あらすじ
第一巻 桃園の誓い
中平元年、今から1800年ほど前の中国。後漢時代の末期、朝廷内の争いによる漢王朝の衰退と共に世は乱れきっていた。政治は腐敗し、民は飢え、張角を中心とする宗教結社・太平道による武装蜂起・黄巾賊の乱があちこちで勃発していた。その頃、黄河のほとりで大河の流れを眺め漢民族の興亡に思いをはせている青年がいた。行商人で、名前を劉備 玄徳と言った。彼は親孝行な息子で、むしろ織やスダレを売り1年間かけて稼いだ金で、茶を母親のために買おうと洛陽船を待っていた。洛陽船は月に一度、都の洛陽から珍しい商品や文化の粋を運んでくる交易船だった。当時の茶は重病人やよほど高貴な人でないと飲まない非常に高価な貴重品であった。なんとか茶を買うことができた劉備だが、黄巾賊の馬元儀に見とがめられてしまう。(黄巾賊の乱 )
黄巾賊の仲間になれと誘う馬元儀は劉備に黄巾の党の始まりを説明した。曰く、きょろく郡に張角という無名だが希世の秀才と言われた人物がいた。この長角はいつも髪を束ねるのに黄色の巾を使っていた。ある日、薬草を採るために山に入った長角の前に、南華仙人が現れる。仙人は張角に太平要術3巻を渡し、乱れた世を救い、人の道を興し、善を施せ。自分自身の栄耀栄華に溺れて悪心を興すとたちまち身を亡ぼすと説く。張角は家に引きこもると一心に研究に打ち込み太平要術を体得し、悪疫が流行し多数の死者が出た年、皆に秘薬を与え、完治させた。この結果張角は救世主とみなされ、全国各地から弟子になろうと人が押し寄せた。
だが、高価な茶と父の形見である黄金づくりの大刀を持っていることを知られ、茶も剣も奪われてしまった。劉備は処刑されることになる。その間閉じ込められていた寺の和尚が、劉備は悪魔を追い払い暗黒の世界から光の世界に皆を導く高貴な血筋だと告げ、劉備を助け出す。和尚は同じく助け出していた、このあたりを治める領主の娘である芙蓉姫を県軍に送り届けるように劉備に頼む。(芙蓉姫)
芙蓉姫を連れ、県軍へ向かうため、川へと急ぐ劉備。川には県軍の軍隊がいると和尚から聞いていた。しかし黄巾賊たちをおそれたのか、川は不気味に静まり返り、誰もいなかった。仕方なく、いけるところまで行こうと逃げる劉備たちに黄巾賊の追手が襲いかかる。絶体絶命と思われた時、そこに現れたのは巨漢で、怪力の持ち主で、県城が焼かれた時の鴻家の生き残り張飛 翼徳だった。張飛は黄巾賊たちをあっという間になぎ倒し片づけてしまった。命を助けてくれたお礼にと劉備は家宝の剣を張飛にあげてしまう。(張飛)
無事に母が待つ故郷に帰りついた劉備だが、再会を喜んでいた母は、劉備が代々家宝として伝わる剣を張飛に渡してしまったことを知り、驚愕する。劉備は漢の中山靖王劉勝の末裔であり、剣はその証であったのだ。身分をひた隠し貧しい農民に身をやつしてきた母の嘆きは収まらない。一方、村では黄巾賊と戦うために兵士が募集されていた。その立て看板をじっと見る劉備。そこに現れたのは張飛だった。 黄巾賊の暗躍や皇帝や重臣たちのふがいなさによる世の乱れをを嘆く張飛に劉備は自分の血筋を明かす。(王者の剣)
黄巾賊のスパイと疑われた張飛を追って城兵がやってきた。立ち向かおうとする張飛を、これ以上兵を殺してはいけないと諭して押しとどめる劉備。そこに駆け付けたのは武者姿の関羽 雲長だった。張飛がスパイでないことを説明し、兵士たちを追い返す関羽。劉備は母に、世の乱れを正すべく旅立つ決意を告げる。喜んだ母は村人たちが持ち寄ってくれた肉、酒、果物を受けて、桃の花の咲く中に宴を設けた。ここで劉備、関羽、張飛は「生まれた日は違っても同じ日に死ぬことを願う」と誓い合う。このいわゆる「桃園の誓い」の宴の後、劉備たちは出陣する。 (乞食部隊)
第二巻 黄巾賊退治
幽州の太守・劉焉を訪ねた劉備たち義勇兵を劉焉は手厚くもてなし、城兵たちを殴り殺した張飛の罪も許してくれた。そんな中、黄巾賊が近くの山に陣を張ったという知らせが入る。劉備たちは鄒靖将軍とともに出陣する。先陣を務めたのは鄒靖の正規軍ではなく、百姓姿に剣や槍を持つ劉備たちの義勇軍だった。(初陣)
義勇軍は初陣の大興山で数万の黄巾賊を打ち破った。劉備たちの水際立った戦いぶりに劉焉も賞賛を惜しまず、兵士たちの意気は揚がる。しかしそこに急使から知らせが入る。青州城が黄巾賊に包囲されたのだ。劉焉は鄒靖を救援に向かわせるが、劉備たちも休まず出陣した。 しかし青州城を包囲した黄巾賊は手ごわく、苦戦する劉備たち。 関羽が提案した兵を三つに分ける奇襲作戦が成功し、ついに青州城は救われる。(青州城救援)
休む間も無く、義勇軍は劉備の幼少時代の師・盧植が指揮をとる広宗へと救援に向かう。盧植は3倍の兵力を持つ敵に相対していた。しかも官軍の兵士たちは士気が低く、酒食にふけり、気にしているのは故郷のことばかり。朱雋は援軍に来た劉備たちを最も危険な最前線へと配置する。この窮地を500人の部下一人一人が10本のたいまつを持ち大軍に見せかけた劉備の火攻めの計が救う。(火攻めの計)
見事な戦果を上げた劉備ちへの朱雋の態度は冷たかった。自分の立場が悪くなることを恐れたのだ。劉備軍は、もう用済みとばかり 盧植の本隊へ戻されることになる。怒る張飛をなんとかなだめる劉備と関羽だった。途中、盧植が囚人として移送されていくの目撃する。盧植は戦況を視察に来た朝廷の役人に賄賂を送らなかったため、不届きがあると、あらぬ罪で訴追されたのだ。 助けようとする張飛を、それでは黄巾賊と同じ反乱軍になってしまうと止める盧植。劉備は盧植に、人々のために素晴らしい世の中をつくることを約束する。盧植が率いていた官軍は総大将がいなくなったため、黄巾賊の正規軍に太刀打ちできない。総崩れになっていた。官軍が滅びるのを見過ごすわけにもいかず劉備たちは、助太刀をする。黄巾賊を打ち破ってくれた劉備に礼を言おうとした董卓将軍だったが、義勇軍に過ぎないと聞き、態度を豹変させる。その董卓の官位が無い人間を軽蔑する姿に張飛は激怒するが、劉備と関羽に諫められる。(渡り鳥)
再び朱雋のもとに戻った劉備たちは意外にも朱雋に歓待される。朱雋は黄巾賊に連戦連敗し、このままでは将軍職を解任されそうだったのだ。朱雋は劉備たちに、張角の弟である地公将軍張宝が陣を構える鉄門峡攻略を依頼する。張宝は妖術を使い、兵士たちを恐怖に陥れていると言う。 劉備は張宝の妖術は自然現象だと見抜く。張宝は鉄門峡の特殊な地形により突風が吹くのを妖術と見せかけていたのだ。張飛の奇襲作戦により活路を見出した劉備は、儀式を行って兵たちの疑念を払拭し、張宝を斃す。(鉄門峡の死闘)
第三巻 漢室の風雲
劉備の農民上がりの義勇兵500と官軍3000のみで張宝の妖術と数万の黄巾賊を倒した成果に朱雋は驚愕する。そこへ黄巾賊の総大将・長角が病死し、弟の人公将軍・張梁をはじめ黄巾賊は全滅したという知らせが入った。
洛陽の街に平和が訪れたことを喜ぶ民の姿があふれ、連日、盛大な祝勝会が続いた。 しかし、勝利に大きく貢献した劉備の義勇軍には何らの恩賞の音沙汰もなく、城外に放置されていた。彼らは義勇軍だというだけで、正当な評価を得られないままだった。盧植将軍の元にいた張鈞は、十常侍に賄賂を贈った者への戦功報奨が手厚く、賄賂を贈らない劉備たちに恩賞が与えられていないことを帝に告発する。しかし張鈞は十常侍に殺害され、劉備は田舎の警察署長の官職を得たのみだった。義勇軍は解散となる。(十常侍)
地方の警察署長に任命された劉備は、早速関羽、張飛とともに任務に励む。治安も良くなり、民は劉備たちを慕っていた。そこへ帝からの使者・督郵が訪れる。 黄巾賊を平定して手柄を立てたものが政治をきちんとしているが調査するためだと言う。 劉備はできる限りのもてなしをするが、督郵は賄賂を渡さない劉備に怒り、処罰するため県の役人に訴状を書かせようとする。 それを知った張飛が督郵を叩きのめしたのを契機に、劉備は天下万民のために立ち上がることこそ本意だと、官職を捨て出奔する。(勅使)
