蒼天航路

三国志の武将曹操を破天荒な英雄として描いた大河史劇。原作李學仁(1998年9月以降は原案)、作画王欣太。(1998年)講談社漫画賞一般部門受賞。

あらすじ

曹操と爆烈団の戦い(第1巻)

恵まれた境遇にある少年の阿瞞(のちの曹操)は武芸や兵法に親しみ、幼くして大人から一目置かれる存在だった。ある日、阿瞞の従兄弟の夏侯惇が、ならず者集団、爆烈団の構成員を殺害したことをきっかけに抗争が勃発。阿瞞は夏侯惇の救援に向かい、爆烈団の頭目の李烈を弁舌で圧倒する。さらに、道中で出会った怪童、許褚の力を頼りに李烈を殺害し、爆烈団の構成員を配下として吸収する。

曹操と水晶の恋(第1巻~第2巻)

16歳の曹操は茶屋で働く胡人の少女、水晶と恋仲になり、彼女を娶(めと)るつもりでいた。しかし、水晶は金に目が眩(くら)んだ茶屋の主人により、淫猥と噂される宦官の張譲に身売りされてしまう。曹操は水晶の返還を求めて張譲の屋敷を訪問するが、張譲は返還を拒み、曹操を暴漢として処分せんと衛兵を差し向ける。その騒動の中、水晶は亡くなってしまう。自衛のために衛兵を殺傷した曹操も罪人として捕縛され、その裁きは酷吏と名高い橋玄に委ねられた。橋玄は張譲から曹操に厳罰を科すよう言い含められていたが、問答の末に曹操を無罪放免とする。

北部尉の曹操、党錮の禁を暴く(第2巻~第3巻)

西暦175年、20歳を迎えた曹操は北部尉に就任し、腐敗しきった隊内の規律を是正する。そして「令を犯した者は貴賎官民を問わず厳罰に処す」と布告。洛陽の治安を回復させることに成功し、いつしか「鬼の北部尉」と恐れられるようになる。やがて曹操は、闇に葬られた宦官の醜聞事件、党錮の禁の真相解明に挑み、宦官に抹殺された陳蕃(ちんばん)なる人物がまとめた告発文書を入手する。その過程で宦官に騙されて陳蕃を殺めてしまった老人の張奐を従える。宦官の蹇碩は曹操を陥れるべく一計を案ずるが、曹操はそれを逆手に取って天子、劉宏との対面を実現させ、告発文書を上奏する。しかし、宦官の断罪は実行されず、曹操のもとには頓丘県の県令を任せるとの書状が届く。この異例の昇級は、曹操を中枢から遠ざけたい張譲による厄介払いにほかならなかった。

県令の曹操、腐敗役人を一掃(第3巻)

曹操の新たな任地は高い税率が課せられ、役人は甘い汁を吸うことに終始していた。腐敗した役人はこれまでの体制を維持するべく、曹操を美女と財宝で籠絡しようと企んでいたが、曹操は一時的にそれを享受したうえで役人を処刑。手に入れた財貨を民へと返還したうえで、集金の道具と化していた祠堂の破壊や、税率の半減などの改革を次々と押し進めていく。一方、涿県では16歳の青年、劉備が関羽、張飛という二人の豪傑と運命的な出会いを遂げていた。

黄巾の乱、勃発(第4巻)

県令を辞した曹操は、故郷で狩りと読書に明け暮れていた。179年には、のちに妻となる歌妓の卞玲瓏を見初め、寝物語に北方の梟雄(きょうゆう)、董卓の危険性を耳にする。時は流れ、太平道の教祖、張角が数十万の信者を抱えるに至り、乱の気配を察した群雄は練兵に勤しんでいた。曹操は静観を決め込んでいたが、才気煥発な少年、荀彧との出会いを経て、ある策を実行する。それは「蒼天已死」の四文字を天下に放つというもので、群雄割拠の時代を招くと同時に、洛陽を狙う董卓の機先を制する効果も期待できた。やがて文言に触発された張角は「蒼天已死」を引用して新たなスローガンを織り上げ、信者の集団、黄巾党を煽って武装蜂起へと至る。こうして、農民一揆、黄巾の乱が勃発した。

騎都尉、曹操の初陣(第4巻~第5巻)

184年、曹操は騎都尉として黄巾党の討伐に参戦し、激戦区の穎川での活躍により存在感を示す。勢いに乗った曹操は、江南の勇将、孫堅と協力して黄巾党の砦を攻撃。夏侯惇が張奐の命と引き換えに黄巾党の渠師の張曼成(ちょうまんせい)を討ち取り、砦は官軍の占領下となった。しかし、敵増援の気配を察した曹操は手に入れた兵糧を奪還される最悪の事態を避けるべく、砦へ火を放ったうえで撤退する。砦に深入りしていた官軍は脱出すらままならず、兵糧と運命を共にした。やがて張角が病に倒れ、黄巾の乱は終結。戦後、荀彧は曹操の言葉に従い、中華を見聞する旅へと出立する。

董卓の台頭(第5巻)

189年、曹操は西園八校尉の位にあった。劉弁が帝位を継いで新たな天子になると、曹操の旧知の袁紹は宮中腐敗の原因である宦官を一掃せんと、天下に檄文を放つ。しかし、檄文は野心を抱いた董卓により、洛陽入りする口実として利用されてしまう。洛陽を制圧した董卓は劉弁から帝位を剝奪し、劉協を新たな天子に据える。その後、董卓は劉弁の擁立に加担していた者を粛清し、最強の武人、呂布を従えて相国に就任。こうして、洛陽は董卓が略奪と陵辱の限りを尽くす無法地帯と化した。

反董卓連合結成(第5巻)

曹操は董卓から片腕となるよう誘われるが、これを拒否して宮中を脱出し、袁紹を盟主とする反董卓連合の立ち上げを宣言する。お尋ね者となった曹操は洛陽の商人の呂伯奢(りょはくしゃ)と出会い、財貨と引き換えに五〇〇〇人規模の私兵を確保。190年1月には曹操の発した檄文が四海へと行き渡り、各地で群雄が挙兵した。連合軍の動きを察した董卓は、猛将、徐栄(じょえい)に精兵3万を預けて対抗。袁紹は10万もの大軍を率いながらも苦戦を強いられ撤退を考慮するが、傍らの曹操は退けば大義を失うとして突撃を敢行。自ら徐栄と切り結ぶも決着には至らず、緒戦は互いの陣営が勝利を主張する形で幕を閉じた。

汜水関(虎牢関)の戦い(第6巻)

曹操の苛烈な戦いぶりは「曹」の軍旗に力を与え、掲げるだけで10倍の敵を牽制することができた。そこで、曹操は軍旗と子飼いの将兵を友軍に散りばめる秘策を考案。神出鬼没の曹操軍を演出し、敵の混乱を誘発することに成功する。勢いづいた連合軍は汜水関を突破し、虎牢関に向かう途上では猛将、呂布と関羽の壮絶な一騎討ちが行われた。こうした戦局の流転のはてに、ついに董卓が出現する。董卓は暴虐なる用兵で連合軍の戦意を削ぐと、頃合いを見て退き、洛陽に火を放ったうえで長安へと遷都した。ほどなく袁紹は董卓の断行した遷都を連合軍の功績と主張し、撤退を決断。こうして、連合軍は目的をはたせぬまま瓦解に至る。一方、劉備は戦いの陰で劉協と対面し、漢の復興に尽力することを誓っていた。

董卓の死(第6巻~第7巻)

長安では董卓の横暴極まり、宮廷内でも董卓討つべしの機運が高まっていた。司徒、王允(おういん)の娘である貂蟬は董卓の暗殺に失敗するが、董卓に気に入られて妃となる。ほどなく貂蟬を見初めた呂布が董卓を殺害するが、呂布は王允の放った刺客に追われ落ち延び、貂蟬は凶刃の巻き添えとなり落命する。王允もまた、董卓の配下の李傕(りかく)に殺され、董卓に纏(まつ)わる騒動は幕を閉じた。騒動と前後して、曹操のもとには成長を遂げた荀彧が帰還。また、黒山賊(こくざんぞく)の鎮圧戦で幼少の砌(みぎり)に縁を結んだ許褚と再会し、正式に幕下に迎える。一方、孫堅は次々と引き上げる群雄を尻目に、焦土と化した洛陽の復旧に尽力し、伝国の玉璽を発見していた。孫家の名声を高めることにも成功していたが、劉表討伐の最中に暗殺されてしまう。

青州兵の獲得(第7巻)

192年4月、兗州へ迎えられた曹操は、黄巾党の後進組織、青州黄巾党を迎撃する。曹操は巧みな籠城で女子供を含む青州黄巾党の母体一〇〇万人を戦場近くまで誘引することに成功。これにより、青州黄巾党の兵士三〇万人は食糧難を加速させ、曹操の守る城を落とせなければ餓死という極限状態に追い込まれる。やがて青州黄巾党の決死の突撃を制した曹操は、彼らを民として受け入れると宣言。青州黄巾党の長老たちが幾つかの条件と引き換えに曹操の提案を受諾したことで、曹操はのちに青州兵と呼ばれる30万もの精強なる兵士と、一〇〇余万もの民を獲得するに至った。また、籠城戦で活躍した勇将、于禁も曹操の幕下に加わる。

徐州大虐殺(第7巻~第8巻)

知恵者の程昱、怪力を誇る典韋などの人材が集い、曹操軍は精強さを増していた。しかし、曹操の父親の曹嵩(そうすう)を含む縁者が皆殺しにされる事件が発生し、曹操は護衛の責任をはたさなかった陶謙の拠点、徐州を攻めることを決定。自ら青州兵を率いて、徐州の人間を民百姓に至るまで徹底的に虐殺する。この蛮行により、切れ者の陳宮が曹操幕下を離れ、呂布の軍師となってしまう。一方、陶謙のもとに駆けつけた劉備は眼前にせまる曹操軍を陶謙に代わって迎え討つ覚悟を固めていたが、曹操が呂布襲来の急報を受け撤退したため、交戦は回避された。やがて病死した陶謙の遺言により、劉備は徐州の牧となる。

孫策の快進撃(第8巻~第9巻)

兗州の鄄城に帰還した曹操は、自ら呂布の矛を受け止めて荀彧を救出する。そして、呂布軍と1年にわたって戦い続けることを宣言。そのあいだに軍略に長けた郭嘉、青州兵の女性、汎などの優れた人材と出会い、陣容を盤石なものとした。また、郭嘉の策により呂布を孤立させることに成功するも、曹操の気まぐれにより決着は持ち越された。一方、孫堅の嫡子の孫策は群雄、袁術のもとで雌伏の日々を送っていたが、伝国の玉璽と引き換えに兵士一〇〇〇人を取り戻すことに成功する。それは寡兵ながら、かつて孫堅に仕えていた歴戦の将を含む精強な軍団だった。孫策は兄弟同然に育った周瑜と共に諸地域を併呑。叔父の呉景(ごけい)と対立する劉繇(りゅうよう)の喉元にせまる頃、兵力は3万を超えていた。快進撃のはてに、孫策は広大な揚州の覇王となる。

天子奉戴(第9巻)

196年7月、曹操は洛陽に逃れた劉協を保護し、自らの拠点である許への遷都を上奏する。劉協は洛陽への未練を断ち切れず遷都を拒んでいたが、やがて曹操の言葉に感化され上奏を受諾。天子奉戴を遂げた曹操は詔勅を利用して乱世に膠着を生み出すことに成功すると、人材の獲得や新しい屯田制度の実現に邁進するのだった。

狩猟大会(第9巻)

呂布とのいざこざで、徐州の下邳城を追われた劉備は許都を訪問する。これを受けて、夏侯惇は劉備の暗殺を目的とする狩猟大会を企画し、歓迎の催しと称して劉備ら誘い込むことに成功する。両軍の武将による一進一退の試合が行われる中、暗殺を遂行せんと動く夏侯惇だったが、曹操の気まぐれにより暗殺は中止となり、大将同士の対決が実現する。曹操は都と天子、劉備は関羽と張飛を賭けることに決まるも、やがて怖気づいた劉備が曹操に賭けの取りやめを哀願する。これを容認した曹操は劉備を予州の牧に任命し、徐州の奪回を指示するのだった。

宛城の戦い(第10巻)

曹操は荊州の宛城に落ちつき、朝な夕な絶世の美女と名高い鄒氏との情事に耽っていた。そんな曹操の油断を突くように、城を明け渡して降伏したはずの群雄、張繡が宛城を襲撃する。張繡の右腕、賈詡の謀略により、曹操の警護を担当していた典韋が戦死。曹操は辛くも燃え盛る宛城からの脱出に成功するが、鄒氏に加えて嫡子の曹昂、甥の曹安民(そうあんみん)、名馬、絶影(ぜつえい)まで失う大打撃を被ってしまう。

袁術の天子僭称(第10巻)

197年の春、偽帝の袁術は曹操を逆臣と定義し、聖戦と称して許都への侵攻を開始する。この頃の曹操は、曹昂の育ての親である妻の丁美湖に別れを切り出された挙句、ほかの妻女からも距離を置かれ、軍議にも身が入らない有様だった。そこで、曹操は袁術の対応を荀彧に一任。すると荀彧は大凧を用いた奇策で袁術軍を退け、許都を守り抜くことに成功する。戦後、調子を取り戻した曹操は練兵に励む兵の群れから宛城の戦いを生き残った兵士の楽進を将として抜擢した。そして、荀彧の甥の荀攸に楽進を預け、実戦の中で兵法を叩き込むように命じる。一方、袁紹は群雄、公孫瓚の攻略を進めつつ、張繡や呂布を利用して曹操軍を疲弊させる構えを見せていた。

