蒼天航路

三国志の武将曹操を破天荒な英雄として描いた大河史劇。原作李學仁(1998年9月以降は原案)、作画王欣太。(1998年)講談社漫画賞一般部門受賞。

あらすじ

曹操と爆烈団の戦い(第1巻)

恵まれた境遇にある少年の阿瞞(のちの曹操)は武芸や兵法に親しみ、幼くして大人から一目置かれる存在だった。ある日、阿瞞の従兄弟の夏侯惇が、ならず者集団、爆烈団の構成員を殺害したことをきっかけに抗争が勃発。阿瞞は夏侯惇の救援に向かい、爆烈団の頭目の李烈を弁舌で圧倒する。さらに、道中で出会った怪童、許褚の力を頼りに李烈を殺害し、爆烈団の構成員を配下として吸収する。

曹操と水晶の恋(第1巻~第2巻)

16歳の曹操は茶屋で働く胡人の少女、水晶と恋仲になり、彼女を娶(めと)るつもりでいた。しかし、水晶は金に目が眩(くら)んだ茶屋の主人により、淫猥と噂される宦官の張譲に身売りされてしまう。曹操は水晶の返還を求めて張譲の屋敷を訪問するが、張譲は返還を拒み、曹操を暴漢として処分せんと衛兵を差し向ける。その騒動の中、水晶は亡くなってしまう。自衛のために衛兵を殺傷した曹操も罪人として捕縛され、その裁きは酷吏と名高い橋玄に委ねられた。橋玄は張譲から曹操に厳罰を科すよう言い含められていたが、問答の末に曹操を無罪放免とする。

北部尉の曹操、党錮の禁を暴く(第2巻~第3巻)

西暦175年、20歳を迎えた曹操は北部尉に就任し、腐敗しきった隊内の規律を是正する。そして「令を犯した者は貴賎官民を問わず厳罰に処す」と布告。洛陽の治安を回復させることに成功し、いつしか「鬼の北部尉」と恐れられるようになる。やがて曹操は、闇に葬られた宦官の醜聞事件、党錮の禁の真相解明に挑み、宦官に抹殺された陳蕃(ちんばん)なる人物がまとめた告発文書を入手する。その過程で宦官に騙されて陳蕃を殺めてしまった老人の張奐を従える。宦官の蹇碩は曹操を陥れるべく一計を案ずるが、曹操はそれを逆手に取って天子、劉宏との対面を実現させ、告発文書を上奏する。しかし、宦官の断罪は実行されず、曹操のもとには頓丘県の県令を任せるとの書状が届く。この異例の昇級は、曹操を中枢から遠ざけたい張譲による厄介払いにほかならなかった。

県令の曹操、腐敗役人を一掃(第3巻)

曹操の新たな任地は高い税率が課せられ、役人は甘い汁を吸うことに終始していた。腐敗した役人はこれまでの体制を維持するべく、曹操を美女と財宝で籠絡しようと企んでいたが、曹操は一時的にそれを享受したうえで役人を処刑。手に入れた財貨を民へと返還したうえで、集金の道具と化していた祠堂の破壊や、税率の半減などの改革を次々と押し進めていく。一方、涿県では16歳の青年、劉備が関羽、張飛という二人の豪傑と運命的な出会いを遂げていた。

黄巾の乱、勃発(第4巻)

県令を辞した曹操は、故郷で狩りと読書に明け暮れていた。179年には、のちに妻となる歌妓の卞玲瓏を見初め、寝物語に北方の梟雄(きょうゆう)、董卓の危険性を耳にする。時は流れ、太平道の教祖、張角が数十万の信者を抱えるに至り、乱の気配を察した群雄は練兵に勤しんでいた。曹操は静観を決め込んでいたが、才気煥発な少年、荀彧との出会いを経て、ある策を実行する。それは「蒼天已死」の四文字を天下に放つというもので、群雄割拠の時代を招くと同時に、洛陽を狙う董卓の機先を制する効果も期待できた。やがて文言に触発された張角は「蒼天已死」を引用して新たなスローガンを織り上げ、信者の集団、黄巾党を煽って武装蜂起へと至る。こうして、農民一揆、黄巾の乱が勃発した。

騎都尉、曹操の初陣(第4巻~第5巻)

184年、曹操は騎都尉として黄巾党の討伐に参戦し、激戦区の穎川での活躍により存在感を示す。勢いに乗った曹操は、江南の勇将、孫堅と協力して黄巾党の砦を攻撃。夏侯惇が張奐の命と引き換えに黄巾党の渠師の張曼成(ちょうまんせい)を討ち取り、砦は官軍の占領下となった。しかし、敵増援の気配を察した曹操は手に入れた兵糧を奪還される最悪の事態を避けるべく、砦へ火を放ったうえで撤退する。砦に深入りしていた官軍は脱出すらままならず、兵糧と運命を共にした。やがて張角が病に倒れ、黄巾の乱は終結。戦後、荀彧は曹操の言葉に従い、中華を見聞する旅へと出立する。

董卓の台頭(第5巻)

189年、曹操は西園八校尉の位にあった。劉弁が帝位を継いで新たな天子になると、曹操の旧知の袁紹は宮中腐敗の原因である宦官を一掃せんと、天下に檄文を放つ。しかし、檄文は野心を抱いた董卓により、洛陽入りする口実として利用されてしまう。洛陽を制圧した董卓は劉弁から帝位を剝奪し、劉協を新たな天子に据える。その後、董卓は劉弁の擁立に加担していた者を粛清し、最強の武人、呂布を従えて相国に就任。こうして、洛陽は董卓が略奪と陵辱の限りを尽くす無法地帯と化した。

反董卓連合結成(第5巻)

曹操は董卓から片腕となるよう誘われるが、これを拒否して宮中を脱出し、袁紹を盟主とする反董卓連合の立ち上げを宣言する。お尋ね者となった曹操は洛陽の商人の呂伯奢(りょはくしゃ)と出会い、財貨と引き換えに五〇〇〇人規模の私兵を確保。190年1月には曹操の発した檄文が四海へと行き渡り、各地で群雄が挙兵した。連合軍の動きを察した董卓は、猛将、徐栄(じょえい)に精兵3万を預けて対抗。袁紹は10万もの大軍を率いながらも苦戦を強いられ撤退を考慮するが、傍らの曹操は退けば大義を失うとして突撃を敢行。自ら徐栄と切り結ぶも決着には至らず、緒戦は互いの陣営が勝利を主張する形で幕を閉じた。

汜水関(虎牢関)の戦い(第6巻)

曹操の苛烈な戦いぶりは「曹」の軍旗に力を与え、掲げるだけで10倍の敵を牽制することができた。そこで、曹操は軍旗と子飼いの将兵を友軍に散りばめる秘策を考案。神出鬼没の曹操軍を演出し、敵の混乱を誘発することに成功する。勢いづいた連合軍は汜水関を突破し、虎牢関に向かう途上では猛将、呂布と関羽の壮絶な一騎討ちが行われた。こうした戦局の流転のはてに、ついに董卓が出現する。董卓は暴虐なる用兵で連合軍の戦意を削ぐと、頃合いを見て退き、洛陽に火を放ったうえで長安へと遷都した。ほどなく袁紹は董卓の断行した遷都を連合軍の功績と主張し、撤退を決断。こうして、連合軍は目的をはたせぬまま瓦解に至る。一方、劉備は戦いの陰で劉協と対面し、漢の復興に尽力することを誓っていた。

董卓の死(第6巻~第7巻)

長安では董卓の横暴極まり、宮廷内でも董卓討つべしの機運が高まっていた。司徒、王允(おういん)の娘である貂蟬は董卓の暗殺に失敗するが、董卓に気に入られて妃となる。ほどなく貂蟬を見初めた呂布が董卓を殺害するが、呂布は王允の放った刺客に追われ落ち延び、貂蟬は凶刃の巻き添えとなり落命する。王允もまた、董卓の配下の李傕(りかく)に殺され、董卓に纏(まつ)わる騒動は幕を閉じた。騒動と前後して、曹操のもとには成長を遂げた荀彧が帰還。また、黒山賊(こくざんぞく)の鎮圧戦で幼少の砌(みぎり)に縁を結んだ許褚と再会し、正式に幕下に迎える。一方、孫堅は次々と引き上げる群雄を尻目に、焦土と化した洛陽の復旧に尽力し、伝国の玉璽を発見していた。孫家の名声を高めることにも成功していたが、劉表討伐の最中に暗殺されてしまう。

