概要・あらすじ
東京の大学に通う松本美咲は、ある日、陶芸を生業としている父・松本竜雪から一本の電話を受ける。父のただならぬ様子に胸騒ぎを感じた彼女は、急ぎ故郷の萩(山口県)に帰るが、すでに父は亡く、遺作となったひとつの茶器が遺されていただけだった。その茶器に不完全ながらも映し出されていた景色(陶器の模様・色味のこと)こそ、歴代の名匠たちが幾人も挑み、敗れ去ったという伝説の“緋”。
父が“緋”にあと一歩というところで倒れたことを知った美咲は、父の跡を継ぎ、伝説の“緋”を再現させることを墓前に誓い、萩焼の大家である長州窯の斎藤巌に師事する。だが、陶芸家の娘とはいえ素人同然の彼女がたやすく歩めるほど陶芸界は甘くない。
斎藤巌の厳しい指導、無名窯として独立してからの数々の陶芸勝負、それに雲を掴むような“緋”の手がかり。さまざまな難題・課題、それに経済的困難が立ちふさがり、幾度も彼女の道を閉ざそうとする。だが、諦めの悪さに独特な機転と工夫、生まれ持った陶芸センス、それに彼女を支えてくれる人々の力でそれらを乗り越えていった。
壁をひとつ越えるたびに彼女は大きく成長し、一人前の陶芸家に近づいていく。それは同時に、夢物語だった“緋”に向かって、着実に前進している証拠でもあった。
登場人物・キャラクター
松本 美咲 (まつもと みさき)
明るく前向きで、探究心や行動力に富んだ20歳の女性。少々頑固な部分もあるが、それがプラスに働いており、一度決めたら最後までやり通す芯の強さに繋がっている。元々は東京の大学に通っていたが、父・松本竜雪の死をきっかけに中退し、陶芸の道を志すように。陶芸に関しては、過去に父親の見よう見真似でやったことがある程度で、ほとんど素人同然。 ただし、素質は極めて高く、本人は気づいていないが、中学生の頃に作った器に“緋”の片鱗、緋沈みが現れたことがある。その素質と持ち前のガッツで、萩焼の大家である長州窯の斎藤巌の修行を半年足らずで終え、自らの窯を持つことを許された(ただし、これは斎藤巌が「松本美咲という逸材を、特定の窯の流儀に染めるべきではない」と考えていた部分も大きい)。 独立後は無名窯という窯元を立ち上げ、経営に苦労しながら、木崎竜一郎、鬼頭三郎といった実力者を相手に焼物勝負を展開。師匠である斎藤巌の「用(機能)と美(外観)が一体となって、初めて芸術と呼ばれる」という教えを守りながら、自らの創意工夫を加えて打ち勝っていく。 同時に“緋”の探究にも怠りなく、様々な勝負の過程を通じて“緋”の謎に迫っていった。
松本 竜雪 (まつもと りゅうせつ)
松本美咲の実の父親で、物語開始直後に亡くなった。極めて高い実力を備えていたが、半生を“緋”の探究に注いだことから財を成せず、松本美咲やその母・松本静江が経済的に苦しむ要因となってしまう。ただ、彼が死の直前に焼き上げた茶器には不完全ながらも“緋”が走っており、そのことが娘・松本美咲のみならず、一柳陶王、一柳乙彦ら、様々な陶芸家を“緋”の探究へと誘うことに繋がった。
斎藤 巌 (さいとう いわお)
日本全国に名を知られる萩焼の大家で、松本美咲の実家の近くで長州窯を営んでいる人物。松本美咲の師匠で、非常に厳しいことで知られるが、内心では弟子たちのことを常に思いやっており、松本美咲が独立した後も、さりげなく目を光らせてサポートしている。萩焼のみならず、陶芸全般に対して深い見識を持ち、松本美咲の“緋”の探究において、大きな助けとなった。
戸部 民吉 (とべ たみきち)