呂布の最期(第11巻~第12巻)

曹操の兵を預かる劉備は、呂布軍の猛将、張遼の猛攻に窮して降参し、呂布の拠点、下邳城の牢獄に囚われてしまう。これを受けて、因縁の相手である賈詡を退けた曹操も下邳城の攻略に着手。対する陳宮は布陣を終えたばかりの曹操軍を急襲せんと企んでいたが、曹操と内通する陳珪(ちんけい)、陳登(ちんとう)の謀により、籠城が採用されてしまう。案の定、呂布軍の形勢不利となるが、呂布の神出鬼没の攻撃により、冬の訪れまで粘ることに成功する。しかし、勝利を確信した呂布軍の勝ち鬨を嘲笑うように、荀攸の考案した水攻めが炸裂する。これをきっかけに呂布軍は大敗を喫し、混乱に乗じて獄を脱した劉備も曹操へ投降。戦いを制した曹操は軍師の時代の到来を宣言し、呂布と猛将、高順(こうじゅん)を処刑する。また、仕官の誘いを拒んだ陳宮を処刑し、張遼を幕下に迎えた。一方、袁紹は公孫瓚を撃破し、四州の覇者となっていた。

曹操暗殺計画(第12巻~第13巻)

左将軍に抜擢された劉備は、劉協より曹操を誅殺すべしとの密勅を授かった。実行を思い悩む劉備の意に反してお膳立ては進み、剣舞と称して曹操を斬る機会が設けられる。しかし、劉備は結果的に密勅を反故にしてしまい、逃げるように袁術討伐の任につく。密勅の存在が明るみに出ると、曹操は劉協に謁見してわだかまりを解き、劉協を唆(そそのか)した車騎将軍の董承らを断罪。劉協は曹操に禅譲の意思を示したが、曹操はあくまでも臣の筆頭として天子を奉ると宣言し、禅譲を断ってしまう。一方、袁術病死の報を受けて下邳城へ転身した劉備は、自身を慕う徐州の民に背中を押され、劉備の捕捉を命じられていた徐州の刺史、車冑(しゃちゅう)を殺害し、曹操との訣別を宣言する。

宣戦布告と宣戦誣告(第13巻)

舟遊びと称して股肱を招集した曹操は黄河を渡り、わずか6騎で袁紹軍の拠点、黎陽に潜入。そして、袁紹配下の猛将、顔良(がんりょう)を介して、袁紹に宣戦布告を行った。これを受けて、袁紹は配下の陳琳に宣戦誣告と称する挑発的な檄文を書かせて、曹操への返事とした。開戦の機運が高まる中、かつて宛城で曹操を破った賈詡と張繡が不遜にも曹操へ投降を申し出る。曹操はこれを受諾すると、自ら兵を率いて徐州を攻撃。劉備の長子の劉冀を人質として利用し、関羽を客将へ迎えることに成功する。一方、妻子を見捨てて逃亡した劉備は、袁紹の本拠地である冀州へと落ち延びていた。

白馬津の戦い(第13巻~第14巻)

先陣を任された劉備は、顔良と共に黄河の重要渡河点である白馬津の攻略に臨み、守将の劉延(りゅうえん)を追い詰める。しかし、防衛に現れた獣面の将軍の巧みな用兵により、戦局は一変する。劉備は獣面の将軍が関羽だと気づき前線に躍り出るが、関羽は構わず顔良を討ち取ってしまう。やがて、関羽から指揮を引き継いだ張遼の攻撃により、顔良軍は壊滅。張飛は堪らず、劉備を抱えて戦場から離脱する。ほどなくして、袁紹の本隊も白馬津へ到達するが、水面に浮かぶ自軍の屍に阻まれ、接岸すらできなかった。曹操は敢えて姿を晒して袁紹を挑発すると、白馬津を放棄して揚々と撤退。怒り心頭の袁紹が放った猛将、文醜(ぶんしゅう)を罠に嵌(は)め、討ち取ることに成功する。

王者の進軍(第14巻)

郭嘉は陽動を繰り返して袁紹を翻弄し、最終的に官渡で決着をつけようと考えていた。しかし、曹操の判断で一息に官渡まで退くことが決定する。これは戦の要となる渡河点の完全放棄を意味しており、袁紹に戦いの主導権をゆずり渡すも同義であった。曹操軍が引き上げると、袁紹は王者の進軍と称した一斉行軍を開始。華美な軍装の大軍を歌舞音曲に乗せてじわじわ進め、東西100里を越える大規模な野戦陣地を構築する。対する曹操は軍師を書記官に、将軍を兵卒に格下げして応戦させるも、袁紹軍が防衛線にせまると投降兵が相次ぎ、自陣に火を放って袁紹軍に取り入ろうとする輩まで現れる始末だった。兵卒に落とされた元将軍たちは止むを得ず、残存兵力をまとめて本陣へ撤退。曹操は危機に瀕しても指揮を執ろうとせず、生き延びようとする兵卒の本能を引き出せと言い放ち、許都へ帰還してしまう。この時、袁紹軍の兵力45万に対して、曹操軍の兵力は3万にも満たなかった。

許都を狙う者たち(第15巻)

元黄巾党の劉辟(りゅうへき)が汝南にて曹操に牙を剝くと、袁紹は劉備に兵を与えて援軍とすることを思いつく。劉備は関羽と道を違えた悲しみで酒浸りとなっていたが、八年前に出会った豪傑、趙雲との再会を経て己を取り戻し、汝南へと向かった。江南の孫策も許都侵攻の機を窺っていたが、道士の于吉(うきつ)の弟子に襲われ、出鼻を挫かれてしまう。周瑜は曹操軍との戦力差と孫策の体調を考慮し作戦中止を主張するも、孫策は侵攻を断行。しかし、進軍の途上で死期を悟り、弟の孫権と周瑜に志を託して絶命する。一方、官渡を守る曹操軍の兵卒たちは膠着を破れず、ジリ貧に陥っていた。痺れを切らした曹操幕下の曹仁は独断で許都へ戻り、曹操へ騎兵を与えて欲しいと直談判する。兵器開発を進めていた曹操は曹仁の焦りから、戦が動く頃合いが近づいていることを悟るのだった。その頃、袁紹軍は黄河の氾濫により兵糧の多くを失い、対応に追われていた。

官渡大戦(第15巻~第16巻)

曹操は官渡城砦に移動し、かつての軍師たちや、将軍たちを元の立場へ復帰させる。死闘を経て逞(たくま)しく成長した兵卒たちは、寝食を共にした仲間の真の姿を目の当りにして、大いに士気を高めた。やがて新兵器の霹靂車を主軸に、曹操軍の反撃が始まる。対する袁紹は自ら城砦の包囲に加わって味方の混乱を収拾する。さらに霹靂車の射程外に滑走路を構築し、衝車を滑走させて一息に城門を破ろうと動き始める。これを受けて、曹操は青州兵の動員を決定。戦の脈所を見極めるべく、賈詡と寡兵を伴って斥候へ出立する。曹操を罠に嵌めようと企む袁紹軍の軍師、許攸(きょゆう)も同行したが、許攸の策は曹操の気まぐれと賈詡の策略により瓦解。曹操は淳于瓊(じゅんうけい)の守る烏巣の巨大兵糧庫を陥落させることに成功する。やがて袁紹軍は戦闘の継続が不可能となり、天下分け目の大戦は曹操軍の完全勝利で幕を閉じた。

三顧の礼(第17巻)

荊州へ落ち延びた劉備は、劉表の世話になるうちに腑抜けと化していた。曹操のもとを去った関羽は張飛と反目しつつも、劉備の再起を信じて人材の諮問や練兵に奔走。やがて智慧者の徐庶から異形の賢者、諸葛亮の存在を聞き、劉備を桃源郷へと誘う。しかし、劉備は対面するなりいきり勃(た)った股座(またぐら)を晒す諸葛亮を受け入れることができず、彼の庵から逃亡してしまう。関羽に引き止められた劉備は再び庵の門戸を叩くも、諸葛亮の語る天下三分の思想に激昂し、諸葛亮を気絶させてしまう。またもや庵に背を向ける劉備だったが、今度は自らの意思で踏み止まり、三たび諸葛亮の庵を訪ねる。諸葛亮は依然として気絶しており、対話は望めなかったが、劉備は取りまきの童子から天下三分の概略を聞き及び、その策に希望を見出すようになった。

建安文学の芽吹き(第18巻)

206年、北方四州を平定して鄴へと帰還した曹操は、自らの子、曹植の詩才に気づき、許都へ送り込む。御前の酒宴に参加した曹植は孔子(こうし)の子孫、孔融の詩歌に触発され、即興の詩を披露する。それは曹植が横恋慕する兄嫁の甄姚を思った作品で、列席者の脳裏に妖艶な女神を想像させる名文だった。しかし、孔融は曹植の作品と認めないばかりか、俗情を晒す席ではないと斬り捨てる。陳琳が孔融に意を唱えると、太鼓を構えた曹操が乱入して来る。文人たちの弁舌は徐々に熱を帯び、曹植も論戦に参加する。曹操が楽隊を煽り、あらゆる文化、学術、芸術、才能は儒の呪縛から解き放たれるべきだと宣言すると、天子すら玉座を降りて曹操の囃しに身を委ねた。のちの世に建安文学と称される気風が芽吹く瞬間だった。

曹操の北伐(第18巻~第19巻)

207年の春、曹操は郭嘉の提案を受け入れ、万里の長城を越えての北伐を開始する。すでに中原の覇者として君臨していた曹操の北伐は弛緩した曹操軍に緊張を齎(もたら)した時点で成果があったが、郭嘉はその何倍もの戦果を求めて、軍略を練り続けていた。やがて郭嘉は張遼を主軸とした作戦で、烏丸族を率いる異才の指揮官、蹋頓を撃破する。蹋頓の敗北を受けて、烏丸族のもとに身を寄せていた袁紹の次男の袁煕(えんき)、三男の袁尚(えんしょう)は遼東郡の公孫康(こうそんこう)を頼る。しかし、公孫康は曹操を恐れて袁煕、袁尚を処刑する。袁家の命脈はここに絶たれるのだった。その後、鮮卑族を始めとする北方民族が曹操に恭順の意を示したことで北伐は一旦の終結を見るが、立役者の郭嘉は病没してしまう。同年6月、曹操は三公を凌ぐ官吏の最高位、丞相に就任する。

劉備の煩悶(第19巻)

父の仇である黄祖(こうそ)を討った孫権は勢いに乗っていたが、家臣のあいだでは最高顧問の張昭を中心として、曹操との同盟を望む声が高まっていた。それが事実上の降伏を意味すると理解していた周瑜は、降伏論者の発言を牽制すると、未だに底の知れない劉備の動向を探るべく、魯粛を派遣する。一方、荊州では曹操の南征を嗅ぎつけた劉表の後継の劉琮(りゅうそう)が降伏を表明。降伏を拒んだ劉備は劉表の重臣だった蒯越(かいえつ)の言葉を頼りに、江陵にあるという軍需物資を求めて出奔する。しかし、劉備を慕ってあとを追う数十万の民が足枷となり、やがて曹操軍に追いつかれてしまう。追い込まれた劉備は魯粛の提案する孫権との同盟を受諾するが、ほどなくして諸葛亮の取りまきの女性に天下を這い回る寄生虫などと痛罵され、自己喪失に陥ってしまう。

長坂の戦い(第20巻~第21巻)

劉備を慕う民の群れは殿を担う張飛の活躍により、辛うじて瓦解を免れていた。楽進と夏侯惇を退けた張飛に対して、荀攸は精鋭騎馬隊の烏丸兵を放つも、張飛は獲物を目の前にした虎の如く勢いづき、手がつけられなくなってしまう。やがて張飛は、曹操が無言の内に放った問いに身ぶり手ぶりで応じると、橋を落として曹操軍の追撃を振り切った。一方、劉備の位置する行軍の先端には、張繡と賈詡の別働隊が送り込まれていた。劉備は危険を察するや否や、部下の馬を奪い逃亡。劉冀は脱兎の如く逃げ去る劉備に跳ね飛ばされ、劉備が人の心を超えた何かに動かされていることを悟る。その後も劉備は、なりふり構わぬ逃走を続け、指揮を任されていた徐庶が曹操軍に捕縛されてしまう。劉備の妻子を救おうと奮闘する劉冀も窮地に陥るが、間一髪で張繡を討ち取った趙雲が到着する。趙雲は劉備の息子の阿斗(あと)を懐に抱き、血路を拓くべく戦場を疾駆する。

劉備の覚醒(第21巻)

諸葛亮と合流した劉備は自分が生きているだけで乱世が深まることを認め、それすら自らの徳として受け入れることを決意する。これを受けて諸葛亮は劉備の天下人としての覚醒を悟り、正式に劉備に仕えることを誓った。漢津に到達した劉備は先回りさせていた関羽の船へ乗り込み、「自らの居る場所がすでに天下」「天下は三分された」「緒戦は劉備の勝利」と主張。困惑する諸将を気にも留めず、意気揚々と引き上げていった。一方、荊州を手に入れた曹操は江陵で内政を進める傍ら、意に沿わぬ放言を繰り返していた孔融の処断に着手する。荀彧は孔融を斬れば儒者を敵に回すと諫(いさ)めたが、曹操は国家の営みを阻害するならば儒は障害であると断言。208年、孔融は丞相不敬罪で処刑された。

孫権、開戦を決意(第22巻)