青州兵の獲得(第7巻)

192年4月、兗州へ迎えられた曹操は、黄巾党の後進組織、青州黄巾党を迎撃する。曹操は巧みな籠城で女子供を含む青州黄巾党の母体一〇〇万人を戦場近くまで誘引することに成功。これにより、青州黄巾党の兵士三〇万人は食糧難を加速させ、曹操の守る城を落とせなければ餓死という極限状態に追い込まれる。やがて青州黄巾党の決死の突撃を制した曹操は、彼らを民として受け入れると宣言。青州黄巾党の長老たちが幾つかの条件と引き換えに曹操の提案を受諾したことで、曹操はのちに青州兵と呼ばれる30万もの精強なる兵士と、一〇〇余万もの民を獲得するに至った。また、籠城戦で活躍した勇将、于禁も曹操の幕下に加わる。

徐州大虐殺(第7巻~第8巻)

知恵者の程昱、怪力を誇る典韋などの人材が集い、曹操軍は精強さを増していた。しかし、曹操の父親の曹嵩(そうすう)を含む縁者が皆殺しにされる事件が発生し、曹操は護衛の責任をはたさなかった陶謙の拠点、徐州を攻めることを決定。自ら青州兵を率いて、徐州の人間を民百姓に至るまで徹底的に虐殺する。この蛮行により、切れ者の陳宮が曹操幕下を離れ、呂布の軍師となってしまう。一方、陶謙のもとに駆けつけた劉備は眼前にせまる曹操軍を陶謙に代わって迎え討つ覚悟を固めていたが、曹操が呂布襲来の急報を受け撤退したため、交戦は回避された。やがて病死した陶謙の遺言により、劉備は徐州の牧となる。

孫策の快進撃(第8巻~第9巻)

兗州の鄄城に帰還した曹操は、自ら呂布の矛を受け止めて荀彧を救出する。そして、呂布軍と1年にわたって戦い続けることを宣言。そのあいだに軍略に長けた郭嘉、青州兵の女性、汎などの優れた人材と出会い、陣容を盤石なものとした。また、郭嘉の策により呂布を孤立させることに成功するも、曹操の気まぐれにより決着は持ち越された。一方、孫堅の嫡子の孫策は群雄、袁術のもとで雌伏の日々を送っていたが、伝国の玉璽と引き換えに兵士一〇〇〇人を取り戻すことに成功する。それは寡兵ながら、かつて孫堅に仕えていた歴戦の将を含む精強な軍団だった。孫策は兄弟同然に育った周瑜と共に諸地域を併呑。叔父の呉景(ごけい)と対立する劉繇(りゅうよう)の喉元にせまる頃、兵力は3万を超えていた。快進撃のはてに、孫策は広大な揚州の覇王となる。

天子奉戴(第9巻)

196年7月、曹操は洛陽に逃れた劉協を保護し、自らの拠点である許への遷都を上奏する。劉協は洛陽への未練を断ち切れず遷都を拒んでいたが、やがて曹操の言葉に感化され上奏を受諾。天子奉戴を遂げた曹操は詔勅を利用して乱世に膠着を生み出すことに成功すると、人材の獲得や新しい屯田制度の実現に邁進するのだった。

狩猟大会(第9巻)

呂布とのいざこざで、徐州の下邳城を追われた劉備は許都を訪問する。これを受けて、夏侯惇は劉備の暗殺を目的とする狩猟大会を企画し、歓迎の催しと称して劉備ら誘い込むことに成功する。両軍の武将による一進一退の試合が行われる中、暗殺を遂行せんと動く夏侯惇だったが、曹操の気まぐれにより暗殺は中止となり、大将同士の対決が実現する。曹操は都と天子、劉備は関羽と張飛を賭けることに決まるも、やがて怖気づいた劉備が曹操に賭けの取りやめを哀願する。これを容認した曹操は劉備を予州の牧に任命し、徐州の奪回を指示するのだった。

宛城の戦い(第10巻)

曹操は荊州の宛城に落ちつき、朝な夕な絶世の美女と名高い鄒氏との情事に耽っていた。そんな曹操の油断を突くように、城を明け渡して降伏したはずの群雄、張繡が宛城を襲撃する。張繡の右腕、賈詡の謀略により、曹操の警護を担当していた典韋が戦死。曹操は辛くも燃え盛る宛城からの脱出に成功するが、鄒氏に加えて嫡子の曹昂、甥の曹安民(そうあんみん)、名馬、絶影(ぜつえい)まで失う大打撃を被ってしまう。

袁術の天子僭称(第10巻)

197年の春、偽帝の袁術は曹操を逆臣と定義し、聖戦と称して許都への侵攻を開始する。この頃の曹操は、曹昂の育ての親である妻の丁美湖に別れを切り出された挙句、ほかの妻女からも距離を置かれ、軍議にも身が入らない有様だった。そこで、曹操は袁術の対応を荀彧に一任。すると荀彧は大凧を用いた奇策で袁術軍を退け、許都を守り抜くことに成功する。戦後、調子を取り戻した曹操は練兵に励む兵の群れから宛城の戦いを生き残った兵士の楽進を将として抜擢した。そして、荀彧の甥の荀攸に楽進を預け、実戦の中で兵法を叩き込むように命じる。一方、袁紹は群雄、公孫瓚の攻略を進めつつ、張繡や呂布を利用して曹操軍を疲弊させる構えを見せていた。

呂布の最期(第11巻~第12巻)

曹操の兵を預かる劉備は、呂布軍の猛将、張遼の猛攻に窮して降参し、呂布の拠点、下邳城の牢獄に囚われてしまう。これを受けて、因縁の相手である賈詡を退けた曹操も下邳城の攻略に着手。対する陳宮は布陣を終えたばかりの曹操軍を急襲せんと企んでいたが、曹操と内通する陳珪(ちんけい)、陳登(ちんとう)の謀により、籠城が採用されてしまう。案の定、呂布軍の形勢不利となるが、呂布の神出鬼没の攻撃により、冬の訪れまで粘ることに成功する。しかし、勝利を確信した呂布軍の勝ち鬨を嘲笑うように、荀攸の考案した水攻めが炸裂する。これをきっかけに呂布軍は大敗を喫し、混乱に乗じて獄を脱した劉備も曹操へ投降。戦いを制した曹操は軍師の時代の到来を宣言し、呂布と猛将、高順(こうじゅん)を処刑する。また、仕官の誘いを拒んだ陳宮を処刑し、張遼を幕下に迎えた。一方、袁紹は公孫瓚を撃破し、四州の覇者となっていた。

曹操暗殺計画(第12巻~第13巻)

左将軍に抜擢された劉備は、劉協より曹操を誅殺すべしとの密勅を授かった。実行を思い悩む劉備の意に反してお膳立ては進み、剣舞と称して曹操を斬る機会が設けられる。しかし、劉備は結果的に密勅を反故にしてしまい、逃げるように袁術討伐の任につく。密勅の存在が明るみに出ると、曹操は劉協に謁見してわだかまりを解き、劉協を唆(そそのか)した車騎将軍の董承らを断罪。劉協は曹操に禅譲の意思を示したが、曹操はあくまでも臣の筆頭として天子を奉ると宣言し、禅譲を断ってしまう。一方、袁術病死の報を受けて下邳城へ転身した劉備は、自身を慕う徐州の民に背中を押され、劉備の捕捉を命じられていた徐州の刺史、車冑(しゃちゅう)を殺害し、曹操との訣別を宣言する。

宣戦布告と宣戦誣告(第13巻)

舟遊びと称して股肱を招集した曹操は黄河を渡り、わずか6騎で袁紹軍の拠点、黎陽に潜入。そして、袁紹配下の猛将、顔良(がんりょう)を介して、袁紹に宣戦布告を行った。これを受けて、袁紹は配下の陳琳に宣戦誣告と称する挑発的な檄文を書かせて、曹操への返事とした。開戦の機運が高まる中、かつて宛城で曹操を破った賈詡と張繡が不遜にも曹操へ投降を申し出る。曹操はこれを受諾すると、自ら兵を率いて徐州を攻撃。劉備の長子の劉冀を人質として利用し、関羽を客将へ迎えることに成功する。一方、妻子を見捨てて逃亡した劉備は、袁紹の本拠地である冀州へと落ち延びていた。