行先にあてがあると言う張飛に劉備と関羽もついていく。大怪我を負った督郵は、劉備たちを捕らろと定州の太守に命令。逮捕を命じられた定州の太守は劉備の良い評判は聞いていたが、督郵の命令には逆らえない。すぐさま追手が出された。追手に追いつかれた劉備たちは、反逆罪に問われないように殺さない程度に兵士たちを痛めつけた。 追手から逃れた三人は、張飛の案内で劉大人こと、劉恢の屋敷に到着する。劉恢は大金持ちで、行き場に困った浪人達をいつも二、三十人養っていた。 劉恢は劉備たちに一年でも二年でも好きなだけ居ていてくれと快く受け入れた。 劉備が庭を見ていると、かつて黄巾賊に捕らえられた時に出会った芙蓉姫がいた。劉恢の家は、滅ぼされた鴻家と血縁関係だったのだ。 芙蓉姫との再会を喜ぶ劉備は夜中に部屋を抜けだし、人目を忍んで逢引する。 そんな二人の様子を見た関羽は、 志を忘れ、色恋沙汰にうつつを抜かしている劉備の姿に落胆する。
そんなおり、劉恢から、定州の太守の巡遊の宿舎に劉恢の屋敷があてられると聞き、屋敷を出ることとなる。 世話になった劉恢の屋敷から旅立っていく劉備たち見送る芙蓉姫。その後の消息は杳として知れない。再び流浪の旅に出た三人は一度別れて身を隠し、時期を見てまた落ち合うことにする。約束の時は涼秋の八月、五台山。劉備は桜桑村の母の元へと馬を走らせる。 家で筵づくりをしていた母は喜んで劉備を迎えた。しかし、すぐに硬い表情になると、なぜ今ここに戻ってきたのかと劉備を問い詰める。何年戦っても自分の正義が認められないと嘆く劉備に、大事をなすのだから十年、二十年は会えぬものと思っていた、と言う母。自分の甘さに気づいた劉備は、すぐさま再び家を出る。 その後姿を見送りながら号泣する母。(放浪の旅)
黄巾賊の乱が平定され、漢帝国は再び落ち着きを取り戻したかに見えた。しかし再び各地で謀反が頻発し、世の中は乱れ始める。十常侍による悪政、賄賂政治が、その原因だった。黄巾賊の討伐で功を立てた皇甫嵩や朱儁も十常侍に賄賂を贈らなかったため将軍職を剥奪されていた。各地で勃発する反乱も十常侍は皇帝に報告しないまま。帝を酒と女漬けにし、国政に興味を持たないように仕向けていた。酒色に溺れた皇帝は、健康を害し、国内の実態を知らず、王宮の中は乱れていく。十常侍は、肉屋の何進の美しい妹を帝に娶らせ、皇子、弁が生まれる。何進は洛陽の街を取り締まる大将軍に任命され、妹は何后となった。何后は嫉妬深く、十常侍が帝に何后の後に娶らせた王美人が、子を産んだのを知ると、毒を盛って王美人を殺害する。王美人の子・協は、帝の母の董太后が預かることとなった。
十常侍の一人、中常侍である蹇碩は瀕死の状態に陥った帝から、跡継ぎを協皇子にと、告げられる。蹇碩は、そのためには障害になる何進を亡き者にと進言。何進を謀殺しようと急ぎ参内を命じた。しかし部下の袁紹から宮廷内の動きが怪しいとの話を聞き、何進は密偵を放つ。十常侍の何進暗殺の目論見を知った何進は、各将軍・各大臣を集め、十常侍を皆殺しにすると宣言。曹操 孟徳は十常侍の勢力の強大さを注進するが何進は聞き入れない。この時、帝が亡くなったという急報が入る。十常侍対何進の帝の後継をめぐる争いが勃発する。何進は、宮中に攻め入り、蹇碩初め4人の十常侍を殺害。しかし残った6人の十常侍は何后に命乞いをする。弁皇子が次の皇帝に即位することがほぼ決まった。しかし協皇子の後見人・董太后を何進は暗殺し後顧の憂いを絶つ。(乱兆)
霊帝の死による混乱はひとまず収まった。しかし何進が董太后を暗殺したという噂が街中に広まった。袁紹が調べると、生き残った十常侍たちが噂の元だった。何進は四方の英雄たちを呼び寄せ、一気に解決を図ろうとする。十常侍に賄賂を贈り西涼の大将軍となっていた董卓 仲穎が、この宮廷の乱れに乗じようと兵を挙げる。何進は各地の英雄が集ってくることに上機嫌だった。曹操は董卓への懸念を何進に進言するが取り合わない。進軍してきた董卓は、洛陽の手前で陣を張り、大勢を見極めようとする。何進の元に大軍が終結したことを知り、城を守り切れないと考えた十常侍たちは何進の暗殺を目論む。何太后から使者を立て何進を呼び出すと、天下の英雄たちに見くびられないようにと誘いに乗った何進。この軽率な行動が身の破滅を招く。(何進将軍の死)
第四巻 乱世の奸雄
何進が殺害され復讐心に燃える袁紹は仇を討とうと、城を攻める。城門が破られ、十常侍たちは新帝や協皇子を連れて脱出へ。新帝と協皇子を連れていくものと、何太后を連れていくものとに分かれる。新帝たちは馬車に乗り城を脱出していくが、何太后を探しに行ったグループは弓で討たれてしまう。袁紹は何太后には危害を加える気はなく、新帝と協皇子の後を追う。自分達がただの反乱軍と見なされてはたまらない。新帝を乗せた馬車は暴走し横転。道端で夜を明かした新帝と協皇子が出会ったのは、元官僚の崔毅だった。崔毅は自宅に二人を招く。ほどなく、袁紹の捜索隊に発見された帝達が帰途に就こうとした時、何者かの軍勢に取り囲まれる。慇懃無礼な態度で董卓が帝を値踏みする。しかし、協皇子はひかえろと、厳命を返した。不遜な董卓は西涼の董卓と告げ恐れさせようとする。協皇子は帝の弟の陳留王と名乗りを上げる。これに驚いた董卓は帝を迎えに来たのだと慌てて馬を降りひれ伏す。帝に代わって礼を言う陳留王は間違いのないよう帝を送るよう命じる。整然と都に向かう軍勢。董卓は陳留王こそ真の帝王の血筋。生まれながらにして王者の風格を備えている、とつぶやく。(西涼の董卓)
十常侍たちが全滅し、宮廷に戻って来た帝と陳留王。幼い皇帝は母である何后の元へ。陳留王も休息を得る。董卓は腹心の部下、李儒から、何后が陳留王の母、王美人を毒殺したという噂を耳打ちされる。董卓は何后も因果応報の報いを受けるだろうと予言する。董卓は李儒に、部下を城外に野営させ、何進の密書を受け取り勇んでやってくる各地の英雄たちを、洛陽に入城させないように指示。駆け付けてきた丁原は、洛陽城の周りにいる董卓の大軍に圧倒される。李儒は丁原に、すでに十常侍たちは抹殺された、混乱は収まったと告げる。丁原は時を逸したことに気づくが帝に挨拶することを望む。
董卓は李儒に、幼い帝を廃し、陳留王を帝にする案を示す。各地から駆けつけた英雄たちも、次々と引き上げていき、残っているのは董卓に従順な者たち。董卓は権勢を見せつけるため大宴会を催す。大宴会は超高級宴会場「温明園」で催され董卓の威光を示す美酒美食が振舞われた。出席した文官や武官たちの気がほぐれたところを見計らい、董卓が提案する。今の帝は帝の器ではない。天子の器を持つ陳留王を帝として擁立したいと。待ったをかけたのは丁原だった。丁原は、今の帝は凡庸だが、何か不正をしたわけでも、悪政を敷いたわけでもない。董卓の企みを暴こうと詰め寄る丁原。董卓は腰の剣に手をかけるが、丁原の後ろで養子の呂布 奉先が睨んでいるのを見て思いとどまった。董卓は丁原の暗殺を命じる。それを聞いた李儒は呂布が天下無双の豪傑であることを教える。董卓が差し向けた刺客は、呂布の弓に射貫かれる。丁原は、呂布を先鋒に董卓軍の宿営地を強襲。応戦する董卓軍の将達だが、呂布の強弓に次々と射ち抜かる。董卓軍は大混乱に陥いるのだった。(荊州の父子)
丁原軍と呂布の夜襲を受けた董卓軍は、惨敗を喫する。夜襲の報を受け董卓は出陣する。一方的な負け戦に呆然とする董卓の前に現れたのは呂布だった。呂布は世の中が乱れている時に、自身の野望を遂げようとするとは許せないと、董卓を討とうとする。董卓は、何とか自陣に戻り矢の雨で防戦。さすがの呂布も撤退を余儀なくされた。この戦に勝つためには呂布を味方にするしかないと方策を練る董卓に李粛が進み出る。李粛は呂布と同郷の生まれで幼なじみ。呂布は勇猛ではあるが賢くはない。おだてればきっと味方になる、呂布を口説くためには董卓の愛馬「赤兎馬」と金銀を与えれば良いと助言する。「赤兎馬」とは、馬体は真っ赤で、一日千里を走ると言われ、風をついて走るとき、そのたてがみは炎のように流れるという稀代の名馬だった。赤兎馬を引き連れて、李粛は呂布のもとへ。呂布は李粛の連れてきた馬を見て、一目で素晴らしい馬だと見抜く。赤兎馬をくれると言う李粛に呂布は報いるものがないと言う。李粛は赤兎馬を贈ったのは実は董卓であることを明かし、董卓は呂布が董卓軍を襲ったことも許すと語る。さらに、この先、自分のすぐれた才能をもっと伸ばしたければ丁原を斬れと呂布に耳打ち。呂布は青ざめるが、そのまま丁原のいる宿営に向かい丁原を一太刀で斬って捨てる。(赤兎馬)