江陵の軍需物資を確保した曹操の幕下では、江南攻略を主題に白熱の議論が繰り広げられていた。曹操は論戦に耳を傾けるうちに、長江を知らずに中華の政は語れないとの結論に至り、文官を連れての河下りを思いつく。それは長江を下って未知なる大海に繰り出してから北上し、黄河を遡って鄴に戻るという壮大な計画だった。一方、劉備との同盟を取りつけた魯粛は周瑜、諸葛亮と共に開戦の裁可を得るべく会合に臨む。抗戦派の将兵の雄叫び、諸葛亮の取りまきの老人が持ち込んだ脅迫文をもってしても張昭を翻意させるには至らなかったが、最終決定権を持つ孫権は抗戦を決断。やがて周瑜の号令のもと、水軍が長江へ出帆する。そこには開戦に先駆けて孫権が将として推薦した呂蒙、甘寧、陳武、蒋欽、凌統、周秦、徐盛、潘璋ら八頭の獣の姿もあった。

曹操、死線を彷徨(さまよ)う(第22巻~第24巻)

江陵を発った曹操は船旅の最中、蛮族から献上された川魚を口にして食中毒を起こす。曹操が症状に苦しむ中、甘寧が濃霧に乗じて曹操軍の旗艦へ侵入。曹操の水軍を担う蔡瑁(さいぼう)を殺害したうえで、工作により旗艦を沈没に至らしめる。その後の攻撃で曹操軍の船団は23隻が沈没、35隻が航行不能に陥り、曹操の行方すらつかめなくなってしまう。当の曹操は許褚に担がれて旗艦を脱出し、近辺の村で身を休めていたが、意識は混濁し、予断を許さぬ状況が続いていた。そこに諸葛亮が現れ、かつて劉備に行ったような精神的な追い込みを仕掛けるも、曹操には通用しなかった。やがて快復した曹操は諸葛亮に一瞥もくれずに村を去り、荀攸の築いた烏林の陣営に帰還する。曹操軍が奇襲を受けてから、12日が過ぎていた。

赤壁の戦い(第24巻)

曹操の生存が明らかになると、孫権配下の宿将、黄蓋は曹操の陣営に火攻を仕掛けるべく、偽りの投降を実施する。黄蓋と対面した曹操はきな臭いものを感じるが、高所より様子を窺う諸葛亮の働き掛けにより、黄蓋の部下が持つ火打ち石が出し抜けに発火。これを皮切りに火船が次々と曹操の船団に突撃し、周瑜の率いる水軍も一斉攻撃を開始する。諸葛亮も曹操への憎悪を剝き出しに羽扇を振り回し、そのたびに曹操の陣営に大規模な被害が発生する。いつしか諸葛亮の身体は、筋肉が不自然に隆起した異形へと変貌していた。諸葛亮は退却する曹操に向けて渾身の投石を試みるも、曹操に「くどい」と言い放たれた途端に脱力。曹操が続けざまに放った言葉は、浮世離れした諸葛亮の存在を否定するに等しい内容で、これを受けて諸葛亮の身体は従来よりも人間らしいものに変貌する。こうして、赤壁の戦いは曹操の敗北と諸葛亮の人間化をもって幕を閉じた。

曹操の南進(第25巻)

209年春、曹操は孫権との戦いを見据えて水軍の調練を進めていた。同年7月には程昱と謀臣の劉曄を引き連れ、孫権軍10万の100日にも及ぶ猛攻を耐え凌(しの)いだ合肥城を視察。空城をわずか8年で一大防衛都市に成長させながら亡くなってしまった揚州刺史、劉馥の手腕を絶賛する。一方、程昱は温恢や蔣済などの若い人材が劉馥を見本に成長していることを悟り、引退を申し出るのだった。同年9月、南を目指す曹操は徐州大虐殺から落ち延びた飢民の凄惨な暮らしを目の当りにして、彼らが従わないことを承知で、中原への強制移住を布告する。なおも南進を続ける曹操は、股肱(ここう)の将、夏侯淵に廬江の豪族、雷緒(らいしょ)の生け捕りを命じると共に、将軍を束ねる司令官となるべき人材に必要な心構えを伝授する。夏侯淵は雷緒を打倒し、将帥としての道を歩み始める。

劉備の政略結婚(第25巻~第26巻)

209年の冬、荊州の牧となった劉備に、孫権の妹、燁夏との縁談が齎される。夫人を亡くしていた劉備は、下心から縁談を快諾。孫権の私邸へ急行し、懇談と称した腹の探り合いに臨席する。孫権は配下から劉備の抑留を献策されていたが、誰もが荊州の主権を意識した発言を繰り返す中、劉備だけは周瑜の境遇を慮(おもんぱか)って涙を流していたことを理由に、劉備が燁夏を連れて帰ることを許すのだった。やがて孫権は曹仁を破って凱旋を遂げた周瑜に養生を勧めるが、周瑜は休暇を拒否して西方への進軍を提案する。これは各勢力と連携して、曹操に多方面攻撃を仕掛ける遠大な軍略の一環だった。しかし、孫権と別れた直後に周瑜の身体は限界を迎えてしまい、後任に魯粛を指名して絶命する。

求賢令(第26巻~第27巻)

210年正月、曹操は荀彧と雪玉で戯れつつ、彼の推挙する人材に悪党がいない点を指摘する。荀彧の返答は清々しいまでに清く、曹操は荀彧にすべての人材を推挙させれば、漢王朝400年の汚濁さえ雪(そそ)げると夢想するのだった。ほどなくして、曹操は儒者としても高名な名医の華佗の診療を受け、その才を絶賛する。しかし、華佗が医術の才に誉を感じていないことを知ると、国家通念と化していた儒の精神が人の才を曇らせているとして、儒に頼らない人材登用制度、求賢令を考案する。儒者である荀彧は求賢令の取り下げを求めるが、曹操は荀彧の賛同を得ずして求賢令を発布。やがて曹操と華佗の関係にも亀裂が生じ、曹操は華佗を獄死させてしまう。

潼関の戦い(第27巻~第28巻)

211年の夏、曹操の西方遠征を受けて、馬超を中心とする関中の涼州軍閥が乱を起こし、潼関にて曹操軍と激突する。馬超は盟友の馬玩(ばがん)と連れ立って渡河を進めていた曹操を襲撃。曹操は馬超の有用性を見極めようとするも負傷し、許褚の活躍で辛くも河岸へと撤退する。その後、渭水に陣を設けた曹操は賈詡の考案した離間の計を仕掛けるべく、軍閥の大物である韓遂と会見する。内容は30年前の思い出話だったが、軍閥の面々は曹操と韓遂のあいだで密約が交わされたと思い込み、仲違いを始めた。こうして連携を欠いた軍閥は総崩れとなり、曹操を目掛けて突貫した馬超も窮地に陥ってしまう。猛将、龐悳らの活躍により馬超は生還したが、馬玩は殺到する曹操軍を引き受け、壮絶な戦死を遂げた。同年10月、馬超と韓遂を涼州の奥地へ追いやった曹操は夏侯淵に掃討を任せ、鄴へと帰還。212年5月、曹操は馬超の一族、韓遂の一族を詔勅により処刑した。

荀彧の死(第28巻~第29巻)

許都では、曹操に国公の爵位を与えようとする動きが活発化していた。発起人の董昭(とうしょう)は国家の中枢を担う荀彧の説得に動くが、荀彧は曹操の30年に及ぶ戦いは過ぎた地位や天下簒奪(さんだつ)を狙って行われたものではないとして、賛同を拒否してしまう。後日、曹操と面会した荀彧は曹操が帝位を奪うことはないと確信するが、次代を担う曹操の子、曹丕が同じ境地に至れるとは思えず、それを意識すると胸の痛みに襲われた。やがて心身を病んだ荀彧は寿春にて意識を失い、療養を余儀なくされる。これを受けて、曹操は荀彧を元気づけようと、食盒(しょくごう)に丸めた白紙を入れて送りつける。それは、かつて戯れた雪玉にも似ていたが、荀彧は「お前に贈るものなどない」「君臣の関係を白紙にする」「漢王朝を終わらせる」などネガティブにとらえてしまい、丸薬を過剰摂取して眠るように息を引き取った。

劉備の入蜀と曹操の魏公就任(第29巻)

211年、益州の牧、劉璋は100日にわたる宴で劉備を歓待し、五斗米道の教祖、張魯の討伐を依頼する。しかし、劉備は軍を動かすことなく1年もの月日をやり過ごし、曹操の孫権討伐に呼応するようなタイミングで、劉璋へ軍を向けた。軍師の龐統を失いながらも雒城まで攻め寄せた劉備は、流浪の身となっていた馬超を従え、劉璋の拠点、成都を包囲する。214年5月には劉備軍の古株、簡雍が劉璋を説き伏せ、無血開城を成し遂げる。この戦いを通して、劉備は老将の黄忠、荒武者の魏延(ぎえん)、智謀の士、法正など頼もしい人材を獲得した。一方、劉備が蜀を得ようと躍起になっている頃、長江西岸まで攻め寄せていた曹操は一時撤退し、魏公の位を得ていた。魏公国の誕生である。

曹一族の台頭(第30巻)

214年、荀攸が病没する。曹操は葬儀の場で司馬懿を見つけ、今後は従軍して隠していた軍才を発揮するように命じる。曹操の養子の何晏は至弱の戦を知る軍師を次々と失う曹操を間近に見て、その瞳から輝きが失われていることに気づくのだった。同年、宮中に秘されていた密書が宦官(かんがん)の手で掘り起こされる。それは官渡大戦の直前に伏皇后(ふくこうごう)が記したもので、曹操の誅殺をうながす内容が含まれていた。劉曄は曹操の娘の曹節が劉協の寵愛を受けている状況を踏まえ、要らぬ風説を避けるためにも密書を葬るべしと提言する。しかし、曹操はあくまでも司法に則って対処すると宣言。やがて伏皇后は地位を剝奪され、暴室にて獄死。一〇〇余人が連座する事態となる。翌年、曹節は皇后となった。

張魯征討(第30巻)

劉備と孫権が荊州の所有権を巡り仲違いしている頃、曹操は張魯の討伐に乗り出していた。215年7月には夏侯惇と許褚が敵陣に迷い込みながらも陥落せしめ、陽平関を獲得。巴中へと逃亡した張魯も曹操に降伏する。同年12月、曹操は夏侯淵に漢中の防衛を一任。本隊を見送る形となった夏侯淵は夏侯惇と魏国で盃を交わす約束をする。また、曹操は馬超の兵を引き継いだ龐悳、韓遂の配下だった成公英(せいこうえい)を従え、軍団をより盤石なものとする。さらに在野の賢人、石徳林(せきとくりん)に荀彧の面影を見出すも、質素な生活を尊ぶ彼の信念を尊重し、別れを告げた。

魏王就任と儒の弾圧(第30巻)

216年2月、鄴へ帰還した曹操は、魏王への就任を求める内容の詔勅を受け取り嘆息する。同年5月、魏王となった曹操は許都にて劉協に謁見。これより上の位には登らないと強く主張する一方で、求賢令を無視して人材を推挙していた儒者の崔琰を髠刑(こんけい)に処すなど、儒者との対立を深めていく。さらに何晏の才能に目をつけ、曹操の寿命が尽きる前に論語を読み解くよう命じるのだった。

合肥の戦い(第30巻~第31巻)

216年10月、南征へ乗り出した曹操は張遼と轡(くつわ)を並べ、未だに血の跡が残る合肥の戦場跡を視察する。およそ1年前に行われた孫権軍との激闘において、張遼は孫権を追い詰めていた。しかし、孫権は張遼の渾身の一撃を自ら受け止め、奇跡的な逃走を成功させたという。張遼の言葉を頼りに激戦に思いを馳せる曹操の瞳には、久しく失われていた往年の輝きが宿っていた。

濡須の戦い(第31巻)

217年の正月、曹操は20万もの大軍を居巣へ動員し、2月には濡須へと軍を進めていた。両陣営で疫病が猛威を振るう中、甘寧がわずかな手勢と共に曹操の駐屯地を奇襲し、曹操の喉元までせまったうえで、曹操軍の要である駿馬100頭を奪い去る。やがて勝機を見出した呂蒙は一斉攻撃を提案するが、陸口を任されていた宿将、程普(ていふ)の病死、魯粛の危篤といった急報が齎されたことで、孫権が曹操への降伏を決断する。これを受けて曹操は鄴へと撤退するが、孫権への警戒を緩めることはなく、夏侯惇と曹仁に大軍を預ける念の入れようだった。それから間もなく、曹操は曹丕を太子に指名する。

定軍山の戦い(第31巻~第33巻)

劉備は反曹操の象徴として、ついに天下獲りに動き出す。その傍らには諸葛亮、法正という優れた軍師に加え、張飛、趙雲、馬超、黄忠など綺羅星(きらぼし)の如き勇将が居並び、気力に満ちていた。217年の冬、劉備が漢中に進軍すると、曹操は曹洪を中心とする部隊を夏侯淵の支援に派遣する。曹洪は左腕を失いながらも奮戦し、劉備軍の呉蘭(ごらん)と雷銅(らいどう)を斬る。夏侯淵は精鋭を率いて劉備を追い詰めるも、張飛と馬超に阻まれ、討ち取るには至らなかった。その後、陽平関を占拠した劉備は定軍山を攻撃。夏侯淵は単騎駆けで劉備にせまるも、諸葛亮の合図で放たれた大量の矢に貫かれ、渾身の一撃を劉備に振り払われてしまう。間もなく夏侯淵は黄忠の刃を受け、魏国で盃を交わす約束をはたすことなく絶命する。夏侯淵戦死の報は四海を巡り、219年の空に四天王と呼ばれた宿将たちの慟哭が谺する。