白馬津の戦い(第13巻~第14巻)

先陣を任された劉備は、顔良と共に黄河の重要渡河点である白馬津の攻略に臨み、守将の劉延(りゅうえん)を追い詰める。しかし、防衛に現れた獣面の将軍の巧みな用兵により、戦局は一変する。劉備は獣面の将軍が関羽だと気づき前線に躍り出るが、関羽は構わず顔良を討ち取ってしまう。やがて、関羽から指揮を引き継いだ張遼の攻撃により、顔良軍は壊滅。張飛は堪らず、劉備を抱えて戦場から離脱する。ほどなくして、袁紹の本隊も白馬津へ到達するが、水面に浮かぶ自軍の屍に阻まれ、接岸すらできなかった。曹操は敢えて姿を晒して袁紹を挑発すると、白馬津を放棄して揚々と撤退。怒り心頭の袁紹が放った猛将、文醜(ぶんしゅう)を罠に嵌(は)め、討ち取ることに成功する。

王者の進軍(第14巻)

郭嘉は陽動を繰り返して袁紹を翻弄し、最終的に官渡で決着をつけようと考えていた。しかし、曹操の判断で一息に官渡まで退くことが決定する。これは戦の要となる渡河点の完全放棄を意味しており、袁紹に戦いの主導権をゆずり渡すも同義であった。曹操軍が引き上げると、袁紹は王者の進軍と称した一斉行軍を開始。華美な軍装の大軍を歌舞音曲に乗せてじわじわ進め、東西100里を越える大規模な野戦陣地を構築する。対する曹操は軍師を書記官に、将軍を兵卒に格下げして応戦させるも、袁紹軍が防衛線にせまると投降兵が相次ぎ、自陣に火を放って袁紹軍に取り入ろうとする輩まで現れる始末だった。兵卒に落とされた元将軍たちは止むを得ず、残存兵力をまとめて本陣へ撤退。曹操は危機に瀕しても指揮を執ろうとせず、生き延びようとする兵卒の本能を引き出せと言い放ち、許都へ帰還してしまう。この時、袁紹軍の兵力45万に対して、曹操軍の兵力は3万にも満たなかった。

許都を狙う者たち(第15巻)

元黄巾党の劉辟(りゅうへき)が汝南にて曹操に牙を剝くと、袁紹は劉備に兵を与えて援軍とすることを思いつく。劉備は関羽と道を違えた悲しみで酒浸りとなっていたが、八年前に出会った豪傑、趙雲との再会を経て己を取り戻し、汝南へと向かった。江南の孫策も許都侵攻の機を窺っていたが、道士の于吉(うきつ)の弟子に襲われ、出鼻を挫かれてしまう。周瑜は曹操軍との戦力差と孫策の体調を考慮し作戦中止を主張するも、孫策は侵攻を断行。しかし、進軍の途上で死期を悟り、弟の孫権と周瑜に志を託して絶命する。一方、官渡を守る曹操軍の兵卒たちは膠着を破れず、ジリ貧に陥っていた。痺れを切らした曹操幕下の曹仁は独断で許都へ戻り、曹操へ騎兵を与えて欲しいと直談判する。兵器開発を進めていた曹操は曹仁の焦りから、戦が動く頃合いが近づいていることを悟るのだった。その頃、袁紹軍は黄河の氾濫により兵糧の多くを失い、対応に追われていた。

官渡大戦(第15巻~第16巻)

曹操は官渡城砦に移動し、かつての軍師たちや、将軍たちを元の立場へ復帰させる。死闘を経て逞(たくま)しく成長した兵卒たちは、寝食を共にした仲間の真の姿を目の当りにして、大いに士気を高めた。やがて新兵器の霹靂車を主軸に、曹操軍の反撃が始まる。対する袁紹は自ら城砦の包囲に加わって味方の混乱を収拾する。さらに霹靂車の射程外に滑走路を構築し、衝車を滑走させて一息に城門を破ろうと動き始める。これを受けて、曹操は青州兵の動員を決定。戦の脈所を見極めるべく、賈詡と寡兵を伴って斥候へ出立する。曹操を罠に嵌めようと企む袁紹軍の軍師、許攸(きょゆう)も同行したが、許攸の策は曹操の気まぐれと賈詡の策略により瓦解。曹操は淳于瓊(じゅんうけい)の守る烏巣の巨大兵糧庫を陥落させることに成功する。やがて袁紹軍は戦闘の継続が不可能となり、天下分け目の大戦は曹操軍の完全勝利で幕を閉じた。

三顧の礼(第17巻)

荊州へ落ち延びた劉備は、劉表の世話になるうちに腑抜けと化していた。曹操のもとを去った関羽は張飛と反目しつつも、劉備の再起を信じて人材の諮問や練兵に奔走。やがて智慧者の徐庶から異形の賢者、諸葛亮の存在を聞き、劉備を桃源郷へと誘う。しかし、劉備は対面するなりいきり勃(た)った股座(またぐら)を晒す諸葛亮を受け入れることができず、彼の庵から逃亡してしまう。関羽に引き止められた劉備は再び庵の門戸を叩くも、諸葛亮の語る天下三分の思想に激昂し、諸葛亮を気絶させてしまう。またもや庵に背を向ける劉備だったが、今度は自らの意思で踏み止まり、三たび諸葛亮の庵を訪ねる。諸葛亮は依然として気絶しており、対話は望めなかったが、劉備は取りまきの童子から天下三分の概略を聞き及び、その策に希望を見出すようになった。

建安文学の芽吹き(第18巻)

206年、北方四州を平定して鄴へと帰還した曹操は、自らの子、曹植の詩才に気づき、許都へ送り込む。御前の酒宴に参加した曹植は孔子(こうし)の子孫、孔融の詩歌に触発され、即興の詩を披露する。それは曹植が横恋慕する兄嫁の甄姚を思った作品で、列席者の脳裏に妖艶な女神を想像させる名文だった。しかし、孔融は曹植の作品と認めないばかりか、俗情を晒す席ではないと斬り捨てる。陳琳が孔融に意を唱えると、太鼓を構えた曹操が乱入して来る。文人たちの弁舌は徐々に熱を帯び、曹植も論戦に参加する。曹操が楽隊を煽り、あらゆる文化、学術、芸術、才能は儒の呪縛から解き放たれるべきだと宣言すると、天子すら玉座を降りて曹操の囃しに身を委ねた。のちの世に建安文学と称される気風が芽吹く瞬間だった。

曹操の北伐(第18巻~第19巻)

207年の春、曹操は郭嘉の提案を受け入れ、万里の長城を越えての北伐を開始する。すでに中原の覇者として君臨していた曹操の北伐は弛緩した曹操軍に緊張を齎(もたら)した時点で成果があったが、郭嘉はその何倍もの戦果を求めて、軍略を練り続けていた。やがて郭嘉は張遼を主軸とした作戦で、烏丸族を率いる異才の指揮官、蹋頓を撃破する。蹋頓の敗北を受けて、烏丸族のもとに身を寄せていた袁紹の次男の袁煕(えんき)、三男の袁尚(えんしょう)は遼東郡の公孫康(こうそんこう)を頼る。しかし、公孫康は曹操を恐れて袁煕、袁尚を処刑する。袁家の命脈はここに絶たれるのだった。その後、鮮卑族を始めとする北方民族が曹操に恭順の意を示したことで北伐は一旦の終結を見るが、立役者の郭嘉は病没してしまう。同年6月、曹操は三公を凌ぐ官吏の最高位、丞相に就任する。

劉備の煩悶(第19巻)

父の仇である黄祖(こうそ)を討った孫権は勢いに乗っていたが、家臣のあいだでは最高顧問の張昭を中心として、曹操との同盟を望む声が高まっていた。それが事実上の降伏を意味すると理解していた周瑜は、降伏論者の発言を牽制すると、未だに底の知れない劉備の動向を探るべく、魯粛を派遣する。一方、荊州では曹操の南征を嗅ぎつけた劉表の後継の劉琮(りゅうそう)が降伏を表明。降伏を拒んだ劉備は劉表の重臣だった蒯越(かいえつ)の言葉を頼りに、江陵にあるという軍需物資を求めて出奔する。しかし、劉備を慕ってあとを追う数十万の民が足枷となり、やがて曹操軍に追いつかれてしまう。追い込まれた劉備は魯粛の提案する孫権との同盟を受諾するが、ほどなくして諸葛亮の取りまきの女性に天下を這い回る寄生虫などと痛罵され、自己喪失に陥ってしまう。