丁原を斬った呂布が董卓のもとにやってきた。呂布は歓待され黄金の鎧が贈られた。忠誠を誓う呂布。早速、現皇帝を廃し、陳留王を帝にするため宮中に乗り込む董卓。董卓は陳留王を帝とすることを宣言し、皇帝弁の在位期間はわずか5ヶ月で終わる。代わりに陳留王を帝とすると宣言した董卓は自らが保護者となるとを告げる。ここに漢帝国最後の皇帝、献帝が即位した。傀儡の帝としての献帝の人生が始まる。腹心の部下の李儒は何后と廃帝をこのまま放置しておくと後々の災いになると忠告。董卓に殺害を命じられた李儒により、二人はまもなく悲惨な最後を迎えた。
見渡す限り続く土地がみな自分の庭になったと喜ぶ董卓は、馬車で花見へ。ある村に通りかかった董卓は突然、怒り出す。訳がわからない村人たちへ、晴れた日にも関わらず、田に出ず、着飾って歩くとは不届きな怠け者だ決めつける。 村は年に一度の祭りに日だったので、皆着飾っていたと弁明する村人。董卓は部下たちが捕らえた一人の娘を牛裂きにして、見せしめにしろ命令。刑は実行されてしまう。董卓は顔色ひとつ変えずに、農民は朝早くから夜遅くまで働けと言い放つ。気まぐれから民を殺す董卓の暴虐はエスカレートするばかりだった。(暴虐将軍)
董卓の暴虐は止まることを知らない。司徒王允の家に政府の高官達が、鳩首会談をしていた。ここで曹操が董卓暗殺を提案。高官たちは怖気づくが、王允は曹操に任せることにする。曹操は王允に、董卓を討つために王允の家に伝わる名剣、七宝をちりばめた七星剣を借りる。曹操の父は曹嵩、曹嵩の育ての親は宦官だった。曹操は幼い頃から目に輝きがあり、乱暴者でもあったが策略家としても、村人たちから恐れられていた。ある日、曹操は叔父に悪事を父親に告げ口される。それを根に持った曹操は、その叔父が訪ねてきた時に、わざと目の前でひきつけをおこし倒れる。叔父に聞き、慌てて外に出てきた父親は平然としている曹操を見る。曹操は叔父が嘘をついたとし、父の叔父への信用を失墜させた。ある日、仲間と焼き魚を食べていた曹操は、人物評論家の許劭に会うことを勧められる。許劭は、曹操を平和な世には能臣だが、乱世になれば奸雄となる相だと評する。その後二十歳の時に曹操は王宮の警備員として役人となった。順調に出世し、黄巾賊の乱の時には、騎馬隊を率いて活躍する。その時には劉備とも出会っている。
曹操は董卓を訪れる約束をしており、暗殺を狙う。董卓に挨拶をするが、董卓の傍らには、油断無く呂布が控えていた。董卓は約束の時間に遅れてきた曹操を詰問。曹操は遅刻したのは自分の馬が安い老馬で脚が遅いと言い訳する。董卓は遅刻しないように呂布へ馬を一頭、曹操に与えるように命令。呂布が去り、暗殺の絶好の機会が訪れた。曹操は七星剣を抜くが、その輝きに董卓も気付く。曹操は、とっさに、この名剣を董卓に献上したいと言う。刀を董卓に渡した時、呂布が戻ってくる。呂布の連れてきた良馬を試し乗りすると言い、乗馬した曹操は、そのまま逃走。曹操の裏切りに董卓は李儒へ曹操追討を命じる。 人相書による検問を逃れらず、捕縛され鉄籠に入れられた曹操の命は風前の灯だった。一人の役人が曹操に話しかけ、何故董卓を殺めようとしたのかを問う。曹操は国のため賊を倒して祖先の恩に報いようとしたまで、と回答。 それを聞いた役人は、曹操を逃がす。役人は陳宮と名乗り、万民の呪いと国を思う怒りを持って董卓を憎むと言い、曹操と運命をともにする。(青年曹操)
董卓軍の追手から逃げる曹操と陳宮は成皋という村にたどり着く。成皋には呂伯奢という、父親の友人が住んでいた。早速訪ねると、呂伯奢は立派な屋敷に住んでいた。すでに曹操の人相書がこの村にも来ていたが、呂伯奢は曹操たちを受け入れる。 董卓を暗殺しようとして失敗、追われていることを呂伯奢に説明する曹操。呂伯奢は陣宮に曹操の力になってやってくれと頼むと、二人を歓待するために自ら酒を買いに行く。 呂伯奢の帰りが遅く、次第に曹操たちは不審に思いだす。その時、外から刃物を研ぐ音と、早く縛って殺すんだという声まで聞こえてきた。
曹操は、呂伯奢が自分たちを裏切り、役人に差し出すつもりだと思い、やられる前に殺ろうと、剣を抜いて表へ。外には包丁を持った使用人の男たち。曹操は何も言わずに斬りつけ、男女問わず斬り殺してしまう。脱出する際、曹操と陣宮は、足を縛られ、棒にかけられたイノシシをみつけ呆然とする。呂伯奢の使用人たちは、曹操たちを歓待するために、イノシシをさばいている途中だったのだ。陣宮はせめて死んだ者を弔ってやろうとするが曹操は、武人らしくない、してしまったことを悔やんでも仕方がない、戦場では何千、何万という人間が死ぬこともあるんだ、と拒否をする。
夜道を急ぐ曹操たちは、酒を買って屋敷に戻る途中の呂伯奢と出会う。何食わぬ顔で忘れ物をしたので取りに行くと言う曹操。呂伯奢はそれを信じて屋敷の方へ。曹操はやらねばならぬことがあると陣宮に告げ、戻っていく。呂伯奢に追い付いた曹操は、有無を言わせず呂伯奢を刺し殺す。陣宮の元へ戻った曹操は、呂伯奢を殺してきたと言う。理由を問う陣宮に、呂伯奢を殺さねば、すでに一家皆殺しにしてしまっている現場を見て、役人に訴えるに決っている。罪なき者を殺すは人道に反する、と言う陣宮に、曹操は、俺のいうことは正しい。俺のなすことも正しい。俺が天下に背こうとも、天下の人間が俺に背くことは許さないと激白。 その後、ある廃屋で休息をとる二人。陣宮は気づく。曹操は大胆不敵な人物だが、天下の苦しみを救う大忠臣ではない。曹操の本性は、国を憂うのではなく、天下を奪おうとする大野心家であったと。今ならば、眠っている曹操を殺せる。生かしておいたら、後々、必ず天下の禍になると考え、刺し殺す一歩手前までいく。しかし、思いとどまった。大野心家で、大胆で野望に対する情熱が半端ではないこの男が生まれたのは、天の意思あってのことかもしれないと。
曹操たちは、父、曹嵩の村までたどり着く。ことの次第を説明し、董卓を討つための兵を挙げるという曹操は、父から金持ちの紹介を得る。 曹嵩は財産は無いが名門の家系で人脈は広く、河南一の財産家、衛弘を紹介する。早速、衛弘がやって来た。曹操は軍費調達の依頼を断られた時は、衛弘を殺害するつもり。衛弘は、自分は天下の乱れを嘆いている、曹操が天下を治めるというのならいくらでも軍用金は用立てると応じた。曹操たちは早速挙兵の準備を始める。最初に二通りの旗を作った。ひとつの旗には「忠」、もうひとつの旗は「義」。忠義の旗を作り、帝の密命を受けてこの地に下ったと噂を立てさせた。さらに曹操は、各地の将に檄を飛ばす。董卓の暴虐政治のため国が乱れている。帝の命を受けて義兵を集め、王室を助け民を救うため、董卓を討つ。この檄文を見たら直ちに参加せよ。との檄文だった。各地の国を憂えていた将たちは、この檄を見て、続々と河南に集結して来るのだった。 (奸雄立つ)
第五巻 董卓追討軍
曹操が発した檄は反響が強く、各地の将達が続々参加して来た。渤海の太守・袁紹は檄文の曹操が天子から密詔を受けたということを怪しむ。しかし董卓を討つことは正しいと出陣を決意した。軍を進めていく袁紹は、豫州の孔伷の軍勢や、兗州の兵たちに遭遇。他国の多くの兵が参集してくる様子に、遅れをとらないよう、先を急ぐ袁紹。北平の太守、公孫瓚の軍には劉備、関羽と張飛の三人が合流していた。定州で張飛が督郵に危害を加え、謀反人となっていた劉備たちは、黄巾賊の乱の時のようには義勇軍を立ち上げられなかった。
張飛は公孫瓚の軍と一緒に進軍しながら、昔を回想する。盧植将軍が無実の罪で都に送られていくのに遭遇したこと。その後、黄巾賊に攻め込まれ敗走する官軍を助けたこと。その時の官軍の将軍が董卓であったこと。董卓は劉備たちが正規軍でないことを知り、態度を豹変させたこと。董卓の、あまりに人を見下す態度に張飛は董卓を斬り捨てようとしたが、関羽に止められたこと、などなど。