漢中王の誕生(第33巻~第34巻)

漢中を舞台に曹操と法正の知恵比べが始まった。法正の頭脳は冴えていたが、睡眠すら削って曹操と軍略を競ったはてに、心身に限界を迎えてしまう。指揮を引き継いだ諸葛亮は曹操の首よりも価値のある勝利を得ると豪語するも、いざ曹操の姿を認めると憎悪に支配され、曹操を嬲(なぶ)り殺さんといきり立つ有様だった。劉備との殺し合いを熱望する曹操は挑発を繰り返したが、劉備は猛る諸葛亮を押し止め、全面衝突を回避する。やがて曹操は蔣済の諫言(かんげん)を聞き入れ、漢中からの全軍撤退を決意する。撤退の途上、劉備が漢中王を名乗ったこと、荊州の関羽が北上を始めたことが明らかとなり、曹操軍は強い衝撃を受ける。

樊城の戦いと魏諷の乱(第34巻~第35巻)

樊城を攻める関羽は瞬く間に守将、曹仁の副将、牛金(ぎゅうきん)を斬り、樊城を包囲した。さらに曹仁の救援に現れた于禁を降し、龐悳と成公何(せいこうか)を殺害する。関羽優勢の報は全土に潜む反曹勢力を鼓舞する結果となり、各地で叛乱が勃発した。これに呼応して、劉備の本隊も長安を目指して進軍する。一方、曹仁の救援を任務とする名将、徐晃は逆転の策を成功に導くべく、関羽に一騎討ちを挑む。その甲斐あって樊城内外の連携は滞りなく進み、新たな兵士と物資を得た樊城は息を吹き返した。してやられた関羽は襄陽に籠城して劉備の進軍を支援する構えを見せていたが、南方に位置する関羽の二大拠点、公安と江陵が陥落したとの情報が齎されると、考えを改めて南へと急行した。その頃、曹操の領内では魏諷が挙兵し、許都と鄴を制圧するべく動いていたが、劉曄や曹丕の働きによって鎮圧に至った。

関羽の最期(第36巻)

麦城へ立ち寄った関羽は周辺を俯瞰し、すでに包囲されていることを悟る。そんな折、孫権より魏の軍勢と戦を続けるならば支援を行うとの申し出が齎されるが、関羽はこれを拒み、孫権の親族でもある武将の孫皎を斬って南へ猛進する。しかし、江陵まで20数里の位置で落石の罠に遭い、本隊から孤立してしまう。関羽は奮戦を続けるが、獣と似た気配を持つ怪人、阿トウの対応を誤り、組みつかれる。戦いのはてに、関羽は孫権の手で首を刎(は)ねられ、その生涯に幕を閉じた。

曹操の旅立ち(第36巻)

220年、曹操は老いによって睡眠の周期が乱れ、馬に乗ることもできなくなっていた。そんな曹操のもとに、関羽の首が届く。首を検分した曹操は関羽を祀ると宣言し、周囲の動揺を余所に関羽の立ち姿を模した巨大な木像の工作を手配する。やがて関羽の木像が完成すると、曹操は神となった関羽に「義武聖君」の名を与えるのだった。やがて、嬉々として遺書の執筆に勤しんでいた曹操にも最期の時が訪れる。曹操の死期を感じ取った譙の長老は亀とは思えぬ俊敏さで地を駆け、洛陽へと急ぐのだった。

登場人物・キャラクター

曹操 (そうそう)

字(あざな)は孟徳。幼名は阿瞞。女性のように艶があると評された美丈夫で、目の下に睫毛をデフォルメしたような「すじ」がある。曹騰の孫として満ち足りた幼少期を過ごし、武芸や兵法、詩歌など多分野に秀でた人物に成長。放蕩三昧の青年期を経て、北部尉や頓丘県令を歴任した。賊軍討伐で頭角を現すと、常識に縛られない柔軟な思考を武器に乱世を立ち回り、天子奉戴を経て中原を制覇し、やがて魏王として天下の中枢に君臨する。その躍進は政(まつりごと)を見据えた戦運びによって齎されたもので、幕下の人間にも政の重要性を頻(しき)りに語っている。常人を超越した才覚から「人間の傑作」と評される一方で、徐州で行った虐殺の影響が後年まで尾を引き、残酷で傲慢な人物という悪評が終生にわたってつきまとうことになる。また、16歳にして七人もの妾を囲うなど好色で、宛城の戦いでは鄒氏との交わりに溺れ、あわや討死の状況にまで追い込まれている。なお、若いうちは天意や天命などの言葉を多用したが、次第に天より人を意識するように変化し、人材を渇望するようになった。後年には文化の発展や人材の登用を儒の精神が阻んでいると考えるようになり、魏国内に跋扈(ばっこ)する儒者と反目するようになる。実在の人物、曹操がモデル。

夏侯 惇 (かこう とん)

字は元譲。高祖、劉邦(りゅうほう)の重臣、夏侯嬰(かこうえい)の末裔で、旗揚げから曹操を支える四天王の筆頭の男性。身内からは「惇兄」と呼ばれている。曹操に対しては裁可は首で負うとの覚悟を持って接しており、字で呼び捨てにすることもしばしば。諫言や苦言を呈することも多く、曹操から「むさい母親」と揶揄されているが、曹操が一度発した命令ならば、どんなに不可解、不愉快な内容でも従うと決意している。また、常人離れした胆力の持ち主で、董卓配下、徐栄(じょえい)の軍との戦いでは、射抜かれた夏侯惇自身の左目を飲み込んで一喝し、味方を鼓舞している。以降は眼帯を身につけ、厳つい顔がより凶悪に変貌し、感情が昂ぶると眼窩(がんか)から血を噴き出すようになった。隻眼となってからも武功華々しく、董卓軍の猛将、華雄(かゆう)を一騎討ちで撃破したほか、長坂では張飛と楽進の一騎討ちに乱入して楽進を救出する。張魯征討では敵陣に迷い込みながらも陽平関を制圧し、「迷子の惇将軍」という珍称号を得た。また、官渡で曹操軍の全武将が兵卒に落とされた際には、兵卒としての戦い方を貫き、兵卒という存在の本質に触れて曹操から絶賛されている。のちに曹操から天下で最も慕われている将軍と評された。実在の人物、夏侯惇がモデル。

荀彧 (じゅんいく)

字は文若。曹操幕下の軍師を務める男性。名門出身の清廉潔白な儒者で、少年時代に軍師を志望して曹家邸宅を訪問し、黄巾の乱から軍師として活躍した。乱が治まると見聞を広める旅へと出立。旅先では西域の術者から王佐の才を指摘されたほか、異国の間者を手懐け、曹操のもとに配下として送っている。譙に帰還する頃には前歯が抜け落ち、別人のような風貌に変貌した。この頃から剽軽(ひょうきん)で気さくな面が表出し、「あいやー」が口癖となった。しかし、知略は微塵(みじん)も衰えず、屯田制度を整えて戦の基本形を構築し、防衛戦の指揮においても活躍している。やがて侍中と尚書令を任され、劉協に近しい位置で政に関与するように変化。曹操から安心して遠征できるのは荀彧のお陰と称賛された。若年時から曹操こそ大陸に新たな現実を創造する者だと信じ続け、長じてからも雪合戦に興じるなど、長い蜜月を感じさせた。しかし、儒の弾圧や曹操の位を巡る発議が活発化すると、周囲と意見を違え、精神と心臓を病んでしまう。ついには自ら喉を突くほど思いつめ、212年に寿春にて死亡。曹操が荀彧を死に追いやったとの噂も流れたが、曹操は後年に荀彧を心腹の友と表現し、その死を惜しんでいる。実在の人物、荀彧がモデル。

劉備 (りゅうび)

字は玄徳。天下を狙う群雄の一人。幽州涿県楼桑村出身の男性で、背丈は七尺五寸。膝下に届くほど腕が長く、自らの福耳を触る癖がある。中山靖王、劉勝(りゅうしょう)の末裔を自称し、自分はいつか皇帝になると盲信している。民の笑顔に喜びを感じる快男児だが、好色で感情の起伏が激しく、人目を憚(はばか)らず号泣することも多い。また、べらんめえ口調で、感情が昂ると「じゃかあしい」と一喝する。藁細工を売りながら俠客・鬼嚢として活動していたが、世直しを志す関羽、張飛との出会いを経て義勇兵に志願。公孫瓚、陶謙、呂布、曹操、袁紹、劉表の陣営を渡り歩くうちに、「流浪の大器」「仁徳の英雄」と持て囃されるようになる。劉表の庇護下にて天下を窺う気概を失ってしまうが、諸葛亮の語る天下三分に希望を見出し、煩悶のはてに天下人として覚醒する。そして、曹操から最大の敵と認められるようになった。やがて蜀の地を得ると漢中に攻め寄せ、夏侯淵を撃破。後続の曹操軍すら退け、漢中王を名乗った。なお、劉備の人気は曹操の悪名に比例して高まったものであり、郭嘉は「劉備とは曹操と対を為(な)す現象である」と説明した。当人も放浪時代に「劉備」が反曹操の象徴であることを自覚している。実在の人物、劉備がモデル。

関羽 (かんう)

字は雲長。河東の俠客、長生として勇名を馳せた男性。肌は赤銅色で、長い髭を蓄えている。豪胆で理性的だが、独断専行が多く、周囲にも高潔さを強いるなどの悪癖を抱えている。俠の結社、美髯団の頭目を務めていたが、劉備という「天下の器」に惚れ込み、兄と仰ぐようになった。得物は装飾が施された青龍刀。その扱いは達人の域に達し、呂布とも互角に打ち合っている。兵を率いれば呂布にも勝ると評されており、曹操の客将時代には白馬津を制圧し、袁紹軍の猛将、顔良(がんりょう)を討ち取っている。また、為政者としても活動し、裏社会の人間から意見を募って司空府を震撼させた。劉備麾下に帰還してからは遊興を断絶して軍師の獲得に奔走。その態度を当てつけと感じた義弟の張飛の暴走で義兄弟の絆に亀裂が生じているが、曹操ではなく劉備と天下を目指したいと訴え、雪解けに至った。赤壁の戦いのあと、劉備が荊州を離れると留守を任され、長きにわたって天下を睥睨した。のちに劉備が漢中王を名乗ると、長安への行軍を支援するべく樊城を攻撃。これが、天下をゆるがす大騒動へと発展する。実在の人物、関羽がモデル。

張飛 (ちょうひ)

字は益徳。涿県済佳村出身の男性。当初は無精髭だったが、のちにヤマアラシの如き虎髭を蓄える。酒と博打(ばくち)を好み、男気あふれる性格から俠の塊と評されている。兄と慕う関羽に従っていたが、関羽が劉備を兄と仰ぐようになったことで、劉備の義弟となってしまった。得物は波打った刃を持つ蛇矛。長坂では殿を担い、一騎討ちにおいて楽進に深手を負わせ、夏侯惇を圧倒している。その後、烏丸兵を前に天下無双の武人として覚醒し、屠(ほふ)った人馬を食らいつつ奮戦した。巴西では自らの豪勇で兵士を駆り立てるように統率し、張郃の軍を退けている。その豪傑ぶりは「万人の敵」「一世の虎臣」と謳われるほどだが、非常に喧嘩っ早く、身内と諍(いさか)いを起こすことも多い。下邳城を預かった際には口論の末に守将の曹豹(そうほう)を絞め殺し、呂布一派に城を奪われてしまった。また、馬超の取り澄ました顔が気に入らないとして喧嘩を売り、殴り合いに発展している。世間的にも直情径行型の武将と認識され、許褚からは猪にたとえられている。当人も兵法を軽んじる発言をしているが、六韜(りくとう)に通じるなど、意外な教養が備わっている。なお、講談の影響で民草からは「翼徳」と呼ばれている。実在の人物、張飛がモデル。

諸葛 亮 (しょかつ りょう)

字は孔明。名士、司馬徽(しばき)から「伏龍」と称された逸材の男性。大柄で瞳孔が三つあり、頭髪の大部分が淡色で、白い羽扇を愛用している。臆病で空気が読めず、常人とは会話すら成立しないが、その気になれば言葉だけで人を憤死させることもできる。また、軽く触れるだけで荒ぶる武将を鎮めたり、他者と精神を同化させたりすることも可能で、総じて絵空事のような男と称されている。森羅万象を言い当てると評されながら桃源郷で乱交に耽るばかりだったが、三顧の礼を受けて劉備に同行する。取りまきを介して劉備の覚醒をうながし、劉備と水魚の交わりならぬ「タレと饅頭の契り」を結んだ。赤壁の戦いの直前には天下三分を為すべく、捏造(ねつぞう)した曹操名義の脅迫文で孫権に開戦をうながしている。曹操が昏睡に陥った際には同化を試みるも失敗。曹操を憎み、異形と化して曹操軍に多大なる被害を齎した。しかし、曹操に訣別を告げられると変身が解け、重瞳(ちょうどう)が統合されて髪が黒くなり、以降は超常的な力を発揮することもなくなった。その後は内政官として劉備を支えたが、漢中では法正の後任として指揮を取り、曹操への憎悪を再燃させている。なお、諸葛瑾(しょかつきん)というロバに似た顔の兄が孫権に仕えている。実在の人物、諸葛亮がモデル。

董卓 (とうたく)