長坂の戦い(第20巻~第21巻)

劉備を慕う民の群れは殿を担う張飛の活躍により、辛うじて瓦解を免れていた。楽進と夏侯惇を退けた張飛に対して、荀攸は精鋭騎馬隊の烏丸兵を放つも、張飛は獲物を目の前にした虎の如く勢いづき、手がつけられなくなってしまう。やがて張飛は、曹操が無言の内に放った問いに身ぶり手ぶりで応じると、橋を落として曹操軍の追撃を振り切った。一方、劉備の位置する行軍の先端には、張繡と賈詡の別働隊が送り込まれていた。劉備は危険を察するや否や、部下の馬を奪い逃亡。劉冀は脱兎の如く逃げ去る劉備に跳ね飛ばされ、劉備が人の心を超えた何かに動かされていることを悟る。その後も劉備は、なりふり構わぬ逃走を続け、指揮を任されていた徐庶が曹操軍に捕縛されてしまう。劉備の妻子を救おうと奮闘する劉冀も窮地に陥るが、間一髪で張繡を討ち取った趙雲が到着する。趙雲は劉備の息子の阿斗(あと)を懐に抱き、血路を拓くべく戦場を疾駆する。

劉備の覚醒(第21巻)

諸葛亮と合流した劉備は自分が生きているだけで乱世が深まることを認め、それすら自らの徳として受け入れることを決意する。これを受けて諸葛亮は劉備の天下人としての覚醒を悟り、正式に劉備に仕えることを誓った。漢津に到達した劉備は先回りさせていた関羽の船へ乗り込み、「自らの居る場所がすでに天下」「天下は三分された」「緒戦は劉備の勝利」と主張。困惑する諸将を気にも留めず、意気揚々と引き上げていった。一方、荊州を手に入れた曹操は江陵で内政を進める傍ら、意に沿わぬ放言を繰り返していた孔融の処断に着手する。荀彧は孔融を斬れば儒者を敵に回すと諫(いさ)めたが、曹操は国家の営みを阻害するならば儒は障害であると断言。208年、孔融は丞相不敬罪で処刑された。

孫権、開戦を決意(第22巻)

江陵の軍需物資を確保した曹操の幕下では、江南攻略を主題に白熱の議論が繰り広げられていた。曹操は論戦に耳を傾けるうちに、長江を知らずに中華の政は語れないとの結論に至り、文官を連れての河下りを思いつく。それは長江を下って未知なる大海に繰り出してから北上し、黄河を遡って鄴に戻るという壮大な計画だった。一方、劉備との同盟を取りつけた魯粛は周瑜、諸葛亮と共に開戦の裁可を得るべく会合に臨む。抗戦派の将兵の雄叫び、諸葛亮の取りまきの老人が持ち込んだ脅迫文をもってしても張昭を翻意させるには至らなかったが、最終決定権を持つ孫権は抗戦を決断。やがて周瑜の号令のもと、水軍が長江へ出帆する。そこには開戦に先駆けて孫権が将として推薦した呂蒙、甘寧、陳武、蒋欽、凌統、周秦、徐盛、潘璋ら八頭の獣の姿もあった。

曹操、死線を彷徨(さまよ)う(第22巻~第24巻)

江陵を発った曹操は船旅の最中、蛮族から献上された川魚を口にして食中毒を起こす。曹操が症状に苦しむ中、甘寧が濃霧に乗じて曹操軍の旗艦へ侵入。曹操の水軍を担う蔡瑁(さいぼう)を殺害したうえで、工作により旗艦を沈没に至らしめる。その後の攻撃で曹操軍の船団は23隻が沈没、35隻が航行不能に陥り、曹操の行方すらつかめなくなってしまう。当の曹操は許褚に担がれて旗艦を脱出し、近辺の村で身を休めていたが、意識は混濁し、予断を許さぬ状況が続いていた。そこに諸葛亮が現れ、かつて劉備に行ったような精神的な追い込みを仕掛けるも、曹操には通用しなかった。やがて快復した曹操は諸葛亮に一瞥もくれずに村を去り、荀攸の築いた烏林の陣営に帰還する。曹操軍が奇襲を受けてから、12日が過ぎていた。

赤壁の戦い(第24巻)

曹操の生存が明らかになると、孫権配下の宿将、黄蓋は曹操の陣営に火攻を仕掛けるべく、偽りの投降を実施する。黄蓋と対面した曹操はきな臭いものを感じるが、高所より様子を窺う諸葛亮の働き掛けにより、黄蓋の部下が持つ火打ち石が出し抜けに発火。これを皮切りに火船が次々と曹操の船団に突撃し、周瑜の率いる水軍も一斉攻撃を開始する。諸葛亮も曹操への憎悪を剝き出しに羽扇を振り回し、そのたびに曹操の陣営に大規模な被害が発生する。いつしか諸葛亮の身体は、筋肉が不自然に隆起した異形へと変貌していた。諸葛亮は退却する曹操に向けて渾身の投石を試みるも、曹操に「くどい」と言い放たれた途端に脱力。曹操が続けざまに放った言葉は、浮世離れした諸葛亮の存在を否定するに等しい内容で、これを受けて諸葛亮の身体は従来よりも人間らしいものに変貌する。こうして、赤壁の戦いは曹操の敗北と諸葛亮の人間化をもって幕を閉じた。

曹操の南進(第25巻)

209年春、曹操は孫権との戦いを見据えて水軍の調練を進めていた。同年7月には程昱と謀臣の劉曄を引き連れ、孫権軍10万の100日にも及ぶ猛攻を耐え凌(しの)いだ合肥城を視察。空城をわずか8年で一大防衛都市に成長させながら亡くなってしまった揚州刺史、劉馥の手腕を絶賛する。一方、程昱は温恢や蔣済などの若い人材が劉馥を見本に成長していることを悟り、引退を申し出るのだった。同年9月、南を目指す曹操は徐州大虐殺から落ち延びた飢民の凄惨な暮らしを目の当りにして、彼らが従わないことを承知で、中原への強制移住を布告する。なおも南進を続ける曹操は、股肱(ここう)の将、夏侯淵に廬江の豪族、雷緒(らいしょ)の生け捕りを命じると共に、将軍を束ねる司令官となるべき人材に必要な心構えを伝授する。夏侯淵は雷緒を打倒し、将帥としての道を歩み始める。

劉備の政略結婚(第25巻~第26巻)

209年の冬、荊州の牧となった劉備に、孫権の妹、燁夏との縁談が齎される。夫人を亡くしていた劉備は、下心から縁談を快諾。孫権の私邸へ急行し、懇談と称した腹の探り合いに臨席する。孫権は配下から劉備の抑留を献策されていたが、誰もが荊州の主権を意識した発言を繰り返す中、劉備だけは周瑜の境遇を慮(おもんぱか)って涙を流していたことを理由に、劉備が燁夏を連れて帰ることを許すのだった。やがて孫権は曹仁を破って凱旋を遂げた周瑜に養生を勧めるが、周瑜は休暇を拒否して西方への進軍を提案する。これは各勢力と連携して、曹操に多方面攻撃を仕掛ける遠大な軍略の一環だった。しかし、孫権と別れた直後に周瑜の身体は限界を迎えてしまい、後任に魯粛を指名して絶命する。

求賢令(第26巻~第27巻)

210年正月、曹操は荀彧と雪玉で戯れつつ、彼の推挙する人材に悪党がいない点を指摘する。荀彧の返答は清々しいまでに清く、曹操は荀彧にすべての人材を推挙させれば、漢王朝400年の汚濁さえ雪(そそ)げると夢想するのだった。ほどなくして、曹操は儒者としても高名な名医の華佗の診療を受け、その才を絶賛する。しかし、華佗が医術の才に誉を感じていないことを知ると、国家通念と化していた儒の精神が人の才を曇らせているとして、儒に頼らない人材登用制度、求賢令を考案する。儒者である荀彧は求賢令の取り下げを求めるが、曹操は荀彧の賛同を得ずして求賢令を発布。やがて曹操と華佗の関係にも亀裂が生じ、曹操は華佗を獄死させてしまう。