曹操の檄に応え、続々と兵が河南の陳留に集結。参集した諸侯は18ヵ国、兵力数十万。二百里も隊列が続くという大兵力だった。総大将を激を飛ばした曹操にという提案を断った曹操は、袁紹を推薦する。袁紹は漢の名将の家の出であり、先祖代々漢の重職についている家柄、名望地位から見て総大将として相応しい人物だと、諸侯たちも異存は無かった。総大将となった袁紹は儀式を行う。逆賊を討ち、天下万民の苦しみを救うことを天に誓い弟・袁術を兵糧奉行とした。汜水関の関門を攻め破り、董卓との戦端を開くこととなった。誰か先陣を、と呼びかける袁紹に名乗りでたのは長沙の太守、孫堅だった。(義軍集結)
董卓のもとに、反乱軍が旗揚げしたとの報がもたらされた。敵の総大将は袁紹、参謀に曹操。数万の兵力が洛陽を目指している、呉の孫堅が敵の第一陣として汜水関近くまで攻めてきたとの報告があった。孫堅が長沙の太守であることを知っていた董卓は、その人物について李儒に訪ねる。李儒は、孫堅が孫子の末裔であり、少年時代の孫堅が一人で海賊退治をやってのけたという逸話を紹介した。呂布をこの難敵に充てようと考えた董卓だったが、関西の華雄将軍が進み出た。董卓は、その意気を買い、華雄に先陣を任せることにする。
反董卓連合軍対董卓軍の初戦となる孫堅VS華雄の決戦が始まった。決戦場所は汜水関の関門。孫堅の猛攻に、華雄は、副将の胡軫へ城から打って出て孫堅の首をとるように命じる。孫堅VS胡軫の一騎打ちが始まったが、孫堅の部下が槍を投げ、胡軫に命中する。将を失った胡軫の軍は乱れ、退却。孫堅は深追いはせず、兵を引き、敵の副将を討ったことを、袁紹に報告した。また孫堅は食糧を送ってくれるように要請する。袁紹から兵糧を切らさず提供すると約束されていたため、孫堅の軍は必要最小限の食糧しか持っていなかった。すぐに兵糧を孫堅軍へ手配するように袁紹は命じようとする。しかし、孫堅がもし董卓を殺しても、狼を殺して虎を迎えるようなもの。兵糧を送らずに孫堅の力を殺ごうと部下に進言される。そのため袁紹は孫堅の軍に一切兵糧を送らないままにした。一か月近くも滞陣したまま、とうとう兵糧が尽き、孫堅軍の士気は落ちてしまう。そんな孫堅軍の窮状を知り、華雄は、夜襲を仕掛ける。孫権軍は大混乱し、兵たちはなすすべもなく、切り殺されていく。このままでは勝負にならないと悟った孫堅は単騎戦線を離脱し、反董卓連合軍は初戦を落とす。(汜水関)
孫堅敗れる、の報が袁紹の元へ。孫堅軍は壊滅的な敗北を喫し、孫堅の生死さえわからない。孫堅軍を破った華雄軍は怒涛のごとく押し寄せてくる。第二陣、第三陣もも突破される。華雄の軍は、ついに袁紹の本陣にまで迫り、すぐ近くで乱戦が始まる。袁紹軍の副将、兪渉が出陣するが華雄に倒される。反董卓連合軍に崩壊の危機が迫り、この戦局を立て直せる武将を探す袁紹に呼応して名乗りをあげたのは、関羽だった。関羽が劉備玄徳の義弟、関羽と名乗るが、身分が足軽と分かり、袁紹は出陣を拒絶する。これをとりなしたのは曹操だった。自信があるようだから、ひとつやらせてみては、と関羽に活躍の場を与える。曹操が進める酒を一気に飲み干し、敵の大群の中に関羽がたった一騎で駆け込んでいく。雑兵をなぎ倒しながら突き進み、目指すは華雄の首。戦況を伺う袁紹たちの元へ、ただ一騎、関羽がひとつの首を持って引き返してくる。それは紛れも無く華雄の首だった。この機を逃さず袁紹は、各軍突撃の命令を出す。勢いを得た連合軍は、華雄軍を壊滅させた。 (関羽の武勇)
関羽に董卓軍の華雄が討たれ、総崩れとなった董卓軍は、汜水関まで退却。その報が洛陽に届き、董卓は二十万の兵を動かし、反乱軍を迎撃するため臨戦態勢を敷いていく。五万の兵を汜水関の救援に充てた董卓は、十五万の兵を虎牢関に向かわせる。虎牢関は洛陽防衛に最適な交通の要所だった。そのうち三万の兵を呂布に率いさせ、虎牢関の先に陣を張らせる。万全の守備固めを整え、あとは反董卓連合軍を待つだけだった。反董卓連合軍へ董卓側の動きが伝わった。袁紹の指示により、連合軍も二手に分かれることになる。虎牢関には八カ国の八諸侯が率いる軍勢。その中には、劉備たちのいる公孫瓚軍も含まれた。虎牢関の戦いが始まってい行く。
呂布の陣を連合軍が強襲する。呂布は、突撃してくる連合軍に矢を射ながら、赤兎馬にまたがり出陣。次々と連合軍の兵を切り倒す呂布に、連合軍の兵たちは総崩れ。追撃してくる呂布に、連合軍は左右から挟み撃ちする作戦に。呂布は右翼に突っ込み、連合軍の矢を跳ね返し、的確な矢を放つ。呂布を倒し名を上げようと、巨大ハンマーを持った兵が立ち向かうが呂布に相手にされず、秒殺される。たまらず兵たちは逃げ出していく。呂布はついに、ただ一騎で公孫瓚の陣まで迫った。恐れをなし逃げだす公孫瓚を追いかける呂布の前に立ちはだかったのが、足軽の張飛だった。張飛を軽く見ていた呂布だが、その意外な強さに瞠目する。両者の戦いの激しさに目を奪われている両軍の兵たち。そこへ関羽と劉備が加勢。さすがの呂布も危険を察知し、一旦退くことに。天下の名馬、赤兎馬を駆り、逃れていく。関羽が、今こそ追い討ちだと激を発し、連合軍の各将たちも、次々と追い討ち命令を出す。勢いに乗った連合軍は逃げる董卓軍を追撃していく。虎牢関では、逃げてくる友軍の兵たちを受け入れていたが、連合軍が近づき、城門は閉じられる。城へ入れなかった兵たちに連合軍の矢の雨が降り注いだ。虎牢関は九万の兵を保持した堅固な要塞だった、虎牢関の戦いは、連合軍、董卓軍双方に多大な死傷者を出し、引き分けという結果に終わる。(虎牢関の戦い)
虎牢関の戦いで呂布を迎撃した連合軍。総大将の袁紹、諸侯たちは祝宴を張っていた。その席に入って来たのは、敗走していた孫堅だった。孫堅は袁紹に、なぜ食糧を送らなかったのかと詰め寄っていく。袁紹は言い逃れしようとするが、孫堅は聞く耳を持たない。孫堅の覚悟を見て取った袁紹は、孫堅の軍に兵糧を送るのを止めるよう提案した男を手打ちにする。その場は収まったように見えた。しかし、連合軍の中に感情的なしこりが残り、袁紹の大将としての素質への疑問符がつく。
一方董卓は、虎牢関の城壁を閉じ要塞化した後、少数の兵を残すと、虎牢関から引き上げる。洛陽に戻った董卓は反乱軍への対処法を李儒に尋ねる。李儒が董卓に勧めたのは遷都だった。洛陽を捨て、長安へ都を移すことだ。簡単に手中に収めた都だから惜しくはないだろうと。この提案を受け入れた董卓は李儒に実行を命じる。この決定に驚愕した高官たちは、洛陽遷都を思いとどまるように懇願。しかし董卓は意見した高官たちの官職を剥奪。直訴をする者たちは斬り捨てた。また金持ちから全ての財産を没収せよ、と李儒に命じる。李儒の命を受けた兵たちは、容赦無い財産没収を始める。金銀財宝、婦女子が略奪されていく。止めようとする両親は斬って捨てられる。阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられ街中から、財宝、婦女子が董卓の元へ運ばれる。すべての財産を積み込み、長安に向け出発する董卓は、李儒に、洛陽の都に火をつけろと命じた。反董卓連合軍には、何一つ役に立つものを残さないためだった。漢十二代の歴史を刻んだ洛陽は、猛火に包まれて行く。住み慣れたわが家が燃えていくのを見ながら、民たちはわずかな荷物を持ち、長安への遷都の列に付き従っていく。その頃、呂布は董卓の密命を実行していた。動員した一万人の農民の手で、歴代皇帝の墓を掘り起こしていた。皇帝や皇族の墓に埋められている金銀財宝を車に積むと、長安へ送っていくのだった。(遷都)
虎牢関は、最早もぬけのからだと袁紹へ報告が届く。急きょ出陣した連合軍の兵たちは、抵抗も受けず虎牢関の城壁を登り切る。攻城は成功した。しかし、劉備たちが垣間見たのは、遠方の洛陽の都が猛火に包まれている姿だった。驚愕した連合軍は一気に洛陽まで進撃する。