字は仲穎。騎馬民族を飼い馴らして天下を窺う北方の梟雄(きゅうゆう)。大柄な体型の辮髪(べんぱつ)の中年男性で、髭など体毛の一部を矢印型に剃り残した独特の風貌の持ち主。頭は切れるが残忍な性格で、意に沿わぬ者は如何なる立場の人間でも躊躇なく処刑してしまう。宴席にて人肉を振る舞う、天子の眼前で刺客を犯すなど、規格外の行動に出ることも多い。強弓の使い手でもあり、複数の矢を同時に放って塀を破壊するという荒技を披露している。もともとは異民族を討伐する立場にあったが、漢の大地を北の色に染めるという野心を抱き、袁紹の放った宦官誅滅の檄文に呼応して上洛。劉弁を廃帝に追い込み、新たな天子、劉協を傀儡(かいらい)に権力を独占する。その上で呂布を養子に迎えて洛陽を支配した。その後も三公を凌ぐ名誉職である太師の自称、洛陽への放火、長安への遷都など傍若無人な行いを繰り返すも、呂布の裏切りにより死亡する。董卓の親族は三族に至るまで皆殺しにされた。後年、賈詡は自分以外の涼州人は董卓に振り回されつつ、惹きつけられていたと述懐している。王欣太は、俳優のマーロン・ブランドをデザイン上のモデルにしたと語っている。実在の人物、董卓がモデル。

呂布 (りょふ)

字は奉先。天下を争う群雄の一人。ドレッドヘアの巨漢で、人体を容易ににぎり潰すほどの膂力(りょりょく)を誇る。思考は短絡的で吃音の傾向があり、窮地に立たされると孤独を求める性質をしている。また、天下とは龍の住処であるという独自の思想を持つ。執金吾・丁原(ていげん)の養子だったが、董卓に武人としての矜持(きょうじ)を刺激され、丁原を斬って董卓の養子となった。董卓軍においては最強の猛将として君臨し、右手に矛、左手に剣を携えて両手を掲げる独特の構えを取り、名馬、赤兎馬(せきとば)に跨(またが)って戦場を疾駆した。荀彧は呂布がいるだけで軍勢の強さが数倍になると評価している。反董卓連合との戦いでは単騎にて連合軍を足止めし、関羽と壮絶な一騎討ちを行った。のちに董卓の妃、貂蟬を見初め、彼女を奪うべく董卓を殺害。独立勢力となり、陳宮の頭脳を借りて乱世をかき乱した。この頃から武人として成長し、挑発にも動じない堂々たる将軍に変貌する。下邳の戦いでは張遼、高順(こうじゅん)を従え奮戦するも、水攻めを受けて敗北した。やがて許褚らに捕縛され、そのまま縊(くび)り殺された。曹操からは純一戦士、弟と呼んでいた劉備からは哀しい男と評された。実在の人物、呂布がモデル。

袁紹 (えんしょう)

字は本初。天下を争う群雄の一人。官職の最高位の太尉、司徒、司空を四世代続けて輩出した四世三公の名門、袁家の御曹司。家柄を武器に若くして出世し、濮陽県令、勃海太守などを歴任した。昔馴染みの曹操より格上との驕(おご)りが強く、黄巾の乱の際には曹操に軍団を斡旋するなどの世話を焼いた。宮中の腐敗にあたっては宦官誅滅の旗手となるも、董卓を招き入れたことで洛陽を荒廃させてしまう。その後、反董卓連合の盟主となるも、董卓を討つことはできなかった。群雄割拠の時代を迎えると、公孫瓚を倒して四州を制覇し、曹操との決戦に臨んだ。前哨戦から二枚看板の猛将、文醜(ぶんしゅう)、顔良(がんりょう)を投入するなど万全の態勢を敷くも、烏巣の食糧基地の陥落により大敗を喫し、歴史の表舞台から姿を消した。なお、若い頃は精悍だったが、官渡大戦の終盤から肥満体となる。その姿に頭痛を誘発された曹操は醜悪と言い放った上で、袁紹は無意識のうちに体重200斤の美女だった母親に近づこうとしていると分析した。また、長男の袁譚(えんたん)、次男の袁煕(えんき)、三男の袁尚(えんしょう)は後継争いに終始して連携が取れず、後年に曹操の圧力が遠因となって死亡している。実在の人物、袁紹がモデル。

孫堅 (そんけん)

字は文台。天下を狙う群雄の一人。南方の海賊退治で名を馳せた男性で、派手で粗暴な振る舞いに反して、褒美を受け取る際に位ではなく金銭を要求するなど、合理的な思考の持ち主。中郎将、朱儁(しゅしゅん)の副官として黄巾党の討伐に参戦するも、担当区域の敵将の首では飽き足らず、さらなる手柄を求めて激戦区の穎川まで進撃。曹操と共に黄巾党最大の食糧砦を制圧するなど活躍した。采配を目の当りにした曹操は、自分とは別種の人間が天下を担うとすれば、孫堅のような男だと絶賛している。長沙の太守として反董卓連合にも参画しており、敵将の華雄(かゆう)の首を手土産に駆けつけた夏侯惇を客将として歓迎し、彼の助言を聞き入れて焦土と化した洛陽の復興に従事した。貢献により民衆からの声望を高めたばかりか、伝国の玉璽を入手している。董卓打倒を成した先には、曹操と覇を競うことを望んでいたが、劉表討伐の途上に刺客の矢を受けて落命。精強で知られた孫堅軍は同盟相手の袁術に取り込まれてしまった。なお、夏侯惇の分析によれば、孫堅軍の強さを支えていたものは、配下が次々と献策できる自由闊達な空気と、意見をまとめて一つの意志とする孫堅の器量である。実在の人物、孫堅がモデル。

袁術 (えんじゅつ)

字は公路。天下を争う群雄の一人。南陽太守を務めた男性で、性格は狭量にして尊大。従弟の袁紹とは仲が悪く、彼を奸物、妾の子と蔑んで対立している。袁紹が荊州を得るべく劉表を刺史に立てた際には、同盟相手の孫堅に荊州の奪回を命じて差し向けた。孫堅が死亡すると、子飼いの軍団を吸収した上で、九江郡や廬江郡の太守の座を餌に孫策を動かし、周辺の征討を推し進めた。やがて孫堅の軍団と引き換えに伝国の玉璽を獲得し、天子を僭称する。さらに後宮に二〇〇人もの女性を迎え入れるなど、奢侈に拍車を掛けるようになった。これにより、孫策から絶縁を突きつけられ、呂布と結ぶはずだった同盟も破談し、孤立を深めてしまう。しかし、たび重なる失敗を意に介すことなく、袁術の名前で詔勅を発し、聖戦と称した戦を開始。自ら兵を率いて許都へ攻め入るも、荀彧に翻弄され敗れ去った。その後、衰えた勢いを取り戻すことはできず、袁紹のもとに身を寄せる途上で血を吐いて死亡した。なお、当初は袁紹に似た顔立ちだったが、登場するごとに外見のデフォルメが進行し、最終的には類人猿の如き容貌に変貌する。実在の人物、袁術がモデル。

劉表 (りゅうひょう)

荊州の刺史。恰幅のいい熟年の男性で、あどけない顔立ちに反して腹黒い性格をしている。本性を現すと下がり眉と口髭がつりあがり、別人の如き人相に変貌する。清流派の儒者でもあり、戦火を免れた儒者を保護して学校を設置するなどして、荊州を学術都市として発展させた。10万もの兵力を抱えながら積極的な武力行使をしていなかったが、裏では曹操と袁紹が潰しあったあとの世を見据え、抱え込んだ儒者を両陣営に送り込むなどの工作を行っていた。また、孫堅を死に追いやった黄祖(こうそ)の後ろ盾でもあり、孫策の暗殺計画にも関与していた。劉備の声望を利用する目的で長年にわたって面倒を見ていたが、諸葛亮の言葉に気を乱されて病が悪化。劉備に後事を託す旨を遺言して死亡する。劉備は継承を固辞しているが、劉表を母親の次に世話になった人物と認め、出奔の直前には墓に縋(すが)って涙ながらに感謝と謝罪を述べている。なお、ほどなくして荊州の統治を継いだ劉表の次子、劉琮(りゅうそう)は曹操に降伏。重臣の蒯越(かいえつ)も曹操に降っているが、劉備に義理立てして江陵に溜め込んだ軍需物資の存在を示唆している。実在の人物、劉表がモデル。

許褚 (きょちょ)

曹操の守護を担う勇将の男性。身の丈八尺、腰回り五尺の巨漢で、額の中心に黒子があり、間延びした口調で話す。純粋な人柄で、若年時から月は15個あると信じ込んでおり、怪談や呪いの類を苦手としている。豚をいじめる童に注意するなど、優しさも持ち合わせているが、その気性と裏腹に、城門を独力で破壊するほどの人間離れした膂力を誇り、「虎痴」と渾名されている。また、無尽蔵の健啖家でもあり、傷の治りが早い。高い視力に加えて夜目も利き、書の読みすぎで目が悪くなった曹操の代わりに遠方を観察することもある。曹操との出会いは少年時代に遡り、鐘泥棒とのいざこざを通して、李烈との戦いに加勢した。その後、身内を食わせるため賊に身を落とすも、成長した曹操から億の民を食わせるために仕えよと誘われ、臣下となった。以来、曹操に侍り、趙雲、馬超、甘寧などの強敵から曹操を守り抜いているが、曹操の命を最優先に考えるあまり、曹操に苦言を呈することも少なくない。馬超戦に至っては、激情に駆られた曹操に当て身を食らわせ、無理やり生還させている。なお、人物を生き物にたとえるのが得意だが、曹操を何かにたとえようとすると、答えを出せず眠くなってしまう。実在の人物、許褚がモデル。

温恢 (おんかい)

曹操幕下の文官の男性。身長が異様に低く小太りで、口髭を蓄えている。聞きにくい質問をする際に前置きとして、何かの起源を語る癖がある。若くして丞相(じょうしょう)主簿を任され、無駄のない仕事ぶりで曹操の信頼を獲得した。劉馥が亡くなると後任に抜擢され、揚州刺史となった。合肥城に曹操を迎えた際には、跳ね橋で孫旗と首級を踏み潰す演出を行い、程昱から洒落た出迎えと称賛されている。215年には守将の張遼、李典、楽進の不仲に振り回されつつも孫権を迎撃し、孫権が撤退を始めると張遼に化けて追撃に参加した。変装は頭身の違いから即座に看破されてしまったが、呂蒙を言葉巧みに挑発し、円圏という謎の体術で翻弄した。戦いの趨勢が曹操軍に傾くと、追撃戦で成果を欲張ってはならないとの基本に立ち返り、諸軍の取りまとめに尽力した。なお、蔣済より託された昱の石を劉馥の形見として大切に所持している。実在の人物、温恢がモデル。

劉弁 (りゅうべん)

漢王朝(後漢)の第13代皇帝を務める男性。のちに「少帝」と諡号される人物。美貌を武器に権力を手にした何皇后の産んだ男子でありながら、その容貌は醜く、才覚も乏しい。何進(かしん)、何皇后の兄妹に擁立されて帝位を継承するも、董卓の独断により廃帝に追い込まれ、殺されてしまった。なお、曹操は即位したばかりの劉弁を遠目に見て、先帝に輪を掛けた暗愚との感想を抱き、漢の命脈は尽きたと判断している。実在の人物、少帝弁がモデル。

法正 (ほうせい)

字は孝直。頭巾をかぶった頰の痩けた男性。劉備曰く、慇懃(いんぎん)無礼で冷たい毒気を放つ人物。劉璋配下として登場し、盟友の張松(ちょうしょう)と共謀して劉備に蜀を奪うよううながした。これをきっかけに劉備麾下に加えられ、以降は軍師として重宝されるようになった。自ら斥候に加わるなどアグレッシブで、情報をつぶさに拾い集めて策を更新していく手法により、これまで負け通しだった劉備軍を連戦連勝に導いた。張飛も法正の軍略を高く評価しており、敵方の賈詡すら法正の攻勢は戦歴のない軍師の手腕ではないと褒め讃えている。しかし、策を練るのに集中するあまり劉備を伝令兵と勘違いして文を託すなど、間の抜けた一面もある。定軍山の戦いにおいては、包囲を継続して曹操が現れるまでに兵站を整備しろという諸葛亮に対して、全軍で守将の夏侯淵を攻撃して定軍山を奪取するべしと主張した。結果として法正の策が用いられ、定軍山の確保に成功している。しかし、生き急ぐかのような働きぶりは心身を蝕(むしば)み、漢中入りした曹操との知恵比べのはてに意識を失い、前線を離脱した。45歳で死くなる。実在の人物、法正がモデル。

曹騰 (そうとう)

曹操の祖父。宦官(かんがん)として四帝に仕えた経験のある男性で、長らく中常侍を務めていた。好々爺然とした立ち振る舞いが目立つが、曹操が張譲と揉めた際には劉宏の御前で張譲を牽制するなど、大宦官として君臨した往年の片鱗を見せつけている。才気煥発な曹操を猫かわいがりし、晩年には「曹操に仕えたかった」という旨の言葉を遺している。179年に行われた葬儀には大勢の清流派の人士が弔問に集っており、現役を退いてからも大きな影響力を持っていたことが窺える。貯め込んだ財貨は本人の希望により、曹操の飛躍に役立てられた。なお、ほかに曹操の家族として父親の曹嵩(そうすう)、母親の白蓮(びゃくれん)が登場している。実在の人物、曹騰がモデル。

貂蟬 (ちょうせん)