潼関の戦い(第27巻~第28巻)

211年の夏、曹操の西方遠征を受けて、馬超を中心とする関中の涼州軍閥が乱を起こし、潼関にて曹操軍と激突する。馬超は盟友の馬玩(ばがん)と連れ立って渡河を進めていた曹操を襲撃。曹操は馬超の有用性を見極めようとするも負傷し、許褚の活躍で辛くも河岸へと撤退する。その後、渭水に陣を設けた曹操は賈詡の考案した離間の計を仕掛けるべく、軍閥の大物である韓遂と会見する。内容は30年前の思い出話だったが、軍閥の面々は曹操と韓遂のあいだで密約が交わされたと思い込み、仲違いを始めた。こうして連携を欠いた軍閥は総崩れとなり、曹操を目掛けて突貫した馬超も窮地に陥ってしまう。猛将、龐悳らの活躍により馬超は生還したが、馬玩は殺到する曹操軍を引き受け、壮絶な戦死を遂げた。同年10月、馬超と韓遂を涼州の奥地へ追いやった曹操は夏侯淵に掃討を任せ、鄴へと帰還。212年5月、曹操は馬超の一族、韓遂の一族を詔勅により処刑した。

荀彧の死(第28巻~第29巻)

許都では、曹操に国公の爵位を与えようとする動きが活発化していた。発起人の董昭(とうしょう)は国家の中枢を担う荀彧の説得に動くが、荀彧は曹操の30年に及ぶ戦いは過ぎた地位や天下簒奪(さんだつ)を狙って行われたものではないとして、賛同を拒否してしまう。後日、曹操と面会した荀彧は曹操が帝位を奪うことはないと確信するが、次代を担う曹操の子、曹丕が同じ境地に至れるとは思えず、それを意識すると胸の痛みに襲われた。やがて心身を病んだ荀彧は寿春にて意識を失い、療養を余儀なくされる。これを受けて、曹操は荀彧を元気づけようと、食盒(しょくごう)に丸めた白紙を入れて送りつける。それは、かつて戯れた雪玉にも似ていたが、荀彧は「お前に贈るものなどない」「君臣の関係を白紙にする」「漢王朝を終わらせる」などネガティブにとらえてしまい、丸薬を過剰摂取して眠るように息を引き取った。

劉備の入蜀と曹操の魏公就任(第29巻)

211年、益州の牧、劉璋は100日にわたる宴で劉備を歓待し、五斗米道の教祖、張魯の討伐を依頼する。しかし、劉備は軍を動かすことなく1年もの月日をやり過ごし、曹操の孫権討伐に呼応するようなタイミングで、劉璋へ軍を向けた。軍師の龐統を失いながらも雒城まで攻め寄せた劉備は、流浪の身となっていた馬超を従え、劉璋の拠点、成都を包囲する。214年5月には劉備軍の古株、簡雍が劉璋を説き伏せ、無血開城を成し遂げる。この戦いを通して、劉備は老将の黄忠、荒武者の魏延(ぎえん)、智謀の士、法正など頼もしい人材を獲得した。一方、劉備が蜀を得ようと躍起になっている頃、長江西岸まで攻め寄せていた曹操は一時撤退し、魏公の位を得ていた。魏公国の誕生である。

曹一族の台頭(第30巻)

214年、荀攸が病没する。曹操は葬儀の場で司馬懿を見つけ、今後は従軍して隠していた軍才を発揮するように命じる。曹操の養子の何晏は至弱の戦を知る軍師を次々と失う曹操を間近に見て、その瞳から輝きが失われていることに気づくのだった。同年、宮中に秘されていた密書が宦官(かんがん)の手で掘り起こされる。それは官渡大戦の直前に伏皇后(ふくこうごう)が記したもので、曹操の誅殺をうながす内容が含まれていた。劉曄は曹操の娘の曹節が劉協の寵愛を受けている状況を踏まえ、要らぬ風説を避けるためにも密書を葬るべしと提言する。しかし、曹操はあくまでも司法に則って対処すると宣言。やがて伏皇后は地位を剝奪され、暴室にて獄死。一〇〇余人が連座する事態となる。翌年、曹節は皇后となった。

張魯征討(第30巻)

劉備と孫権が荊州の所有権を巡り仲違いしている頃、曹操は張魯の討伐に乗り出していた。215年7月には夏侯惇と許褚が敵陣に迷い込みながらも陥落せしめ、陽平関を獲得。巴中へと逃亡した張魯も曹操に降伏する。同年12月、曹操は夏侯淵に漢中の防衛を一任。本隊を見送る形となった夏侯淵は夏侯惇と魏国で盃を交わす約束をする。また、曹操は馬超の兵を引き継いだ龐悳、韓遂の配下だった成公英(せいこうえい)を従え、軍団をより盤石なものとする。さらに在野の賢人、石徳林(せきとくりん)に荀彧の面影を見出すも、質素な生活を尊ぶ彼の信念を尊重し、別れを告げた。

魏王就任と儒の弾圧(第30巻)

216年2月、鄴へ帰還した曹操は、魏王への就任を求める内容の詔勅を受け取り嘆息する。同年5月、魏王となった曹操は許都にて劉協に謁見。これより上の位には登らないと強く主張する一方で、求賢令を無視して人材を推挙していた儒者の崔琰を髠刑(こんけい)に処すなど、儒者との対立を深めていく。さらに何晏の才能に目をつけ、曹操の寿命が尽きる前に論語を読み解くよう命じるのだった。

合肥の戦い(第30巻~第31巻)

216年10月、南征へ乗り出した曹操は張遼と轡(くつわ)を並べ、未だに血の跡が残る合肥の戦場跡を視察する。およそ1年前に行われた孫権軍との激闘において、張遼は孫権を追い詰めていた。しかし、孫権は張遼の渾身の一撃を自ら受け止め、奇跡的な逃走を成功させたという。張遼の言葉を頼りに激戦に思いを馳せる曹操の瞳には、久しく失われていた往年の輝きが宿っていた。

濡須の戦い(第31巻)

217年の正月、曹操は20万もの大軍を居巣へ動員し、2月には濡須へと軍を進めていた。両陣営で疫病が猛威を振るう中、甘寧がわずかな手勢と共に曹操の駐屯地を奇襲し、曹操の喉元までせまったうえで、曹操軍の要である駿馬100頭を奪い去る。やがて勝機を見出した呂蒙は一斉攻撃を提案するが、陸口を任されていた宿将、程普(ていふ)の病死、魯粛の危篤といった急報が齎されたことで、孫権が曹操への降伏を決断する。これを受けて曹操は鄴へと撤退するが、孫権への警戒を緩めることはなく、夏侯惇と曹仁に大軍を預ける念の入れようだった。それから間もなく、曹操は曹丕を太子に指名する。

定軍山の戦い(第31巻~第33巻)

劉備は反曹操の象徴として、ついに天下獲りに動き出す。その傍らには諸葛亮、法正という優れた軍師に加え、張飛、趙雲、馬超、黄忠など綺羅星(きらぼし)の如き勇将が居並び、気力に満ちていた。217年の冬、劉備が漢中に進軍すると、曹操は曹洪を中心とする部隊を夏侯淵の支援に派遣する。曹洪は左腕を失いながらも奮戦し、劉備軍の呉蘭(ごらん)と雷銅(らいどう)を斬る。夏侯淵は精鋭を率いて劉備を追い詰めるも、張飛と馬超に阻まれ、討ち取るには至らなかった。その後、陽平関を占拠した劉備は定軍山を攻撃。夏侯淵は単騎駆けで劉備にせまるも、諸葛亮の合図で放たれた大量の矢に貫かれ、渾身の一撃を劉備に振り払われてしまう。間もなく夏侯淵は黄忠の刃を受け、魏国で盃を交わす約束をはたすことなく絶命する。夏侯淵戦死の報は四海を巡り、219年の空に四天王と呼ばれた宿将たちの慟哭が谺する。

漢中王の誕生(第33巻~第34巻)