長州窯の従業員で、斎藤巌の一番弟子。かつてヤクザ稼業に従事しており、そのときに犯した罪で刑務所に服役していた過去がある。そして服役中に陶芸実習で訪れた斎藤巌と知り合い、弟子入りした。だが、そんな物騒な過去を持つとは想像できないほど、誰に対しても親身で穏やかに接することから、長州窯の面々からとても慕われ、トーベェさんの愛称で呼ばれている。 とくに松本美咲にとっては、くじけそうになったときの精神的支柱として非常に頼りにされており、戸部民吉も彼女を実の娘のように可愛がった。
一柳 陶王 (いちりゅう とうおう)
人間国宝(正しくは重要無形文化財保持者という)の肩書を持つ、日本陶芸界の重鎮の1人で、一流乙彦の実父。萩に一柳窯を開いている。陶王肌と呼ばれる独特の白釉を得意とするが、長らく創作活動から離れていた。しかし、松本竜雪が“緋”を走らせたことを知って、自らも“緋”を走らそうと創作を再開し、“緋”の入り口である金結晶までたどり着く。 だが、高齢の身に激しい窯焚きが祟って昏倒。その後、一時的な回復こそ見られたものの本調子に戻ることはなく世を去った。
一柳 乙彦 (いちりゅう おとひこ)
人間国宝・一柳陶王の跡取り息子。松本美咲とは同級生で、当時の名残から彼女のことを委員長と呼ぶ。陶芸にのめり込むあまり、母親を省みなかった父を憎んでおり、家出して長距離トラックの運転手を務めている。だが、陶芸を捨てたわけではなく、仕事で各地を飛び回りながら土を集め、他の窯元でこっそり修行していた。 久しぶりに萩に帰ってきた松本美咲と再会し、改めて彼女に好意を抱くようになる。松本美咲もまんざらではなかったが、一柳陶王の死去によって揺らぐ一柳窯を存続させるため、別の女性と政略結婚した。同時に、1人の陶芸家として松本美咲に先んじて“緋”走らそうと、次第に“緋”の虜となっていく。
伊集院 今日子 (いじゅういん きょうこ)
松本美咲の大学時代の女友達で、男にフラれたことをきっかけに萩を訪れ、しばらく松本家の居候となった。気まぐれな性格で、何も告げずにフラりと居なくなったりすることがある。松本美咲を心底応援している人物の1人で、滞在中は製作を手伝ったり、店番を務めたりしていた。一柳乙彦に一目惚れしており、なかなか大胆にアタックをかけていたが、彼の気持ちが松本美咲にあることを知り、また松本美咲の作品が初めて売れたのを見届けたことから、東京へ戻っていった。
高杉 晋吾 (たかすぎ しんご)
粘土など、陶芸家が扱う材料や道具を調達する会社・陶彩堂の若手営業マンで、以前は松本竜雪の担当も務めていた。本当は陶彩堂社長の御曹司なのだが、訳ありで母方の姓を名乗り、いち平社員として働いている。愛車は旧式のフォルクスワーゲン・ビートル。松本美咲の担当になってから、彼女のひたむきさにだんだんと惹かれていく。 が、再三のチャンスがありながら、ことごとく見逃してしまうという極度の恋愛不器用。どこか抜けているような風貌と受け答えをする男だが、陶芸に関する知識は深く、松本美咲にとって掛け替えのない助言者、そしてパートナーとなっていった。
井戸田 彩 (いとだ あや)
松本美咲の弟子になるため、家出して押しかけてきた女の子。松本美咲以上に物怖じしない性格で、実家のある長崎から萩まで自転車で来るなど、体力・行動力も抜群である。若いなりの礼儀や陶芸に対する真摯さも持ち合わせており、当初は弟子を取らないと拒否していた松本美咲もついに根負け。 ともに“緋”を追うようになった。
その他キーワード
緋 (ひ)
『緋が走る』に登場する用語。作中における陶芸の最高芸術であり、多くの陶芸家が挑んで果たせなかった景色のこと。“緋”とは緋色、すなわち朱よりも赤く炎よりも深い色合いを指す。一口に“緋”と言っても、緋沈み、緋暈(ひぼかし)、緋結晶といった段階があり、その頂点に走緋(緋が走る)がある。完全なる走緋は、器の内部から表面に向かって爆発するように緋が走り出ており、あたかも炎を絡めとったような立体的印象を与えるという。