司徒、王允(おういん)を義父に持つ16歳の少女。歌舞音曲の才を持ち、黙り込むと梃子(てこ)でも動かないと評されるほど意志が強い。もともとは地味な印象の娘だったが、自ら瞼に刃を入れて整形し、化粧を施すことで華やかな容姿へと変貌した。董卓を倒すべく、父親の反対を振り切って宮中へと身を投じるが、暗殺に失敗して玉座にて犯され、そのまま名ばかりの妃として飼われることになってしまう。のちに貂蟬を欲した呂布が董卓を殺害したことで、反董卓連合すら成し得なかった巨悪の討伐を間接的に成し遂げた形となるが、王允の名声を後世に残すという思いも虚しく、王允が呂布を殺そうと放った刺客の手に掛かり死亡した。なお、董卓に飼われていた時期に限り、鈴付きの首輪を身につけていた。

(はん)

曹操の抱える軍隊「青州兵」を象徴する女性。女性としては大柄な体型で、額にはU字に菱形を入れた紋様が刻まれている。張角が連れてきた子供であることから、太平道信者のあいだでは経典300巻を引き継いで張角の後継者となることを期待されていた。しかし、当人は戦場での活躍を希望して武芸を磨き、武装した男性を徒手空拳で軽々と倒すほどの猛者となった。初めは曹操の統治を見せ掛けの安定と批判し、曹操に管理される以前の姿である青州黄巾党への回帰を望んでいたが、曹操との対話をきっかけに、その導きに従うことを決意する。曹操が青州兵を運用する際には兵士の選別や陣頭指揮を任されるようになり、郭嘉や荀彧の策を成功に導くなど活躍した。その実行力は夏侯惇からも高く評価されている。

張遼 (ちょうりょう)

字は文遠。曹操幕下の勇将の男性。雁門郡馬邑出身で、装飾入りの額当てを付けている。21歳の頃に呂布と関羽の一騎討ちに感化され、青龍刀を得物に最強を志すようになった。呂布のもとで精鋭騎馬軍団を率いた経験があり、陳宮から猛将、高順(こうじゅん)と双璧を成す呂布軍の宝と評されていた。関羽と一騎討ちを行った際には、背後から側面に移動して武人としての矜持を示したうえで、人馬一体の攻撃で関羽を苦戦させている。呂布が討たれると処刑を覚悟して曹操に投降した。呂布を最強と感じた者に最強は遠いと諭され、幕下に加えられた。帰順後は曹操軍の武の体現者として活躍する。特に合肥の戦いでの武功は凄まじく、孫権軍10万を跳ね返し、騎兵800を率いて孫権を猛追。孫権を討ち取る寸前まで追い込んだうえで陳武を斬殺し、凌統、蒋欽、呂蒙、甘寧を突破して堂々たる凱旋を飾った。なお雑談を好まず、政にも興味を示さないが、馬には並々ならぬ愛着があり、黒捷(こくしょう)、赫傀(かくかい)、銀睟(ぎんすい)の3頭を飼育している。合肥では返り血にも萎縮しない勇敢な黒捷が水を怖がり、追撃を断念する一幕がある。実在の人物、張遼がモデル。

孫策 (そんさく)

字は伯符。孫堅の嫡子の男性。頭頂部と揉み上げを残して髪を剃り、後ろに流した髪を後頭部で括って垂らしている。同じ歳の周瑜とは強固な信頼関係を築いており、「孫家は周瑜に乗っ取られる」という孫堅の冗談に対して、主従が逆になっても構わないと応じたほど。のちに周瑜と共に喬(きょう)姉妹を娶って義兄弟となる。武術、軍略の冴えは覇王・項羽(こうう)に比肩すると評され、大局的な視野も備えている。しかし、血気盛んで性急な一面があり、戦闘中に気が逸(そ)れると執拗に額を狙う癖がある。孫堅の死後は袁術の下で武勲を重ねていたが、やがて孫権の発案で伝国の玉璽を差し出し、袁術に奪われていた父親の私兵を奪還することに成功した。江南を舞台に快進撃を続け、26歳の若さで揚州六郡を治めるに至った。劉繇(りゅうよう)を攻めた際には、一騎討ちのはてに名将、太史慈(たいしじ)を従えている。以降は許都に攻め入って天子を奪う機会を虎視眈々と窺っていたが、孫堅の墓参りに向かう最中、道士、于吉(うきつ)の弟子を始めとする刺客に襲撃され、毒矢を受けてしまう。その後、周瑜の制止を振り切って許都へ向けて出帆するも、船上で額から大量の血を噴き出して絶命した。実在の人物、孫策がモデル。

董承 (とうしょう)

劉協の叔父。車騎将軍を務める恰幅のよい中年男性で、眉頭が俗に言う麻呂眉のような丸みを帯びている。曹操に奉戴された劉協が自らの意思で詔勅を発せない状況に苦しんでいることを察すると、かねてより企んでいた暗殺計画を持ち掛けた。これは逆賊誅殺の密勅を発して曹操、次いで袁紹を亡き者とし、漢室の権威を取り戻すというものである。初め劉協は曹操が嫌いではないとして計画に難色を示していたが、いつか玉座を狙う、二強を除けば民草を戦火から救えると説得して密勅の手配に成功する。剣舞と称して曹操を暗殺する大役を劉備に委ねるも、劉備は葛藤のはてに暗殺を放棄し、逃げ出してしまう。やがて協力者である王子服(おうしふく)が拷問を受けて自害したことを知り、証拠隠滅のうえで曹操と刺し違える覚悟を固めたが、密勅の存在は敢えなく露見し、処刑されてしまった。犠牲になった関係者は七〇〇人にも及び、劉協の子を宿していた董貴人(とうきじん)までもが連座している。なお、曹操の残虐性をか垣間見た伏皇后(ふくこうごう)は曹操の暗殺を仄(ほの)めかす密書を認めており、この密書は十数年の時を経て掘り起こされ、魏国に波乱を巻き起こすことになった。実在の人物、董承がモデル。

程昱 (ていいく)

曹操幕下の軍師の熟年男性。長身痩軀で耳たぶが長く、顎髭は胴まで伸びている。兗州牧・劉岱(りゅうたい)の招聘を断っていたが、曹操が劉岱の後任になると仕官を熱望した。この際、泰山の頂上で日を捧げ持つ夢を見たと語り、曹操の案で名を「立」から「昱」に改めた。強情でねじけた性格と厭われているが、識者からは才人と評価されており、俗人との交流を忌避する劉曄も程昱を前にすれば口を開くほどである。軍師としては戦略レベルの提案が多く、曹操の親族が殺された際には、護衛を怠った陶謙の拠点、徐州への侵攻を諫める陳宮と対照的に、報仇雪恨を掲げて攻撃せよと献策した。その後、青州兵を統制する法案の起草を任されている。後進育成にも積極的で、軍議を制するには知力に加えて胆力も必要と若者に説いていた。しかし、軍議が紛糾して収拾がつかなくなり、曹操に助けを求める珍場面も存在する。また、赤壁の戦いでは黄蓋の積荷が怪しいと指摘しているが、荀攸に一蹴されて火計を防げなかった。のちに兗州の三つの城を守った以外に大きな功績がないと苦悩するが、夢での曹操との対話を経て煩悶を超越。若者の成長を悟り、温恢らに惜しまれつつ引退した。実在の人物、程昱がモデル。

曹洪 (そうこう)

旗揚げから曹操に従う男性で、四天王の一人。張繍軍との再戦では後曲を担い、初めて将として兵を率いることになった楽進を援護した。時は流れ、漢中の戦いが勃発すると、自ら長安で調練した吸収兵5万を引き連れ、夏侯淵の救援に参戦した。その手際から「鬼教官」と評された。下弁では劉備軍の武将、呉蘭(ごらん)、雷同(らいどう)と激突。先鋒を務めた曹休の危機に乱入して呉蘭を圧倒し、曹休に熱血指導を行っている。その後、奇襲に晒された張既を救うべく張飛に立ち向かい右腕を失ってしまうが、隻腕となっても奮戦し、呉蘭と雷同を斬っている。なお、漢中戦の頃から儒教的な価値観で人材が評価される時代は終わったとして、貪欲に褒美を求める本性を発露するようになった。夏侯淵からは不要な中傷を招くと注意されているが、曹操の掲げる唯才主義を引き合いに正当化している。また、壮年になってから、結い上げた髪を後頭部で三つ編みにするという青年期の髪型に回帰した。実在の人物、曹洪がモデル。

曹休 (そうきゅう)

字は文烈。曹操幕下の武将の男性。強さと賢さを兼ね備えており、次世代を担う将として期待されている。曹仁、曹洪の血縁者で、血のつながりこそないが曹操の族子(おい)であることから、曹操の家で育まれた。漢中の戦いが勃発すると、曹洪に従って夏侯淵の支援に急行した。徐晃から曹洪が功を焦って失敗した時のために、兵を統率しておくよう忠告された。この際、出立前に曹操からも曹洪の目付役となるよう言い含められていたと明かしているが、劉備軍の武将、雷銅(らいどう)を侮って窮地に陥り、逆に曹洪に命を救われる結果となった。しかし、本営に馬超がせまった際には、名誉挽回とばかりに不用意に出撃した曹洪を諫(いさ)め、馬超の相手を買って出ている。その後も戦況を冷静に見極め、自らの判断で劉備本隊の追撃を実施した。法正の指揮する殿軍と激闘を繰り広げた。実在の人物、曹休がモデル。

李通 (りつう)

曹操幕下の武将の男性。極太の眉毛を持つ面長で、周囲からは「万億」と呼ばれている。張繍軍との再戦において、騎兵500を率いて10倍の兵力の張繍軍を攻撃した。曹操の指示どおりに背後から張繍軍を真一文字に切り裂き、勝ち戦の悦楽に酔い痴れた。長江沿いで曹操が行方不明に陥った際には、荀攸が烏林に築いた砦に独断で駆けつけている。この時、昔の縄張りに周瑜が居座っている状況が耐えられないと軽口を飛ばし、追い込まれていた荀攸を励ました。なお、夏侯淵、張遼、楽進、徐晃、程昱も同様に異変を察し、砦へと集っている。直後の赤壁の戦いでは曹操に侍(はべ)り、炎に巻かれながらも凌統と切り結んでいる。戦後は江陵の曹仁を支援していたが、209年に曹操が夏侯淵の陣中を訪れた際に訃報が届き、夷陵にて病死したことが発覚する。実在の人物、李通がモデル。

馬超 (ばちょう)

字は孟起。劉備麾下の猛将の男性。羌族の血を引き、鶡冠(かっかん)をかぶっている。「錦馬超」の通り名で知られ、三叉矛など長柄の武器を好む。背後から飛来する矢を振り返らず防御して、張飛と互角に殴り合うなど高い戦闘能力の持ち主で、馬術も得意。15歳の頃に董卓の暴虐を目の当りにして、劉協を穢(けが)れた天子ととらえ、漢王朝に見切りをつけた。およそ18年後、入朝を決意した父親の馬騰(ばとう)と訣別して軍団を継承した。数年後には関中・涼州軍閥の旗頭となり、曹操に叛乱。渭水では曹操に傷を負わせるほどの猛攻を仕掛けている。叛乱軍が大敗すると、盟友の馬玩(ばがん)の命と引き換えに落ち延び、再起を図るべく冀城を奪取する。しかし、妻子を殺されて流浪の身となり、彷徨のはてに劉備と邂逅(かいこう)。従兄弟の馬岱(ばたい)と共に劉備の麾下に加わり、以降は成都の包囲や夏侯淵との戦いで活躍した。なお、執拗に獲物を狙う姿は許褚から鷹にたとえられたが、曹操は馬超の力は武力ではなく暴力と批判している。また、天下に益することのない凶刃とまで痛罵したが、のちに思考の死角を衝かれたことを認め、馬超の叛乱のあおりで処刑が決まった馬騰への手向けの言葉としている。実在の人物、馬超がモデル。

周瑜 (しゅうゆ)

字は公瑾。孫家三代に仕える名門出身の将帥の男性。王佐の才を認められた傑物であり、文武のみならず奏楽も得意としている。若年時は快活だったが、成長後は落ちついた物腰の美丈夫となった。孫策とは兄弟の如き関係で、人を酔わせる極上の酒のような男と評されている。若くして孫堅に従い反董卓連合に参加し、孫堅の死後は孫策の揚州平定に協力した。孫策が曹操との対決を意識するようになると、商人に扮して許都に潜入。曹操の留守を預かる荀彧との邂逅を経て、現段階では許都の攻略は不可能と断じ、逸(はや)る孫策を押し留めた。以降は曹操を倒すには孫策が孤独な王となる必要があるとして、孫策との縁を断ち切り、家臣として接するようになった。孫策の死後は孫権を主君と仰ぎ、曹操への徹底抗戦を主張。船団の総司令官となり、赤壁にて曹操軍を撃退した。戦後は曹仁の守る江陵を落とし、曹操との決戦を見据えた多方面作戦を考案するも、以前より苦しんでいた身体の不調と江陵で負った矢傷が重なり、36歳の若さで死亡した。事切れる直前には、船の帆に魯粛に後事を託す旨を書き記している。なお、「美周郎」の通り名は「その二百九十一」の題名として登場する。実在の人物、周瑜がモデル。

龐悳 (ほうとく)