曹操は、董卓が洛陽を捨てたこと、そして長安へ都を移すことを知る。今すぐ董卓を追討すべきと進言する曹操。しかし袁紹は、疲労困憊している兵たちを二、三日休養させるとし譲らない。董卓が軍を立て直す前に、一気に攻めるべきと、繰り返す曹操に、総大将の命令を守れという袁紹。ついに曹操は袁紹を見限ることに。そして、単独で董卓軍を追撃していく。
一方、連合軍が到着する前に、長安に到達しようと、洛陽の民たちに強行軍を強いる董卓軍。長安までの道のりは約400km。老若男女の足では、一日どんなに歩いてもせいぜい30km、約13日間はかかることになる。移動中の食料も不足し始める。疲労や飢えが洛陽の民たちの足えを遅くする。しかし、董卓軍は事情を一切鑑みず、急いで歩くことを強要し続ける。ある男が歩けなくなり、その娘は董卓軍の兵に、父親が病気であると訴える。しかし足手まといになると槍で刺し殺される。数多の悲劇が生まれ、洛陽の民たちの号泣が野山に木霊した。小休止で、ある小城にたどり着き、着の身着のまま、疲れ切った民たちは泥のように眠りについた。(落日賦)長安へ一路向かっていく董卓軍のもとに急報が届く。曹操の軍一万が追ってきていると。董卓は目をかけていた曹操の裏切りに目を剥く。善後策を問われた李儒には前もって備えていた防衛策があった。それは、董卓軍や洛陽の民たちが休養していた小城に伏兵を置き、不意打ちをする作戦だった。曹操軍のことは李儒に任せ、董卓は長安へ向かってすぐに出発する。百官や女官達、領民たちが追い立てられるように城を出ると、城門は閉じられた。不意打ちのため、山中に兵たちが潜んでいく。そこへ曹操を先頭に、凄まじいい勢いで駆けてくる一隊。小城を見つけると、そのままの勢いで攻撃を開始する。形ばかりの少人数の守備隊がいたが、曹操軍の敵ではなく、あっけなく城内に攻め入られる。城門が開けられ、曹操らが突入、しかし城内はもぬけの殻だった。曹操は董卓軍の主力がすでに長安へ向かったと知り、追撃を下知。しかし、曹操軍を待ち構えていた董卓軍は合図とともに、岩を落とし、逃げる兵たちを無数の弓矢が襲っていく。矢の雨に射たれ、倒れ伏す曹操軍の兵士たち。味方が次から次へと死んでいく最悪の光景に呆然と立ち尽くす曹操。その前に、李儒が姿を表した。高笑いしながら董卓将軍にかわいがられた恩を忘れた天罰を思い知るがいいと宣告する李儒だった。曹操の命は風前の灯となった。(壊滅曹操軍)
第六巻 玉璽の行くえ
李儒の不意打ち作戦により、壊滅寸前にまで追い詰められた曹操軍。最早これまでと覚悟を決めた曹操だが、部下たちが盾となり、退却していく。そんな曹操たちの目の前に小川が。水の補給をしようとする曹操たちに襲い掛かったのは、待ち構えていた伏兵だった。曹操の部下たちが次々と倒されていく。曹操の背中にも矢が刺さり、董卓軍の兵に囲まれ、腹に槍を受けてしまう。絶対絶命のこの危機に一騎の若武者が駆け寄って来た。その男は董卓軍の兵士たちをなぎ倒すと、瀕死の曹操を馬に引き上げ、走り出す。曹操を救ったのは弟の曹洪だった。曹洪に、曹操軍は全滅に近いと聞かされた曹操は、ここで自害することを決意する。 しかし曹洪に諭される。最後の最後まであきらめず、生きる努力をするべきだと。曹洪は曹操の鎧を脱がせると、目の前の大河を泳いで渡ると言う。怪我をしている曹操は泳げない。曹洪は曹操を抱いて川に飛び込んだ。追ってきた董卓軍は、すでに二人が川に飛び込んだのを見て、悔しがる。大河の中に飛び込んだ曹操と曹洪は、見事に対岸まで辿り着く。疲労困憊の二人は、草むらに横に。遠くに兵の姿を見つけ様子を見に行った曹洪が、出くわしたのは徐栄の兵たちだった。包囲される曹操と曹洪。曹洪も、ついに逃げきれぬと悟り、曹家の誇りを守り斬り死にする覚悟を決める。その時、地響きが近づいてくる。徐栄の兵たちが、曹操の兵が来たと騒ぎ始めた。曹操が目にしたのは、曹仁や楽進が敵をなぎ倒している姿だった。徐栄の軍は全滅する。山間に曹操軍の生き残りが集まった。一万の兵がほんの少数の部隊になっていた。気落ちした曹操に曹仁が、曹操さえ無事なら再起を図ることもできる、皆が涙を流して喜んでいる理由はそれだ、と告げる。 それを聞いた曹操は、自分の考えが誤りであったと気づく。将たる者は命を軽んずべきではない。もし自害をしていたら、この部下たちがどれほど悲しんだことかと。負けたからといって軽々しく自害をしようとしたことを反省する。 そして必ず天下の一雄にはなってみせる と、部下たちの前で宣言する。(曹操の危機)
曹操軍が壊滅した報が袁紹に届く。袁紹は、曹操の独断専行をあざ笑い、将軍たちに勝手な真似は慎むようにと言い放つ。孫堅は曹操の敗走をあざ笑うだけの軍議に反董卓連合軍が内部崩壊する予感を持った。ふと見ると、近くの井戸から光が漏れていた。中を調べさせると、井戸の中には、複数の女性の遺体があり、光かがやくものを抱きしめている遺体があった。光は鍵のかかった小箱から出ていた。中からは光り輝く印鑑が出てくる。孫堅が程普に鑑定させると、その印鑑は、朝廷の玉璽だとわかる。玉璽は代々皇帝の位につくものが持つもの。この玉璽を持つ者は、一身つつがなく栄えると言われていた。皇帝の位につく者にとっては、命より大切なものだった。程普は、天が孫堅に与えたに違いない、孫堅が皇帝になり、この国を治めよとのおぼしめしに違いないと告げる。すっかりその気になった孫堅は、玉璽のことは秘密にし、遺体を元通りにすると、急病を装い帰国の準備に入った。しかし孫堅の兵のひとりが陣中を抜け出し、孫堅が朝廷の玉璽を手に入れたことを袁紹に漏らす。翌朝、暇乞いを告げた孫堅に、袁紹は、玉璽のことを切り出す。玉璽は誰が持ってもならん。それは朝廷が持つものだ、朝廷に返上すべきものだ、それをひそかに持つとは天下を狙う証拠と孫堅に詰め寄った。味方同士で血の雨が降る寸前だったが、同士討ちは董卓を利するだけだ、と諸侯がこの場を収めた。孫堅は陣へ戻ると帰国を開始する。それを聞き、袁紹は孫堅が玉璽を手に入れたと確信し、追討軍を差し向けた。そこに戻って来たのは曹操の軍だった。早速祝宴をあげようという袁紹を遮り、曹操は国に帰ると言いだす。口に大義を唱えても、心に一致するものがなければ、同志も同志でないと。
曹操軍の離脱を、袁紹は黙って見送る。一方、孫堅軍は、次々と波状攻撃してくる袁紹の追討軍から致命的なダメージを受けていた。全滅の危機にある中、孫堅は黄河までたどり着く。孫堅と重臣だけを乗せた小舟が出てゆき、残った兵たちは、追手に立ち向かう。次々に倒れる兵たち。船で逃げていく孫堅にも弓矢の雨が降り注ぐ。部下たちが盾となり、孫堅を守りきり、孫堅は危機を脱出。兵たちのほとんどを、この戦いで失なった。孫堅の手元に残ったのは、玉璽だけだった。孫堅は、身代わりになって亡くなった兵たちに天下取りを誓うのだった。 (玉璽)
洛陽の都は廃墟と化し、道端には白骨化した遺体が無数に転がっていた。反董卓連合軍から曹操が去り、孫堅も去り、諸将たちの士気は下がり続けていた。連日会議が開かれ、激論が戦わされたが、ついに袁紹は義勇軍の解散を宣言する。こうして、あっけなく反董卓連合軍は解散してしまった。公孫瓚は劉備を自国へと誘うが、固辞した劉備は流浪の旅に出ることに。時節が来たら再会するとの約束を交わし、劉備と関羽、張飛はそれぞれの道へ別れていく。諸侯たちも続々と洛陽の都を出ると、それぞれの国に帰っていった。
ところが袁紹の軍で食糧不足が勃発。腹を空かせた兵士たちは、民家を襲い、乱暴狼藉を働く。兵士達は処断した袁紹だが、食糧調達の見込みが無い。冀州の太守、韓馥に兵糧を借りてはどうかとの案が出る。しかし、それよりも冀州を奪い、袁紹が天下に号令する時の地盤とすべきだとの案が通った。このため、袁紹は北平の太守・公孫さんに冀州を攻めさせた。また逆に韓馥には力になろうという手紙を出した。袁紹は助勢すると偽り、冀州に乗り込んで、欲しいままにする計略だった。袁紹からの手紙を受けとった冀州の韓馥。大臣たちに諮るが、袁紹の援軍の申し出を受けるとの意見が大勢を占める。ただ一人反対したのは耿武だった。耿武は洛陽に乗り込んだ袁紹洛陽をわがものにしたように、冀州を乗っ取るつもりだと見抜いていた。韓馥は袁紹に援軍を求める。早速、袁紹軍は冀州に向かう。袁紹を歓迎する宴席の中、耿武は袁紹を暗殺しようと試みる。しかし弓矢で射られ、投げた剣もかわされ、護衛の兵に斬り殺された。(袁紹のたくらみ)