漢中を舞台に曹操と法正の知恵比べが始まった。法正の頭脳は冴えていたが、睡眠すら削って曹操と軍略を競ったはてに、心身に限界を迎えてしまう。指揮を引き継いだ諸葛亮は曹操の首よりも価値のある勝利を得ると豪語するも、いざ曹操の姿を認めると憎悪に支配され、曹操を嬲(なぶ)り殺さんといきり立つ有様だった。劉備との殺し合いを熱望する曹操は挑発を繰り返したが、劉備は猛る諸葛亮を押し止め、全面衝突を回避する。やがて曹操は蔣済の諫言(かんげん)を聞き入れ、漢中からの全軍撤退を決意する。撤退の途上、劉備が漢中王を名乗ったこと、荊州の関羽が北上を始めたことが明らかとなり、曹操軍は強い衝撃を受ける。

樊城の戦いと魏諷の乱(第34巻~第35巻)

樊城を攻める関羽は瞬く間に守将、曹仁の副将、牛金(ぎゅうきん)を斬り、樊城を包囲した。さらに曹仁の救援に現れた于禁を降し、龐悳と成公何(せいこうか)を殺害する。関羽優勢の報は全土に潜む反曹勢力を鼓舞する結果となり、各地で叛乱が勃発した。これに呼応して、劉備の本隊も長安を目指して進軍する。一方、曹仁の救援を任務とする名将、徐晃は逆転の策を成功に導くべく、関羽に一騎討ちを挑む。その甲斐あって樊城内外の連携は滞りなく進み、新たな兵士と物資を得た樊城は息を吹き返した。してやられた関羽は襄陽に籠城して劉備の進軍を支援する構えを見せていたが、南方に位置する関羽の二大拠点、公安と江陵が陥落したとの情報が齎されると、考えを改めて南へと急行した。その頃、曹操の領内では魏諷が挙兵し、許都と鄴を制圧するべく動いていたが、劉曄や曹丕の働きによって鎮圧に至った。

関羽の最期(第36巻)

麦城へ立ち寄った関羽は周辺を俯瞰し、すでに包囲されていることを悟る。そんな折、孫権より魏の軍勢と戦を続けるならば支援を行うとの申し出が齎されるが、関羽はこれを拒み、孫権の親族でもある武将の孫皎を斬って南へ猛進する。しかし、江陵まで20数里の位置で落石の罠に遭い、本隊から孤立してしまう。関羽は奮戦を続けるが、獣と似た気配を持つ怪人、阿トウの対応を誤り、組みつかれる。戦いのはてに、関羽は孫権の手で首を刎(は)ねられ、その生涯に幕を閉じた。

曹操の旅立ち(第36巻)

220年、曹操は老いによって睡眠の周期が乱れ、馬に乗ることもできなくなっていた。そんな曹操のもとに、関羽の首が届く。首を検分した曹操は関羽を祀ると宣言し、周囲の動揺を余所に関羽の立ち姿を模した巨大な木像の工作を手配する。やがて関羽の木像が完成すると、曹操は神となった関羽に「義武聖君」の名を与えるのだった。やがて、嬉々として遺書の執筆に勤しんでいた曹操にも最期の時が訪れる。曹操の死期を感じ取った譙の長老は亀とは思えぬ俊敏さで地を駆け、洛陽へと急ぐのだった。

登場人物・キャラクター

曹操 (そうそう)

字(あざな)は孟徳。幼名は阿瞞。女性のように艶があると評された美丈夫で、目の下に睫毛をデフォルメしたような「すじ」がある。曹騰の孫として満ち足りた幼少期を過ごし、武芸や兵法、詩歌など多分野に秀でた人物に成長。放蕩三昧の青年期を経て、北部尉や頓丘県令を歴任した。賊軍討伐で頭角を現すと、常識に縛られない柔軟な思考を武器に乱世を立ち回り、天子奉戴を経て中原を制覇し、やがて魏王として天下の中枢に君臨する。その躍進は政(まつりごと)を見据えた戦運びによって齎されたもので、幕下の人間にも政の重要性を頻(しき)りに語っている。常人を超越した才覚から「人間の傑作」と評される一方で、徐州で行った虐殺の影響が後年まで尾を引き、残酷で傲慢な人物という悪評が終生にわたってつきまとうことになる。また、16歳にして七人もの妾を囲うなど好色で、宛城の戦いでは鄒氏との交わりに溺れ、あわや討死の状況にまで追い込まれている。なお、若いうちは天意や天命などの言葉を多用したが、次第に天より人を意識するように変化し、人材を渇望するようになった。後年には文化の発展や人材の登用を儒の精神が阻んでいると考えるようになり、魏国内に跋扈(ばっこ)する儒者と反目するようになる。実在の人物、曹操がモデル。

夏侯 惇 (かこう とん)

字は元譲。高祖、劉邦(りゅうほう)の重臣、夏侯嬰(かこうえい)の末裔で、旗揚げから曹操を支える四天王の筆頭の男性。身内からは「惇兄」と呼ばれている。曹操に対しては裁可は首で負うとの覚悟を持って接しており、字で呼び捨てにすることもしばしば。諫言や苦言を呈することも多く、曹操から「むさい母親」と揶揄されているが、曹操が一度発した命令ならば、どんなに不可解、不愉快な内容でも従うと決意している。また、常人離れした胆力の持ち主で、董卓配下、徐栄(じょえい)の軍との戦いでは、射抜かれた夏侯惇自身の左目を飲み込んで一喝し、味方を鼓舞している。以降は眼帯を身につけ、厳つい顔がより凶悪に変貌し、感情が昂ぶると眼窩(がんか)から血を噴き出すようになった。隻眼となってからも武功華々しく、董卓軍の猛将、華雄(かゆう)を一騎討ちで撃破したほか、長坂では張飛と楽進の一騎討ちに乱入して楽進を救出する。張魯征討では敵陣に迷い込みながらも陽平関を制圧し、「迷子の惇将軍」という珍称号を得た。また、官渡で曹操軍の全武将が兵卒に落とされた際には、兵卒としての戦い方を貫き、兵卒という存在の本質に触れて曹操から絶賛されている。のちに曹操から天下で最も慕われている将軍と評された。実在の人物、夏侯惇がモデル。

荀彧 (じゅんいく)

字は文若。曹操幕下の軍師を務める男性。名門出身の清廉潔白な儒者で、少年時代に軍師を志望して曹家邸宅を訪問し、黄巾の乱から軍師として活躍した。乱が治まると見聞を広める旅へと出立。旅先では西域の術者から王佐の才を指摘されたほか、異国の間者を手懐け、曹操のもとに配下として送っている。譙に帰還する頃には前歯が抜け落ち、別人のような風貌に変貌した。この頃から剽軽(ひょうきん)で気さくな面が表出し、「あいやー」が口癖となった。しかし、知略は微塵(みじん)も衰えず、屯田制度を整えて戦の基本形を構築し、防衛戦の指揮においても活躍している。やがて侍中と尚書令を任され、劉協に近しい位置で政に関与するように変化。曹操から安心して遠征できるのは荀彧のお陰と称賛された。若年時から曹操こそ大陸に新たな現実を創造する者だと信じ続け、長じてからも雪合戦に興じるなど、長い蜜月を感じさせた。しかし、儒の弾圧や曹操の位を巡る発議が活発化すると、周囲と意見を違え、精神と心臓を病んでしまう。ついには自ら喉を突くほど思いつめ、212年に寿春にて死亡。曹操が荀彧を死に追いやったとの噂も流れたが、曹操は後年に荀彧を心腹の友と表現し、その死を惜しんでいる。実在の人物、荀彧がモデル。

劉備 (りゅうび)

字は玄徳。天下を狙う群雄の一人。幽州涿県楼桑村出身の男性で、背丈は七尺五寸。膝下に届くほど腕が長く、自らの福耳を触る癖がある。中山靖王、劉勝(りゅうしょう)の末裔を自称し、自分はいつか皇帝になると盲信している。民の笑顔に喜びを感じる快男児だが、好色で感情の起伏が激しく、人目を憚(はばか)らず号泣することも多い。また、べらんめえ口調で、感情が昂ると「じゃかあしい」と一喝する。藁細工を売りながら俠客・鬼嚢として活動していたが、世直しを志す関羽、張飛との出会いを経て義勇兵に志願。公孫瓚、陶謙、呂布、曹操、袁紹、劉表の陣営を渡り歩くうちに、「流浪の大器」「仁徳の英雄」と持て囃されるようになる。劉表の庇護下にて天下を窺う気概を失ってしまうが、諸葛亮の語る天下三分に希望を見出し、煩悶のはてに天下人として覚醒する。そして、曹操から最大の敵と認められるようになった。やがて蜀の地を得ると漢中に攻め寄せ、夏侯淵を撃破。後続の曹操軍すら退け、漢中王を名乗った。なお、劉備の人気は曹操の悪名に比例して高まったものであり、郭嘉は「劉備とは曹操と対を為(な)す現象である」と説明した。当人も放浪時代に「劉備」が反曹操の象徴であることを自覚している。実在の人物、劉備がモデル。