曹操幕下の猛将の男性。涼州出身。馬超の父親、馬騰(ばとう)に仕えていたが、馬騰の入朝を機に馬超を主君と仰ぐようになった。潼関の戦いでは曹彰の動きから指揮官の曹仁の位置を特定するも、馬超から深追い厳禁と釘を刺され、武を振るう機会を逸している。曹操軍との決戦では馬超の従兄弟の馬岱(ばたい)らと連携して馬超を救出した。その後も馬超を支えたが、姜叙(きょうじょ)や趙昂(ちょうこう)と不毛な争いを続ける馬超に不満を募らせ、軍団を引き上げて曹操に降伏。斬首を覚悟するも、武勇を見込まれて幕下に迎えられた。龐悳の帰順から間もなく、韓遂配下の涼州人、成公英(せいこうえい)も曹操に帰順している。樊城の戦いでは成公英の弟の成公何(せいこうか)に背中を預け、于禁の降伏を尻目に多くの敵兵を殺傷した。関羽の額に矢を射込むも、力及ばず討ち取られてしまう。この際、馬超と従兄の龐柔(ほうじゅう)が劉備に仕えているとして降伏を勧められているが、主君は一族と関係なく自分で決めるものだとして固辞。運命を同じくした成公何と共に、関羽から義の烈士と称えられた。実在の人物、龐徳がモデル。

李典 (りてん)

曹操幕下の知将の男性。額にメ型の傷があり、武官ながら軍事より学問と主張してゆずらない。発明を得意としており、官渡大戦では曹操を補佐して、曹操軍の反撃の糸口となる新兵器、霹靂車の開発に貢献した。樊城の戦いの頃には死亡していたが、生前に開発した李典弩が実戦投入され、攻撃や通信に役立てられている。戦場でも活躍を見せ、合肥の戦いでは不仲だった張遼、楽進と協力して孫権軍を退けている。その後の追撃では張遼に化けて、「遼来来」と声高に叫ぶ奇策を考案した。張遼を狙う甘寧を誘引し、一騎討ちを行っている。この際、さまざまな発明品を駆使して甘寧を苦戦させるも、仕留めるには至らなかった。濡須の戦いでは特殊な工法を備えた土木部隊を率いて砦を建造し、斥候の侵入を阻むなど活躍している。しかし、暴風の中で甘寧と交戦して行方不明となり、翌朝になって死亡が確認された。その骸は曹操の指示で武官の墓を避けて埋葬された。これは生前に討ち死を忌避していたこと、朝服に着替えてから死にたいと語っていたことに起因する。なお、合肥で用いられた変装の奇策は樊城の戦いで応用され、張遼のみならず夏侯惇の偽者まで登場している。実在の人物、李典がモデル。

孫皎 (そんこう)

字は叔郎。孫策、孫権の従兄弟。彼らを「兄やん」と呼び慕っている。言葉遣いは関西弁で、酒席にて甘寧に喧嘩を売るなど、一族の例に漏れず血の気が多い。武装は幅広の剣で、軽装を好み、腹部、腕部、脚部を露出させている。兄の孫瑜(そんゆ)と黄蓋の率いていた軍を引き継いで一万人を従える将軍となり、樊城での攻防を終えた関羽の包囲に参加した。虎燕拳(こえんけん)という拳法を用いて、偵察に動いていた廖化を撃破する。その後、黒虎背剣(こくこはいけん)という剣技で関羽に挑むも、敗北して首を刎ねられた。その亡骸は関平に掲げられ、包囲に参加している孫権軍を威圧する目的で使用されてしまった。また、配下の黥赤(げいせき)も関羽に額を斬り裂かれて死亡している。実在の人物、孫皎がモデル。

龐統 (ほうとう)

字は士元。荊州の人材に序列をつけた名士、司馬徽(しばき)から「鳳雛」と称された逸材の男性。劉備麾下の名士、馬良(ばりょう)と同郷で、左腕が欠損しており、片手でも扱えるような矢を打ち出す小型の筒を携帯している。初めは周瑜に召し出されるも、入蜀の際に劉備の軍師として登場した。主君である劉備に対しても不敵な態度を崩さず、器は上げ底かと罵ったこともある。しかし、挑発的な発言は劉備の発奮をうながすため、たび重なる諫言は民草が慕う仁君、劉備の偶像を維持するためのもので、劉備も無礼な発言に苦言を呈しつつ、それゆえに自分の軍師だと認めていた。雒城の攻略にあたっては自ら遊軍の指揮を担い、雒城の弱点を補うように設置された砦を攻撃する。しかし、砦と雒城が地下でつながっていたことから苦戦を強いられ、地下道の封鎖と引き換えに、武将の卓膺(たくよう)と兵力の半分を損失する。龐統自身も戦闘中に受けた流れ矢が原因となり、帰陣から間もなく死亡した。この際、号泣する劉備に対して、天下人が一喜一憂を垂れ流すべきではないと、お決まりの諫言を遺している。実在の人物、龐統がモデル。

劉璋 (りゅうしょう)

益州の牧。分厚いおちょぼ口を持つ肥満体の男性。道理を尊ぶ性格で、家臣に対しても丁寧な言葉遣いで接する。父親から益州の統治を受け継ぐも、中原の動乱には参戦せず、成都を拠点に独立を維持していた。211年には劉備を蜀へと招き入れて100日にも及ぶ宴で歓待した。恩を売った劉備に対して張魯の討伐を依頼するも、劉璋自身の配下である張松(ちょうしょう)、法正、孟達(もうたつ)らの裏切りにより、逆に劉備軍から攻撃されてしまう。恩を仇で返された怒りから劉備を貪婪(どんらん)な盗賊と罵り、毅然として籠城を敢行するも、214年5月に簡雍の降伏勧告を聞き入れ、開城を承諾した。この際、豊穣の地を得ながら乱世に目を向けなかったことを嘆いているが、簡雍からは蜀の子供が笑っていたことを理由に、領土を維持するだけでは成し得ない偉業だと称賛されている。実在の人物、劉璋がモデル。

(しん)

若き曹操に仕えた秘書官の中年男性。小柄の体型で態度はおどおどしているが、曹操からは人の信頼を得る才に恵まれた秘書官と評価されている。事務的な仕事の補助はもちろん、曹操の外出につき従う機会も多く、張奐の行方探しにも同行している。曹操が北部尉を退いてからも重用され、宋鎰と共にのちに黄巾党として武装蜂起する太平道信者の動向を調べるなどしていたが、黄巾の乱を最後に物語からフェードアウトしてしまった。

燁夏 (ようか)

孫策、孫権の妹。コテコテの関西弁を使う男勝りな女性で、華美な服装に身を包み、髪を後頭部で結い上げ、羽飾りの付いた簪(かんざし)を挿している。目力が強く、身内以外の人間が直視されれば必ず目を逸らすといわれている。劉備との政略結婚が決まると、孫権から借りた虎の仁(ジン)に乗り、武装した五〇人以上の侍婢(じひ)を従えて劉備を歓迎した。この際、劉備の器に惚れ込んで快く嫁いでいったが、のちに世間で噂される聖人君子としての劉備像が真実なら殺すつもりだったと白状している。その後の夫婦仲も良好で、劉備と甘夫人(かんふじん)の息子、阿斗(あと)からも信頼されていたが、子宝には恵まれず、外交上の理由で離縁を余儀なくされた。なお、およそ4年半を過ごした荊州を去る際、関羽から劉備の髭を受け取っているが、餞別として自らの髭を贈る劉備のセンスが理解できず、喜ぶどころか眉を顰(ひそ)めている。実在の人物、孫夫人がモデル。

張魯 (ちょうろ)

五斗米道の教主を務める男性。額に花弁のような紋様があり、頭には円形の鏡をあしらった飾り布を巻いている。漢中を拠点に信者を中心とした宗教国家を形成し、善政を布(し)いて農民の理想郷とも呼べる一大コミュニティを築くことに成功する。張角のように野心に溺れることはなかったが、やがて周辺の群雄からも無視できない存在となる。215年7月には曹操の侵攻に備えるべく、信仰によって統率された3万もの軍勢を漢中の玄関口である陽平関に集結させた。しかし、迷い込んだ夏侯惇と許褚の攻撃により、一夜にして総崩れとなってしまう。その後、巴中まで撤退するも、同年11月に曹操に投降。五斗米道の解体を命じられるも、漢中に安定を齎した才腕を評価され、漢中の継続統治を任された。なお、曹操と対面した時点で60歳近い年齢にもかかわらず、その外見は若々しく、当人も亡き母より不老の性質を授かったと嘯いていた。しかし、曹操から教団の解体を指示された瞬間に老け込み、年相応の外見となってしまった。実在の人物、張魯がモデル。

于禁 (うきん)

字は文則。曹操幕下の勇将の男性。済北国の相・鮑信(ほうしん)に仕えた無骨な人物で、揉み上げと髭がつながっている。青州黄巾党を相手取った籠城戦で戦死した鮑信の遺言により、曹操幕下に加わった。張繍軍との戦いでは隘路(あいろ)にて兵力で勝る張繍の本隊を迎撃した。宛城の戦いで散った仲間の弔い合戦と称して味方の士気を高め、張繍軍と拮抗してみせた。長坂では関羽との合流を目指す劉備を猛追し、自ら趙雲と切り結んでいる。樊城の戦いでは七軍を率いて曹仁を救援した。龐悳らを従えて樊城の北で関羽軍と激突するも、暴雨によって氾濫した漢水に飲み込まれてしまう。一時は耐え凌ぐ考えだったが、関羽から兵を犬死させるべきではないと諭され、降伏を決意した。捕虜となっても萎縮することはなく、堂々と食糧を要求している。実在の人物、于禁がモデル。

呂蒙 (りょもう)

孫権に実力を見込まれた武将、八頭の獣の一人。額に縦向きの傷跡が3本ある男性で、愚直なまでに純粋な性格をしている。勇猛果敢ながら要領が悪く、同時に三つ以上のことを考えると鼻血を吹き出して失神してしまう。その才覚は、周瑜に遠く及ばないと侮られていたが、何事にも直向きに取り組む姿勢が仲間の信頼を呼び、実戦の中で成長した。やがて魯粛の立場を継いで、孫権軍の中核を成す立場となる。荊州の攻略に着手する頃には病が進行し、孫皎に顔色を心配される有様だったが、その病すら策として活用し、無名の陸遜を自らの後釜として起用。自らも関羽の拠点、公安と江陵を無血開城に導くなど立ち回り、関羽討伐の立役者となった。なお、能力、容姿、家柄に至るまで一流の陸遜に対しては強い嫉妬の念を抱いており、その感情を隠そうともしていない。特に公安の守将、士仁(しじん)を謀る目的で、商人に扮した際に陸遜が漏らした「大金を扱う人間に見えない」という感想には大きなショックを受け、後々まで思い出して落ち込んでいる。実在の人物、呂蒙がモデル。

潘璋 (はんしょう)

孫権に実力を見込まれた武将、八頭の獣の一人。頭巾をかぶった恰幅(かっぷく)のよい男性で、その統率力は名家出身の朱然(しゅぜん)からも高く評価されている。家柄に恵まれず、ならず者を集めて旗揚げした人物ながら、戦地に合わせて土地勘のある人材を雇い入れるなど、慎重さも持ち合わせている。現在もならず者を中心とした部隊を率いており、冗談めかして「悪たれ軍団」と呼称している。この部隊は貧乏な出自の者が多く、褒賞金を求めて意気軒昂に戦うのが強みだが、戦死する者、軍規を犯して処罰される者、逃亡する者も多く、入れ替わりが激しいのが欠点。結果として、手元に残る兵士はつねに三〇〇〇人規模になると説明されている。関羽の包囲に加わった際には、その首に100倍の褒賞金を設定することで、悪たれ軍団の士気を最大限に高めていた。この際、自らも関羽と刃を交えるなど、最前線で活躍している。実在の人物、潘璋がモデル。

夏侯淵 (かこうえん)

字(あざな)は妙才。旗揚げから曹操に従う男性で、四天王の一人。道理を好み無駄を嫌う性格で、窮地にあっても己を律する冷静さと、必要ならば前線に躍り出る大胆さを持ち合わせている。弓術は天下随一で、関羽との狩り勝負では、関羽が射た獣と同種の獣を立て続けに射抜く演出を行い、その技量を見せつけた。実戦においても強弓の連射で敵将を磔(はりつけ)にする、殿(しんがり)の位置から3本の矢を同時に射て陣頭の敵将を狙い射つなどの離れ業を披露している。兵法にも明るく、辺境異民族との戦いで大いに活躍し、彼らを震え上がらせた。また、軍団随一の行軍速度を誇り、許褚から狼にたとえられている。その素早さは兵站(へいたん)管理においても発揮され、関中・涼州軍閥との戦いでは辺境の太守である賈逵(かき)、杜畿(とき)と連携し、前線への補給を滞りなく遂行した。やがて曹操から将軍を統括する司令官となるべき人材と期待されるようになり、廬江の豪族、雷緒(らいしょ)を生け捕った際に将帥としての自律を宣言した。戦の勝敗ではなく、政(まつりごと)の成否を意識して戦に臨むようになる。しかし、漢中の司令官を任されながら、乱世に幕を引く好機として執拗に劉備の首を狙い、戦死してしまう。その遺骸は劉備の意向で曹操に返還された。実在の人物、夏侯淵がモデル。

魏諷 (ぎふう)