袁紹のたくらみに乗せられ一緒に冀州を攻めるつもりで、兵を進めていた公孫瓚。そこへ、すでに冀州に乗り込んだ袁紹が冀州を取り仕切っているとの知らせが。冀州の太守、韓馥は袁紹に追い出されてしまう。 公孫瓚は、弟の公孫越を使者に立て、袁紹に冀州の領土を半分ずつにする約束を確認することに。ところが袁紹に、取り決めは公孫瓚本人としたいと言われ、帰路につく公孫越。袁紹軍に襲われ絶命してしまう。
深夜、公孫越が闇討ちされ、袁紹に冀州を二分する気がないことを知った公孫瓚。速やかに出陣の準備を始め、夜明けには、冀州との境、盤河に兵を進めていた。橋を渡り冀州に攻め入ろうとした公孫瓚軍を待ち伏せをしていたのは、袁紹軍の精鋭、渤海一の豪傑である文醜だった。公孫瓚は、文醜に一騎討ちを挑む。しかし、形勢は公孫瓚に不利、部下たちも文醜に挑むが、まるで相手にならない。逃げる公孫瓚を追いかける文醜。公孫瓚を落馬させた文醜はとどめを刺そうと襲いかかる。小高い丘からその様子を見つめる一人の男、文醜の槍が公孫瓚へ突き刺さる寸前、文醜の槍の穂先に槍を当て阻止する。男は飛び込んで来ると文醜と一騎討ちを始める。次第に男の槍さばきに圧倒されていく文醜は、後日の再戦を告げると逃げ出した。命を救われた公孫瓚が男に名を尋ねると、男は趙雲 子龍と名乗る。元は袁紹の家来だと言う。しかし、袁紹に仕えたものの、袁紹のやり方に愛想を尽かし、生まれ故郷に帰る途中とのこと。公孫瓚は自分に仕えてみないかと趙雲を誘う。趙雲は、家来ではなく客分という扱いで止まることとなった。 (盤河の戦い)
窮地を脱した公孫瓚は、今まで無敗の秘策「白馬陣」で袁紹軍を打破しようと目論む。ただ趙雲は敵側の間者の可能性もあり、念のため、後陣に配置した。一方、袁紹側も迎撃態勢を練っていた。正面は袁紹の本陣とし、文醜と顔良は左右に陣を張った。夜が明け、公孫瓚は、白馬の騎馬隊に攻撃命令を出す。疾風のように襲いかかる白馬たち。しかし橋を渡った途端、次々と馬が倒れ兵たちが落馬。草むらに縄を張った仕掛けがあちこちに。無敗の白馬陣の速さを誇る攻撃が止められた。そこへ左右から敵兵が現れる。文醜、顔良が攻撃命令を下し、大量の矢が公孫瓚軍に。退却していく公孫?軍に袁紹軍本陣も追撃を開始する。河を渡る橋は一本しか無く、逃げ遅れ、なぎ倒されていく公孫瓚軍の兵たちい。この様子を見ているのは客将となった趙雲と500の兵だった。味方の全滅を心配する部下に、その時が来るまで待機せよと命じる趙雲。逃げ戻ってくる公孫瓚軍。趙雲は、兵たちに弓を構えさせ、味方をやり過ごすと、射てと命じた。思わぬ伏兵にどよめく袁紹軍。趙雲が突撃を命じ、袁紹軍の兵士たちを次々になぎ倒す趙雲たち。見事に袁紹軍を食い止めた。公孫瓚は今のうちに白馬陣を立て直そうとする。そこに現れたのは劉備、張飛、関羽の三人だった。公孫瓚の危機を聞き、平原から駆けつけてきた劉備。三人が袁紹軍に向かっていくと、袁紹軍の兵たちは、驚愕し、次々と逃げ出し始める。袁紹側の武将が一人立ち向かっていくが、張飛に一刀両断される。袁紹はたまらず撤退命令を出した。(白馬陣)
公孫瓚の援軍に駆けつけた劉備・関羽・張飛が更に追い打ちをかけ袁紹は退却。危ういところで命拾いをした公孫瓚は、加勢に駆け付けてくれた劉備たちに趙雲を引き合わす。劉備、関羽、張飛と趙雲はお互いの力量を推し量りあう。後に蜀を支える重鎮たちの初めての出会いの時だった。
一方、董卓が遷都した長安の都では急ピッチで街づくりが行われ、大変な賑わいを見せていた。董卓は、大政相国を名乗る。これは諸大臣の上の位で皇帝に次ぐ位だった。 李儒が袁紹軍対公孫瓚軍の戦況を報告しに来る。袁紹軍の旗色が悪く一ヶ月以上に及ぶ戦いにより両軍共疲れ果てている。しかしどちらかが死ぬと、生き残った方が力をつけ董卓の禍となりかねない。そこで董卓が両軍の和睦を進めるべきとの提案だった。 董卓はこの奇策に驚くが、この機会に二人に恩をかけて、手なづけてしまうことが李儒の狙いだった。董卓の許可を得た李儒は、すぐに公孫瓚に皇帝からの使者を派遣する。公孫瓚と劉備たちは和睦の提案を、袁紹が受けるなら、と承知した。それを聞いた使者は、袁紹のもとへ。袁紹も勅命に従うことに。袁紹と公孫瓚は橋の上で杯を交わし休戦となる。その日のうちに兵馬をまとめ、それぞれの国に帰国する袁紹軍と公孫瓚軍。袁紹対公孫瓚の戦いはここに終結した。(和睦)
和睦後、自らの領地に戻った公孫瓚。劉備たちも行動を共にしていた。そんな劉備に公孫?が告げたのは、出世の話だった。公孫瓚は、和睦の件で感謝の印を長安に届けた際、劉備を平原の相にと推薦していたのだ。それが認められ放浪の旅を続けていた劉備は再び正式に任官することとなった。さっそく公孫瓚は、劉備の出世を祝う送別会を開催した。劉備を、必ずや天下の窮民のために立ち上がる人と見抜いていた趙雲は、家臣になることを懇願する。しかし劉備は今はその時期ではない、将来の再会の際に考えようと断った。劉備は趙雲に、再会を期し、その時までは公孫瓚を助けてあげてくれと依頼する。 同じ頃、董卓追討連合軍で武功をたてた南陽の太守・袁術は、自国経済の低迷に頭を抱え、恩賞を授けてくれない兄・袁紹に深い恨みを抱いていた。兵糧も底をつき始めている。そこで、兄の袁紹を頼るのは止め、荊州の劉表に兵糧を借りようと思いつく。袁術は劉表に兵糧二万石を貸して欲しいと使者を出す。しかし体よく断られた。袁術は、これは兄の袁紹が手を回し、劉表に兵糧米を貸さないよう仕向けたのかと被害妄想に。きっと兄には何か企みがあり、自分を困らせているに違いない。そこで、袁術は、袁紹にも劉表にも恨みを抱いている人物を思い出す。孫堅だった。袁術は孫堅をたきつけ、荊州を攻めさせようと、謀略を記した密書を孫堅へと送る。水利に恵まれ、文化も活発な地、揚子江の支流にある長沙城に孫堅は居を構えていた。袁術からの密書に、孫堅は袁紹と袁術との仲互いを見て取った。このチャンスに袁紹と劉表への恨みを晴らそうと、軍戦を集結させる。孫堅の弟の孫静や孫堅の長男孫策、孫権も集まった。孫静は、今回の戦いは、億民の救世ではなく、私怨だ。そのために兵を傷つけたり百姓を苦しめるのは止めるべきと意見する。しかし孫堅は民百姓を救い、世を治める大望はある、今に天下を取ると宣言。孫策は初陣に、孫権は孫静とともに留守を守り、出陣は明朝となった。(孫堅立つ)
孫堅軍は出陣の準備を終え、揚子江に出て、敵の城に向かう。その数およそ500余艘の船に4万を超える兵たちが乗っていた。劉表は、孫堅軍の出陣を知り、急きょ防衛態勢を取る。その第一線の大将は江夏城の城主、黄祖だった。孫堅の軍船が見えて来る。江夏城の兵は、銅鑼を鳴らして合図。しかし大将の黄祖は矢が届くところまで孫堅軍を引きつけた。一斉に大量の矢を放つ。孫堅側も打ち返す。孫堅は上陸を強行させるが、黄祖側はさらに矢を打ち込んでいく。上陸するのはかなり無謀名目論見だった。最初の孫堅軍の上陸作戦は失敗に終わる。夜、作戦会議が開かれ、孫堅は奇策を用いることを決める。小舟に篝火を焚かせ、船には船頭だけ乗せ、敵に夜襲と見せかける作戦だった。黄祖側に無駄に矢を使わせ、消耗させるのが狙いだった。これを毎夜繰り返させた。迎撃する黄祖軍は、夜襲のたびに、誰もいない船に向かって矢を放つ。黄祖側は、夜襲が連続して7日7晩過ぎた頃には、矢が尽きかけ、兵たちの体力も限界に来てしまった。ついに黄祖は、漂流している孫権軍の小舟を拿捕し、孫堅の奇策を見破る。次の夜、孫権軍の空芝居を高みの見物と決め込んだ黄祖軍。しかし、今回、孫堅軍の小舟は、黄祖の陣地に近づくと、一斉に篝火を消した。舟へ伏せていた兵たちが一斉に上陸を開始。先遣隊の上陸後、大船に乗っていた本隊も次々に上陸開始。黄祖は必死に迎撃を指示するが、最早間に合わない。孫権の本陣へ突入しようとする黄祖の兵も孫策に弓で討ち取られる。孫堅の全軍が突撃を開始し、黄祖軍は壊滅した。 (荊州攻略)