関羽 (かんう)

字は雲長。河東の俠客、長生として勇名を馳せた男性。肌は赤銅色で、長い髭を蓄えている。豪胆で理性的だが、独断専行が多く、周囲にも高潔さを強いるなどの悪癖を抱えている。俠の結社、美髯団の頭目を務めていたが、劉備という「天下の器」に惚れ込み、兄と仰ぐようになった。得物は装飾が施された青龍刀。その扱いは達人の域に達し、呂布とも互角に打ち合っている。兵を率いれば呂布にも勝ると評されており、曹操の客将時代には白馬津を制圧し、袁紹軍の猛将、顔良(がんりょう)を討ち取っている。また、為政者としても活動し、裏社会の人間から意見を募って司空府を震撼させた。劉備麾下に帰還してからは遊興を断絶して軍師の獲得に奔走。その態度を当てつけと感じた義弟の張飛の暴走で義兄弟の絆に亀裂が生じているが、曹操ではなく劉備と天下を目指したいと訴え、雪解けに至った。赤壁の戦いのあと、劉備が荊州を離れると留守を任され、長きにわたって天下を睥睨した。のちに劉備が漢中王を名乗ると、長安への行軍を支援するべく樊城を攻撃。これが、天下をゆるがす大騒動へと発展する。実在の人物、関羽がモデル。

張飛 (ちょうひ)

字は益徳。涿県済佳村出身の男性。当初は無精髭だったが、のちにヤマアラシの如き虎髭を蓄える。酒と博打(ばくち)を好み、男気あふれる性格から俠の塊と評されている。兄と慕う関羽に従っていたが、関羽が劉備を兄と仰ぐようになったことで、劉備の義弟となってしまった。得物は波打った刃を持つ蛇矛。長坂では殿を担い、一騎討ちにおいて楽進に深手を負わせ、夏侯惇を圧倒している。その後、烏丸兵を前に天下無双の武人として覚醒し、屠(ほふ)った人馬を食らいつつ奮戦した。巴西では自らの豪勇で兵士を駆り立てるように統率し、張郃の軍を退けている。その豪傑ぶりは「万人の敵」「一世の虎臣」と謳われるほどだが、非常に喧嘩っ早く、身内と諍(いさか)いを起こすことも多い。下邳城を預かった際には口論の末に守将の曹豹(そうほう)を絞め殺し、呂布一派に城を奪われてしまった。また、馬超の取り澄ました顔が気に入らないとして喧嘩を売り、殴り合いに発展している。世間的にも直情径行型の武将と認識され、許褚からは猪にたとえられている。当人も兵法を軽んじる発言をしているが、六韜(りくとう)に通じるなど、意外な教養が備わっている。なお、講談の影響で民草からは「翼徳」と呼ばれている。実在の人物、張飛がモデル。

諸葛 亮 (しょかつ りょう)

字は孔明。名士、司馬徽(しばき)から「伏龍」と称された逸材の男性。大柄で瞳孔が三つあり、頭髪の大部分が淡色で、白い羽扇を愛用している。臆病で空気が読めず、常人とは会話すら成立しないが、その気になれば言葉だけで人を憤死させることもできる。また、軽く触れるだけで荒ぶる武将を鎮めたり、他者と精神を同化させたりすることも可能で、総じて絵空事のような男と称されている。森羅万象を言い当てると評されながら桃源郷で乱交に耽るばかりだったが、三顧の礼を受けて劉備に同行する。取りまきを介して劉備の覚醒をうながし、劉備と水魚の交わりならぬ「タレと饅頭の契り」を結んだ。赤壁の戦いの直前には天下三分を為すべく、捏造(ねつぞう)した曹操名義の脅迫文で孫権に開戦をうながしている。曹操が昏睡に陥った際には同化を試みるも失敗。曹操を憎み、異形と化して曹操軍に多大なる被害を齎した。しかし、曹操に訣別を告げられると変身が解け、重瞳(ちょうどう)が統合されて髪が黒くなり、以降は超常的な力を発揮することもなくなった。その後は内政官として劉備を支えたが、漢中では法正の後任として指揮を取り、曹操への憎悪を再燃させている。なお、諸葛瑾(しょかつきん)というロバに似た顔の兄が孫権に仕えている。実在の人物、諸葛亮がモデル。

董卓 (とうたく)

字は仲穎。騎馬民族を飼い馴らして天下を窺う北方の梟雄(きゅうゆう)。大柄な体型の辮髪(べんぱつ)の中年男性で、髭など体毛の一部を矢印型に剃り残した独特の風貌の持ち主。頭は切れるが残忍な性格で、意に沿わぬ者は如何なる立場の人間でも躊躇なく処刑してしまう。宴席にて人肉を振る舞う、天子の眼前で刺客を犯すなど、規格外の行動に出ることも多い。強弓の使い手でもあり、複数の矢を同時に放って塀を破壊するという荒技を披露している。もともとは異民族を討伐する立場にあったが、漢の大地を北の色に染めるという野心を抱き、袁紹の放った宦官誅滅の檄文に呼応して上洛。劉弁を廃帝に追い込み、新たな天子、劉協を傀儡(かいらい)に権力を独占する。その上で呂布を養子に迎えて洛陽を支配した。その後も三公を凌ぐ名誉職である太師の自称、洛陽への放火、長安への遷都など傍若無人な行いを繰り返すも、呂布の裏切りにより死亡する。董卓の親族は三族に至るまで皆殺しにされた。後年、賈詡は自分以外の涼州人は董卓に振り回されつつ、惹きつけられていたと述懐している。王欣太は、俳優のマーロン・ブランドをデザイン上のモデルにしたと語っている。実在の人物、董卓がモデル。

呂布 (りょふ)

字は奉先。天下を争う群雄の一人。ドレッドヘアの巨漢で、人体を容易ににぎり潰すほどの膂力(りょりょく)を誇る。思考は短絡的で吃音の傾向があり、窮地に立たされると孤独を求める性質をしている。また、天下とは龍の住処であるという独自の思想を持つ。執金吾・丁原(ていげん)の養子だったが、董卓に武人としての矜持(きょうじ)を刺激され、丁原を斬って董卓の養子となった。董卓軍においては最強の猛将として君臨し、右手に矛、左手に剣を携えて両手を掲げる独特の構えを取り、名馬、赤兎馬(せきとば)に跨(またが)って戦場を疾駆した。荀彧は呂布がいるだけで軍勢の強さが数倍になると評価している。反董卓連合との戦いでは単騎にて連合軍を足止めし、関羽と壮絶な一騎討ちを行った。のちに董卓の妃、貂蟬を見初め、彼女を奪うべく董卓を殺害。独立勢力となり、陳宮の頭脳を借りて乱世をかき乱した。この頃から武人として成長し、挑発にも動じない堂々たる将軍に変貌する。下邳の戦いでは張遼、高順(こうじゅん)を従え奮戦するも、水攻めを受けて敗北した。やがて許褚らに捕縛され、そのまま縊(くび)り殺された。曹操からは純一戦士、弟と呼んでいた劉備からは哀しい男と評された。実在の人物、呂布がモデル。

袁紹 (えんしょう)

字は本初。天下を争う群雄の一人。官職の最高位の太尉、司徒、司空を四世代続けて輩出した四世三公の名門、袁家の御曹司。家柄を武器に若くして出世し、濮陽県令、勃海太守などを歴任した。昔馴染みの曹操より格上との驕(おご)りが強く、黄巾の乱の際には曹操に軍団を斡旋するなどの世話を焼いた。宮中の腐敗にあたっては宦官誅滅の旗手となるも、董卓を招き入れたことで洛陽を荒廃させてしまう。その後、反董卓連合の盟主となるも、董卓を討つことはできなかった。群雄割拠の時代を迎えると、公孫瓚を倒して四州を制覇し、曹操との決戦に臨んだ。前哨戦から二枚看板の猛将、文醜(ぶんしゅう)、顔良(がんりょう)を投入するなど万全の態勢を敷くも、烏巣の食糧基地の陥落により大敗を喫し、歴史の表舞台から姿を消した。なお、若い頃は精悍だったが、官渡大戦の終盤から肥満体となる。その姿に頭痛を誘発された曹操は醜悪と言い放った上で、袁紹は無意識のうちに体重200斤の美女だった母親に近づこうとしていると分析した。また、長男の袁譚(えんたん)、次男の袁煕(えんき)、三男の袁尚(えんしょう)は後継争いに終始して連携が取れず、後年に曹操の圧力が遠因となって死亡している。実在の人物、袁紹がモデル。

