夜にかけて八合目まで岩手の山をのぼり、夜間に休憩を取って明け方に再出発をする。そして、みんなが頂上に着いた頃、のぼってくる朝日を拝み、下山するという行程となっている。さらに、下山の最中に賢治から生徒へ食パンが配られ、さらに小岩井農場へと案内されて見学に興じるなど、さまざまな催しが行われ、生徒たちにとっては充実した2日間となった。

SHARE
EC
Amazon
logo