強引に長安に都を移してから董卓の権勢は更に高まり、その傍若無人な振る舞いはとどまるところを知らなかった。この事態を苦慮した司徒・王允は董卓暗殺計画を練る。その計画に必須なのが王允と同じ并州出身で董卓の身辺警護を勤めている呂布であった。そこへ董卓と呂布の仲にヒビが入る。董卓は侍女・貂蝉を呂布に与えるとの約束を反故にし、更に万座の中で董卓の機嫌を損ねた呂布に手槍を投げつけたのだ。呂布はこの恥辱を晴らすため、王允の董卓暗殺計画にに加担する決意を固める。(王允のたくらみ)
呂布と貂蝉の逢引きを見た董卓は呂布を打ち首にしろと李儒へ命令。董卓が皇帝になるまでは、呂布は大切な味方であると、李儒は「絶纓の会」の逸話を持ちだす。「絶纓の会とは楚国の荘王の話。ある時荘王が開催した宴席で、風により灯火が消えてしまった。その隙に、出席者の一人が荘王の寵姫の唇を盗む。寵姫はとっさにその男の冠に印をつけ、荘王の側に。寵姫は、荘王に明かりをつけて、冠に印がついているのが犯人だと告げる。ところが荘王は、皆がくつろいでくれているのが嬉しい、暗闇の中で、冠をとって無礼講で飲み明かそうと。再び明かりを灯したときには全員冠をとっていた。寵姫の機転もむなしく、誰が寵姫の唇を盗んだのかはわからずじまいだった。そんな事件からしばらくして、荘王は秦との戦いで大軍に取り囲まれてしまう。この窮境から全身に矢を受けながら荘王を助けだしたのは、一人の武者だった。礼を言う荘王に、武者は実はあの時、寵姫の唇を盗んだのは自分である、あの時、皆の前で恥をかかずにすんで以来、自分は荘王に命を捧げる気持ちであったと告白する。荘王の恩に報いることができた武者はにっこり笑って死んでいった。これが「絶纓の会」と言って語り草になっていた。董卓も、この荘王のような態度で呂布に対してほしいと李儒は話を結ぶ。李儒の話に納得した董卓に李儒は、貂蝉を呂布に遣わせてはと提案する。そうすれば、呂布は董卓の思いやりに感謝し、董卓のために命をかけるだろうと。李儒に女ひとりと、帝の位、どちらを選ぶかと問われ、しばし思案した董卓は李儒の提案を受け入れることにする。( 絶纓の会)
董卓から呂布に貂蝉が贈られることになり、李儒が直接呂布に伝えると、呂布は命に代えても董卓のために尽くすと応えた。貂蝉は董卓からこの話を聞き一芝居を打つ。あんな乱暴者の家に参るよりは、死んだほうがいい、と。これを聞き、董卓は約束を破り貂蝉を自分の側に置いておくことにした。
呂布が貂蝉との結婚式の準備に勤しんでいると、貂蝉の代わりに李儒が来て、呂布に、あの約束はなかったことにしてくれ、という董卓の言葉を伝える。とても納得できない呂布は赤兎馬を駆り、貂蝉の名を叫ぶ。いつの間にか王允の別荘地へ入り込んでいた呂布。董卓との顛末を語る呂布に、貂蝉を贈れなかったことを土下座して謝罪する王允。しかし、呂布は悪いのは董卓だ、この恥をそそぐためには董卓をも殺すと打ち明ける。その言葉を聞いた王允は、もし董卓を討てば、歴史に残る英雄になるとそそのかすのだった。
下手に董卓の城攻めをすれば董卓に逃げられる可能性もある。そこで、董卓に帝の位を譲ると伝え、宮廷に呼び出すことに。董卓のもとに使者が送られ、董卓に帝の位を譲りたい、重臣も全員賛成していると伝える。董卓は数千の兵と共に城を出る。得意の絶頂で董卓は、宮廷を目指していく。霧が立ち込めてくるが、董卓は空を見上げ、虹の輪が見える、これは吉兆だ、旧きを捨て、新しき時代に変わる前触れだと言い行進を続けていく。その霧の中から、騎馬隊を従えた呂布の姿が現れる。呂布は董卓の護衛となり、一行は、百官が拝礼する中、宮殿に入って行く。出迎えた王允に武装を解除するように言われ、部下たちを門の外で待機させる董卓。
ほぼ丸腰で宮殿に入った董卓を待ち受けていたのは剣や槍を持った兵達だった。董卓は傍らにいる呂布に助けを求めるが、呂布は、勅命により逆賊董卓を討つ、と董卓にとどめを刺す。こうして、董卓の栄耀栄華を誇った一生が唐突に幕を閉じた。享年54歳。初平3年4月22日の真昼の出来事だった。呂布は外で待機していた董卓の兵たちを突破し、そのままの勢いで城に攻め入る。呂布を恐れた城内の兵士たちは、慌てて逃げ出していく。呂布は逃げ遅れた兵たちを皆殺しにすると、董卓の溜め込んだ財宝を都に運ぶように指示する。城内では略奪が始まり、後宮の婦女子たちも兵士たちにさらわれてしまう。貂蝉は、董卓が討たれたこと報を聞き、自分の身を挺した作戦の成功を知った。そして、微笑ながら自分の胸に短剣を突き刺していくのだった。(董卓暗殺計画)
呂布に奪われた領地を奪還しようとする曹操対呂布の因縁の戦いは、イナゴの大群により双方の兵糧が尽き中断となった。同じ時期、徐州へ救援軍として馳せ参じた劉備は病に倒れていた陶謙から太守の位を非公式に譲リ受ける。曹操は棚ぼたで太守となった劉備の運の強さに瞠目しつつ、再び呂布との激戦の渦中に身を投じて行った。曹操に打ち破られ兵を失った呂布は劉備の援護を求めていく。
帝を意のままに操る曹操は、都を許昌へ移した。飛ぶ鳥を落とす勢いの曹操の気がかりは、徐州の太守・劉備と傘下に入った呂布の存在だった。曹操は劉備と呂布の共倒れを狙い二虎競食の計、駆虎呑狼の計を仕掛ける。
曹操のたくらみによる帝の勅命を受け、南陽へ出陣した劉備は張飛に後を任せる。しかし禁酒の誓いを破った張飛は大きな問題を引き起こす。
孫堅が亡くなり、孫策は伝国の玉璽を預ける代わりに袁術から兵を借り領土拡大を目指し出陣する。孫策は楊州の劉ヨウを撃破すると負け無しの快進撃を続ける。孫策は英傑として讃えられ小覇王とまで呼ばれるようになる。弓を扱えば百発百中の名手と呼ばれた劉ヨウ側の武将・太史慈が三千人の兵とともに部下となる。破竹の勢いを得た孫策は江南・江東までも手中にする。董卓亡き後の敗残兵たちは曹操に復讐を誓い都・許昌を狙っていた。呂布に官位と恩賞を授け留守の間の後顧の憂いを払った曹操は十五万の兵で遠征する。宛城の張繍は戦わずして降伏した。曹操は驕り高ぶり宛城の未亡人に心を奪われ油断する。そこを張繍が強襲、曹操は深手を負いながら辛くも許昌へたどり着く。
ようやく傷も癒えた頃、陳登が袁術と呂布の謀略を急報してくる。南陽・宛城の張繍が劉表と組み許昌を襲う計画が露見した。曹操は、再び南陽討伐に出陣する。行軍は大変な暑さの中に行われ、倒れる兵士が続出した。疲労の極にあった曹操軍は作戦の裏もかかれ、あえなく惨敗する。しかも曹操と劉備が組んで進めていた呂布討伐の企みが発覚してしまう。呂布はすぐさま劉備の小沛を攻撃する。曹操の援軍も到着するが呂布の力攻めに小沛は落城。劉備は戦闘中に消息不明となる。
第七巻
劉備は平原の相に任命され、張飛や関羽は喜び勇んだ。また新たに部下になりたいと言う者も増えてきていた。一方、その頃、南陽では太守の袁術が兄の袁紹からの返事を待ちわびていた。袁術は袁紹と共に、董卓軍征伐に加わり兄をたびたび助けた。その武功により、兄は蘇州を手に入れたのに、袁術には馬千匹程度の恩賞さえ与えられなかった。兵糧も底をつき始めていた。生死を共にした兄の態度に業を煮やした袁術は、荊州の劉表に兵糧を借りることにした。ところが体よく断られてしまう。これは兄が裏から手をまわして、劉表に兵糧米を貸さないように仕向けたに違いないと確信。兄にも劉表にも恨みを持っている孫堅を利用して2人に復讐を遂げようと、兄と劉表を讒言する手紙を送る。
袁術に焚きつけられた孫堅は、軍船を五百隻用意し、刑州に攻め入る準備を進めていく。軍船は揚子江に出、劉表の部下である黄祖の城へと向かった。両軍は互いに矢の雨を敵に降らせる。孫堅軍は矢に遮られ上陸できない。そこで小舟にかがり火をたかせ、船には船頭だけを乗せて沿岸に近づけさせた。敵に夜襲と見せかけ、矢を使わせてくたびれさせるためだった。これを毎夜毎夜繰り返した。劉表軍は兵が乗っていない空の船に懸命に矢を射た。七日七晩の夜襲に対し矢を射たために、矢をほとんど射つくしてしまった。これ以上射続けると、矢が無くなってしまう。とうとう孫堅軍の船のからくりに気付いた黄祖は、次の夜は、油断してしまった。ところが今度の船には兵が乗っていたのだからたまらない。上陸は成功し、孫堅軍は全軍上陸。黄祖軍は散々に打ち破られる。孫堅軍は勢いを増し、怒涛の如く劉表の城へと迫った。