孫堅 (そんけん)

字は文台。天下を狙う群雄の一人。南方の海賊退治で名を馳せた男性で、派手で粗暴な振る舞いに反して、褒美を受け取る際に位ではなく金銭を要求するなど、合理的な思考の持ち主。中郎将、朱儁(しゅしゅん)の副官として黄巾党の討伐に参戦するも、担当区域の敵将の首では飽き足らず、さらなる手柄を求めて激戦区の穎川まで進撃。曹操と共に黄巾党最大の食糧砦を制圧するなど活躍した。采配を目の当りにした曹操は、自分とは別種の人間が天下を担うとすれば、孫堅のような男だと絶賛している。長沙の太守として反董卓連合にも参画しており、敵将の華雄(かゆう)の首を手土産に駆けつけた夏侯惇を客将として歓迎し、彼の助言を聞き入れて焦土と化した洛陽の復興に従事した。貢献により民衆からの声望を高めたばかりか、伝国の玉璽を入手している。董卓打倒を成した先には、曹操と覇を競うことを望んでいたが、劉表討伐の途上に刺客の矢を受けて落命。精強で知られた孫堅軍は同盟相手の袁術に取り込まれてしまった。なお、夏侯惇の分析によれば、孫堅軍の強さを支えていたものは、配下が次々と献策できる自由闊達な空気と、意見をまとめて一つの意志とする孫堅の器量である。実在の人物、孫堅がモデル。

袁術 (えんじゅつ)

字は公路。天下を争う群雄の一人。南陽太守を務めた男性で、性格は狭量にして尊大。従弟の袁紹とは仲が悪く、彼を奸物、妾の子と蔑んで対立している。袁紹が荊州を得るべく劉表を刺史に立てた際には、同盟相手の孫堅に荊州の奪回を命じて差し向けた。孫堅が死亡すると、子飼いの軍団を吸収した上で、九江郡や廬江郡の太守の座を餌に孫策を動かし、周辺の征討を推し進めた。やがて孫堅の軍団と引き換えに伝国の玉璽を獲得し、天子を僭称する。さらに後宮に二〇〇人もの女性を迎え入れるなど、奢侈に拍車を掛けるようになった。これにより、孫策から絶縁を突きつけられ、呂布と結ぶはずだった同盟も破談し、孤立を深めてしまう。しかし、たび重なる失敗を意に介すことなく、袁術の名前で詔勅を発し、聖戦と称した戦を開始。自ら兵を率いて許都へ攻め入るも、荀彧に翻弄され敗れ去った。その後、衰えた勢いを取り戻すことはできず、袁紹のもとに身を寄せる途上で血を吐いて死亡した。なお、当初は袁紹に似た顔立ちだったが、登場するごとに外見のデフォルメが進行し、最終的には類人猿の如き容貌に変貌する。実在の人物、袁術がモデル。

劉表 (りゅうひょう)

荊州の刺史。恰幅のいい熟年の男性で、あどけない顔立ちに反して腹黒い性格をしている。本性を現すと下がり眉と口髭がつりあがり、別人の如き人相に変貌する。清流派の儒者でもあり、戦火を免れた儒者を保護して学校を設置するなどして、荊州を学術都市として発展させた。10万もの兵力を抱えながら積極的な武力行使をしていなかったが、裏では曹操と袁紹が潰しあったあとの世を見据え、抱え込んだ儒者を両陣営に送り込むなどの工作を行っていた。また、孫堅を死に追いやった黄祖(こうそ)の後ろ盾でもあり、孫策の暗殺計画にも関与していた。劉備の声望を利用する目的で長年にわたって面倒を見ていたが、諸葛亮の言葉に気を乱されて病が悪化。劉備に後事を託す旨を遺言して死亡する。劉備は継承を固辞しているが、劉表を母親の次に世話になった人物と認め、出奔の直前には墓に縋(すが)って涙ながらに感謝と謝罪を述べている。なお、ほどなくして荊州の統治を継いだ劉表の次子、劉琮(りゅうそう)は曹操に降伏。重臣の蒯越(かいえつ)も曹操に降っているが、劉備に義理立てして江陵に溜め込んだ軍需物資の存在を示唆している。実在の人物、劉表がモデル。

許褚 (きょちょ)

曹操の守護を担う勇将の男性。身の丈八尺、腰回り五尺の巨漢で、額の中心に黒子があり、間延びした口調で話す。純粋な人柄で、若年時から月は15個あると信じ込んでおり、怪談や呪いの類を苦手としている。豚をいじめる童に注意するなど、優しさも持ち合わせているが、その気性と裏腹に、城門を独力で破壊するほどの人間離れした膂力を誇り、「虎痴」と渾名されている。また、無尽蔵の健啖家でもあり、傷の治りが早い。高い視力に加えて夜目も利き、書の読みすぎで目が悪くなった曹操の代わりに遠方を観察することもある。曹操との出会いは少年時代に遡り、鐘泥棒とのいざこざを通して、李烈との戦いに加勢した。その後、身内を食わせるため賊に身を落とすも、成長した曹操から億の民を食わせるために仕えよと誘われ、臣下となった。以来、曹操に侍り、趙雲、馬超、甘寧などの強敵から曹操を守り抜いているが、曹操の命を最優先に考えるあまり、曹操に苦言を呈することも少なくない。馬超戦に至っては、激情に駆られた曹操に当て身を食らわせ、無理やり生還させている。なお、人物を生き物にたとえるのが得意だが、曹操を何かにたとえようとすると、答えを出せず眠くなってしまう。実在の人物、許褚がモデル。

アニメ

蒼天航路

高級官僚の家系に生まれた曹操は、不自由のない境遇に育つも、自由奔放な暮らしを続ける。彼は文武両面に才覚を発揮し、青年将校として幾多の手柄を挙げ、やがて激動の時代を動かす群雄の1人となる。「乱世の姦雄」... 関連ページ:蒼天航路

書誌情報

蒼天航路 全18巻 講談社〈講談社漫画文庫〉 完結

第1巻

(2000年12月発行、 978-4062608725)

第2巻

(2000年12月発行、 978-4062608732)

第3巻

(2001年1月発行、 978-4062608909)

第4巻

(2001年1月発行、 978-4062608916)

第5巻

(2001年2月発行、 978-4062609210)

第6巻

(2001年2月発行、 978-4062609227)

第7巻

(2001年3月発行、 978-4062609401)

第8巻

(2001年3月発行、 978-4062609418)

第9巻

(2001年4月発行、 978-4062609616)

第10巻

(2001年4月発行、 978-4062609623)

第11巻

(2004年10月発行、 978-4063607987)

第12巻

(2004年11月発行、 978-4063608298)

第13巻

(2004年12月発行、 978-4063608601)

第14巻

(2005年1月発行、 978-4063608717)

第15巻

(2005年2月発行、 978-4063608922)

第16巻

(2005年3月発行、 978-4063609110)

第17巻

(2006年11月発行、 978-4063703689)

第18巻

(2006年12月発行、 978-4063703856)

蒼天航路 :極厚 全12巻 〈モーニングKCデラックス〉 完結

第1巻

(2009年5月発行、 978-4063757545)

第2巻

(2009年5月発行、 978-4063757552)

第3巻

(2009年6月発行、 978-4063757569)

第4巻

(2009年6月発行、 978-4063757576)

第5巻

(2009年7月発行、 978-4063757583)

第6巻

(2009年7月発行、 978-4063757590)

第7巻

(2009年8月発行、 978-4063757606)

第8巻

(2009年8月発行、 978-4063757613)

第9巻

(2009年9月発行、 978-4063757620)

第10巻

(2009年9月発行、 978-4063757637)

第11巻

(2009年10月発行、 978-4063757644)

第12巻

(2009年10月発行、 978-4063757651)

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