劉表は無双の要塞と言われる城に立てこもり、袁紹軍の救援を待った。難攻不落の城だけあり、孫堅も持久戦を覚悟した。その夜、狂風が吹き続け、帥の旗竿が折れた。帥の旗は総軍の大将旗だ。この旗竿が折れたことは、孫堅軍の兵士たちに不吉な予感を与えた。一方、劉表は精鋭500騎で孫堅軍の囲みを破り山を越え、袁紹軍に救援を乞う作戦に打って出た。それを追撃した孫堅だが、山から落とされた石に当たり、37歳で絶命してしまった。
長安は董卓がここに都を移してから栄に栄えた。それにも増して董卓の権勢は天子をも凌ぐほど高まっていた。董卓は王城よりも豪華絢爛な城まで築城した。その城内の建物は金玉で飾り、二十年分の食料も蓄えた。後宮には美女八百人、天下の宝も山のように集めていた。
第八巻
董卓は、愛人の貂蝉を呂布に与えるという約束を反古にした。董卓に恨みを持つ貂蝉が、呂布に恥をかかせ、董卓を討たせようというたくらみに騙されたのだ。突然の董卓の翻意に恥をかかされ納得できない呂布。そこへ貂蝉を董卓に献上した王允が現れる。王允は、呂布を別荘で歓待しながら、今、暴政を振う董卓を殺せば、一世の英雄になると呂布に吹き込むのだった。呂布を手の内に入れた王允は董卓を亡きものとするため、帝の位を譲ると言って宮廷におびき出す。董卓は数千の兵を率いて宮廷に向かうが、そこへ警護をする振りをして呂布が付き添った。油断して少人数の兵と共に宮廷へ入った董卓を待ち受けていたのは王允だった。王允の号令一下、兵たちが董卓に殺到。呂布がとどめを刺した。栄耀栄華を極めた董卓だったが、54歳で一生の幕を下ろす。
呂布は三万の軍勢を率いて董卓亡きあとの城を攻めた。城兵達は城を捨てて逃げだしていく。董卓の蓄えた黄金や白銀、その他目を奪うばかりの宝物は全て長安の都に運ばれたのだった。
登場人物・キャラクター
劉備 玄徳 (りゅうび げんとく)
農村に住む優しい青年。母と二人でむしろや草履を売って貧乏暮らしをしているが、本当は漢王朝の末裔。自分の出生の秘密を知り、乱れた世を正して人々を救うことを決意。桃園の誓いで義兄弟の契りを結んだ関羽張飛と共に、漢王朝復興を目指す。心優しく義理人情に溢れ、誰からも愛される人望の持ち主だが、その優しさゆえに、いらぬ苦労を背負ってしまうことも多い。 後に蜀の皇帝となる。
関羽 雲長 (かんう うんちょう)
大きな体と長い顎鬚が特徴の偉丈夫。理知的な性格で教養も高く、塾を開いて子供に学問を教えていたが、桃園の誓いで劉備玄徳張飛翼徳と義兄弟の契りを交わした後は、玄徳の漢王朝復興の夢に付き合う。三人の中では次兄にあたる。戦闘では作中屈指の強さを誇り、敵味方問わず畏怖の対象になっている。 特に曹操からは非常に高く評価しており、配下になるようにと再三の請を受けている。
張飛 翼徳 (ちょうひ よくとく)
全身傷だらけの蓬髪の大男。戦いで808人もの敵を倒したことから「八百八屍将軍(はっぴゃくはっししょうぐん)」と呼ばれていた。黄巾賊に滅ぼされた主君の仇を討つため機会を窺っていたところに劉備玄徳と出会い、桃園の誓いで玄徳関羽雲長と義兄弟の契りを交わした後は、玄徳の漢王朝復興の夢に付き合う。 関羽と並び称される戦闘能力の持ち主だが、短気で幼いところがあるので、三人の中では末弟になっている。
趙雲 子龍 (ちょううん しりゅう)
四角い顎と細い目が特徴の偉丈夫。諸国を遍歴し、様々な主君に仕えてきたが、劉備玄徳の徳に惚れて配下となる。槍を使わせれば右に出る者はなく、関羽張飛に並ぶ戦闘能力を持つ豪傑。実直で冷静な性格だが、ここ一番の度胸もあり、戦場での安定感はぴか一。
諸葛亮 孔明 (しょかつりょう こうめい)
類まれな智謀と膨大な知識を持つ賢人。名を出すことを嫌って草蘆に隠遁していたが、劉備玄徳に再三の要請を受け、軍師となった。魏・呉・蜀、三国の戦力均衡によって平和を実現する天下三分の計を長期的な計画として考えており、その実現のために力を尽くす。その智謀を活かし戦場で大活躍するほか、武器の発明や内政などにおいても力を発揮する。 飄々とした振る舞いでつかみどころがないが、情に厚い一面もある。
曹操 孟徳 (そうそう もうとく)
名門貴族の出身だが、ただならぬ野心を持ち、貪欲に立身出世を企てる野望の男。傲岸不遜な態度と、目的のためなら手段を選ばない非情さを併せ持ち、「乱世の奸雄」と称される。一方で徹底した合理主義・実力主義者であり、才能さえあれば身分や敵味方の別を問わず重要する公平さを持ち、部下からの信頼は厚い。軍事・内政に長じているが、自身で詩文をしたためるなど文化人としての一面も併せ持つ。 自分にない人徳を備えた劉備玄徳を危険視し、生涯のライバルとなる。
孫権 仲謀 (そんけん ちゅうぼう)
呉国の基礎を固めた兄孫策伯符の弟で、孫策亡き後わずか19歳で皇帝に即位する。内政力に長けており、新興国の呉を一代で大国にのし上げた。同時期に急成長を遂げた曹操孟徳と劉備玄徳を警戒しており、彼らの動向を注意深く観察して政策決定を行うことが多い。思慮深く慎重な政策を好むが、自身の性格は短気で怒りっぽい。
周瑜 公瑾 (しゅうゆ こうきん)
呉の水軍を指揮する水軍大都督。呉随一の優秀な軍師で、「美周郎」の異名を持つ美男子でもある。優れた才能を持っているのだが、諸葛亮孔明にだけはどうしても叶わず、何かにつけてその智謀に翻弄されてしまっていた。赤壁の戦いで共闘関係にあったにも関わらず、不安といら立ちから孔明を殺害しようと企む。
呂布 奉先 (りょふ ほうせん)
作中でも屈指の戦闘能力を誇り、その実力は関羽と張飛を同時に相手にできるほど。武芸に優れる一方、人格は褒められたものではなく、短気で思慮に欠ける性格。初めは義父・丁原の元で戦っていたが、功名心を刺激されて董卓に寝返る。後にその董卓をも裏切り殺害、流浪の身となった自分を保護してくれた劉備玄徳さえも裏切るなど、欲望のままに不義を重ねていった。
董卓 仲穎 (とうたく ちゅうえい)
もとは辺境の豪族だったが、黄巾の乱討伐軍への参加を契機に宮廷に入り込み、自身の主導で幼い献帝を擁立して権力を握る。非情な性格のエゴイストで、自身の利益のために他者を犠牲にすることをいとわない。狡知に長けるところもあり、呂布を騙して自分の軍門に引き入れ、さまざまな手管を使って好きなように操った。
十常侍 (じゅうじょうじ)
後漢の第12代皇帝霊帝に仕える10人の宦官。幼い霊帝を傀儡とし、政治の実権を握った。後漢の衰退を決定づけた要因と言われており、袁紹の働きによって王室から排斥されるが、後に同様のポジションには董卓が座ることになる。
イベント・出来事
黄巾賊の乱 (こうきんぞくのらん)
『三国志』に登場する架空の宗教結社による武装蜂起。太平道の教祖張角を首領とする農民反乱であり、構成員が黄色い頭巾を頭に巻いた事から、黄巾賊の乱の名がついた。「蒼天已死 黄夫當立(蒼天すでに死す 黄夫まさに立つべし)」という漢王朝の衰退を暗示する歌い文句を掲げている。
その他キーワード
桃園の誓い (とうえんのちかい)
『三国志』に登場する架空の誓願。乱れた世を立て直すという目的を持った劉備玄徳・関羽・張飛の3人が桃園に会し、義兄弟の契りを結んで生死を共にすることを約束した。酒宴の中で3人は、「我ら産まれた日は違えども、死す時は同じ日同じ時を願わん」という誓願を残している。
天下三分の計 (てんかさんぶんのけい)
『三国志』に登場する架空の軍事計画。漢王朝の再興を願う劉備玄徳に対し、軍師の諸葛亮孔明が提案した。その内容は当代の有力な英雄である玄徳、曹操、孫権それぞれの勢力が中国大陸を大きく三分割し、戦力均衡のもとで平和を保つというものだが、強大な力を持つ曹操を討つために、有事の際には孫権と手を結ぶという狙いもあった。
ベース
三国志演義