鍾繇の信頼を得て、若くして官吏の人事を担う西曹掾の地位に就いた男性。頭髪は縮毛で、眉間に楕円の紋様がある。美声の持ち主で、語気には若き日の曹操にも似た人を惹きつける力が備わっている。自らの風靡の才を奸雄の素質ととらえて、曹操の立ち位置を奪おうと画策する。計画は曹操の不在を突いて天子を確保し、劉備と孫権の自立を承認したうえで、曹操を逆賊として誅殺。最終的に三国により天子を奉戴するというものである。その下準備として名門の子息と交流し、崇息観の布教を口実にクーデターの協力者を募っていた。劉備の漢中王宣言から間もなく、漢の印が入った書状を受け取り、その内容に従って許都の制圧に乗り出すが、決起からほどなく鎮圧され、首を刎(は)ねられてしまった。なお、魏諷の正体は、少年時代の諸葛亮が徐州の敗残兵に託した戦災孤児。いわば諸葛亮がまいた反乱の種である。養父は曹操への復讐を胸に魏諷を育てたが、志半ばで病死している。また、諸葛亮は魏諷を託す際に人語を解す類人猿、銭申(センシン)を授けている。銭申は長年にわたって魏諷らを支えていたが、乱の前後に首を刎ねられている。実在の人物、魏諷がモデル。

陳琳 (ちんりん)

のちの世に建安七子と呼ばれる男性。文人の一人。袁紹の配下だったが、檄文、宣戦誣告をきっかけとして、曹操のもとに招かれた。劉協の御前で行われた宴では、曹植が発した恋歌を新しい言葉の世界を手招くものと絶賛した。また、詩歌は個人の感情を表現するものではないと語る孔融と対立する一方で、孔融ほどの文人なら新しい才への妬みすら詩になると、彼の文才を認める発言もしている。のちに曹植の記した遠征記に影響され、建安七子の仲間である徐幹(じょかん)、応瑒(おうとう)、劉楨(りゅうてい)、王粲(おうさん)らと遠征に帯同するも、疫病により死没してしまう。実在の人物、陳琳がモデル。

孫権 (そんけん)

字は仲謀。孫策の弟。眉毛が太く、動物に懐かれやすい。発言の語尾を「じゃ」で締めることが多く、人前で憚ることなく放屁したり、身体を掻いたりする悪癖を抱えている。少年時代は虎の毛皮を被って虎と戯れるなど腕白だったが、18歳の若さで家督を継承してからは漢朝の命運、乱世の原因、董卓の功罪、天子の正当性、孫家三代の天命などさまざまな問いに心を囚われ、感情を表さなくなってしまった。曹操を警戒する家臣が抗戦派と同盟派に分裂した際も静観していたが、やがて前述の問いに答えを出すために曹操と戦うと宣言した。八人の将軍候補、八頭の獣を周瑜に推薦し、赤壁での勝利に貢献している。その後は気炎を発する場面も増え、ふた回りほど年齢の離れた曹操や劉備に対しても堂々と啖呵(たんか)を切っている。また、自らを「天下に挑む者」と称して、曹操と劉備が亡くなるまで傍観せよという張昭の献策を無視。曹操に臣下の礼を取りつつ合肥を狙い、劉備と同盟を結びつつ荊州を狙うスタンスを貫いた。その才覚は曹操からも高く評価され、「俺の子になれ」とまでいわれている。なお、仁(ジン)という虎を飼っており、死亡した際に喪に服すほど溺愛していた。実在の人物、孫権がモデル。

鄒氏 (すうし)

関中に性技を轟かす絶世の美女。張繍の叔父の張済(ちょうせい)の妻だったが、未亡人となって間もなく、曹操の愛妾となる。鄒氏を抱いた曹操は、肌膚(きふ)に触れるだけで際限なく精気が湧き上がるとの感想を漏らし、10日以上も鄒氏の屋敷に入り浸り、その肉体を楽しんだ。宛城の戦いでは襲撃の報告を受けても曹操との交わりを継続し、喘ぎ声を響かせて包囲を固めていた張繍軍の面々を困惑させている。その後、曹操を救出するべく寝所に駆け込んできた曹昂に斬られ、曹操の身を案じる言葉を遺して絶命した。この際、曹昂は鄒氏の容貌を傾城傾国の美しさと表現している。なお、鄒氏に懸想(けいそう)していた張繍は襲撃の寸前まで鄒氏の救出に拘泥し、賈詡から苦言を呈されている。

何晏 (かあん)

のちに老荘哲学を究めて玄学の創始者となる賢人。気怠い雰囲気を漂わせた男性で、眉毛がない。大将軍の何進(かしん)の孫として生まれたが、曹操の側室、尹氏(いんし)の連れ子であることから、曹操の養子として育てられた。4歳ほど年下の曹植とは悪友の間柄で、互いに「植(ちー)ちゃん」「晏ちゃん」と呼び合っている。身体が弱いにもかかわらず、五石散(ごせきさん)と呼ばれるドラッグを常用し、流行らせている。また、女物の着物をまとって裸足で外出するなど奇行が目立つが、放蕩に反して面倒見がよく、頭もいい。その才は曹操から毒薬にたとえられ、毒をもって毒を制するが如く、論語を読み解いて儒の毒に立ち向かうよう命じられた。曹操の娘を孕(はら)ませてしまい、流されるままに娶(めと)ることになるが、子供が産まれると育児が得意であることが発覚し、専ら子連れで登場するようになった。物語後半の鄴の様子は何晏の視点で描かれることが多く、彼がきな臭いと感じていた崇息観の鼻息男こと陳禕(ちんい)の目撃情報を劉曄に齎したことが、魏諷の乱を鎮圧する決定打となった。王欣太は、俳優の浅野忠信をデザイン上のモデルにしたと語っている。実在の人物、何晏がモデル。

周泰 (しゅうたい)

孫権に実力を見込まれた武将、八頭の獣の一人。眉毛のつながった男性で、巨大な斧で武装している。赤壁の戦いでは死の淵より舞い戻った曹操を目撃する。この際、渾身の一撃を見舞って曹操に冷や汗を流させている。濡須の戦いでは曹彰と遭遇した。のちに孫権の案内役を買って出て、孫権と曹操の対面を実現させている。実在の人物、周泰がモデル。

丁美湖 (ていみこ)

曹操の許嫁。のちに夫人となり、曹昂を育て上げる。曹操からは自己中心的で頑固、意地っ張り、洛陽一のじゃじゃ馬娘とまで揶揄されていたが、その美貌は曹操も認めるところで、本人の希望もあって20歳を待たずに傍に置かれることとなった。卞玲瓏と共に曹操を支えていたが、宛城における曹操の不徳により曹昂が死亡するに至り、怒り心頭に発して里へと帰ってしまう。この時、迎えに行くと語った曹操に対して、人として欠けているところがあると痛烈に批判した。その後、曹操のもとに戻ることはなかった。実在の人物、丁夫人がモデル。

吾粲 (ごさん)

孫権に仕える文官の男性。陳武とは共に虎狩りを楽しんだ旧知の間柄。大柄な陳武とは対照的に非常に小柄な体型で、初登場時にはモブ将兵から小僧と侮られている。赤壁の戦いでは陳武の船に同乗して荀攸の敷いた陣を偵察し、帷幕にて布陣図を作成。その陣立てが曹操とは別人の作であることを看破し、優れた観察力と智略を示した。陸口では周瑜と魯粛の軍議に同席し、曹操軍の篝火を火攻に利用できないかという呟(つぶや)きにより、周瑜の閃(ひらめ)きをうながした。のちに、危険すぎるとして献策を躊躇(ためら)っていた苦肉の計の存在を黄蓋に嗅ぎつけられ、その内容を吐露してしまう。結果として黄蓋は苦肉の計を実行し、曹操軍の撃退に成功している。以降は参謀役として重用され、濡須の戦いでは司令官となった呂蒙の補佐を務めた。樊城の戦いの直後には水軍一万を率いて漢水を進行した。この際、蒋欽から関羽の武に届かない分を智略で埋めて欲しいと頼まれ、快諾している。実在の人物、吾粲がモデル。

劉協 (りゅうきょう)

漢王朝(後漢)の第14代皇帝を務める男性。のちに「献帝」と諡号される人物。器量がよく、曹操をして聡明と言わしめた才覚の持ち主。劉弁と帝位を争う立場ゆえ、母親の王美人(おうびじん)を毒殺されるなど、不遇の幼少期を過ごす。天子となってからも董卓の横暴に苦しめられたが、董卓が死亡すると長安を脱出し、1年掛かりで洛陽へ帰還。悪名高き曹操の出現に警戒するも、悩み続けていた「天子とは何か」という問いに曹操が「人の形をした天」という答えを齎したことに感動し、奉戴を受け入れた。しかし、曹操のもとでも自由に詔勅を発せない状況は変わらず、傀儡(かいらい)であることに苦悩する。やがて董承の後押しで曹操誅殺の密勅を劉備に託すも、暗殺は未遂に終わった。その後、曹操との対話を経て禅譲の意向を示すも、曹操が人間の首席であることを望み固辞したため、「曹操という時代を照らす天」であり続けることを決意。以降は曹操への心酔を強め、圧倒的に不利な状況で行われた官渡大戦においても、曹操の勝利を信じて疑わなかった。なお、曹操との出会いから18年を経て、曹節を正妻に迎え良好な夫婦関係を築くも、この頃にはめっきりと太ってしまった。実在の人物、献帝がモデル。

曹昂 (そうこう)

字は子脩。曹操の長男。産みの親である劉夫人(りゅうふじん)の早逝により、丁美湖に育てられた。文武に秀でた青年で、親類からは優しい部分を除けば曹操に似ていると評されている。富士額や鋭角に曲がった眉尻など、曹操との外見上の共通点は多いが、曹操の血を引く人間として例外的に目の下の睫毛をデフォルメしたような「すじ」が存在しない。10歳の頃、曹操から星を見るように勧められ、それをきっかけに天文から天下の動きを察知する特技を身につけたが、曹昂曰く「ヘボ天文読み」であり、遠方の出来事を把握することはできても、身近な出来事を予見するのは苦手。宛城の戦いでは窮地に陥った曹操を生還させるべく立ち回り、その過程で足手まといとなる鄒氏を殺害する。その後、逃走中に曹操が名馬・絶影(ぜつえい)を失うと、自らの馬を曹操に託して戦死した。なお、この戦いでは曹昂が親しく交流していた曹操の甥の曹安民(そうあんみん)も討ち死にしている。実在の人物、曹昂がモデル。

何皇后 (かこうごう)

劉宏の妃。宮中における権力争いの中心人物である女性。もともとは庶民に過ぎなかったが、賄賂によって後宮に入り、美貌を武器に劉宏に接近。その後、見初められて皇后の座についた。劉宏が崩御すると、兄の何進(かしん)と共謀して息子の劉弁を帝位に据えることに成功し、太后となる。劉協を支持していた劉宏の生母、永楽太皇太后(えいらくたいこうたいごう)とは対立関係にあり、劉弁の即位から間もなく永楽太皇太后が死去したことから、毒殺したのではないかと疑われている。のちに董卓に取り入ろうとして失敗し、抱かれながらに首をへし折られて死亡した。実在の人物、霊思何皇后がモデル。

陳宮 (ちんきゅう)

独立後の呂布に仕えた軍師の男性。斜視のように瞳が外側を向いている。初め曹操に仕えていたが、配下の諫言を意に介さず徐州で虐殺を行った曹操に愛想を尽かして離反する。曹操の旧知である張邈(ちょうばく)のもとに呂布を招き入れ、周辺の群雄と共謀して反曹操連合を結成した。呂布の軍師となってからは特に理由のない暴力を受けたり、秘策を無下にされたりと散々な目に遭っているが、不思議な相性のよさを感じたとして、献身的に彼を支え続けた。しかし、下邳の戦いにて身内の裏切りにより捕縛され、間もなく呂布軍は敗退。曹操から再び仕えるよう誘われているが、これを固辞している。また、劉備に仕えるのはどうかと提案されているが、劉備を酷評したうえで処刑を受け入れた。この際、曹操は陳宮の遺族の厚遇を約束している。なお、相性のよさを感じていたのは呂布も同様で、陳宮が捕縛された際には、感情も露わに雄叫びをあげている。王欣太は、俳優のチャールズ・チャップリンとジャック・ニコルソンをデザイン上のモデルにしたと語っている。実在の人物、陳宮がモデル。

荀攸 (じゅんゆう)

字は公達。曹操幕下の軍師の男性。柔軟で執念深く、叡智を五徳で包み込んだ人物と評されている。また、董卓の誅殺に失敗して投獄されても屈しなかったことから、硬骨の男と称えられている。6歳年下の伯父、荀彧の招きで幕下に迎えられた。地味でしぶとい軍略が持ち味ながら、下邳の戦いでは大規模な水攻めを考案して勝利に貢献。また、拷問により曹操暗殺の密勅を察知するなど、諜報も得意としている。しかし、長坂では不用意に烏丸兵を動かし、張飛の覚醒を招いてしまった。また、長江下りでは安全を主張しながら襲撃を受け、予見の甘さを詰られている。のちに求賢令が発布されると、批評より創造が求められる新時代の訪れに焦る一方で、儒から解き放たれた芸学の容れ物が必要と考えるようになり、曹操の魏公就任に賛同した。反対する荀彧に建国の意義を説いている。晩年には尚書令を引き継ぐも、58歳で病没した。なお、物まねが得意で、程昱や郭嘉、荀彧の口調のみならず、思考まで再現して曹操に披露したことがある。王欣太は、思想家の佐久間象山をデザイン上のモデルにしたと語っている。実在の人物、荀攸がモデル。

卞玲瓏 (べんれいろう)

皇帝を産むという野心を抱いた妓楼の女性。天下人と巡り合うべく、幼少期より奏楽を学ぶなどして、女としての魅力を磨いていた。董卓の寵愛を受けていたが、戦乱の時代を戦い抜いて覇者となる可能性を秘めた若き英傑を求め、董卓のもとを去った。曹騰の葬儀にて曹操と出会い、野心を気に入られて側女(そばめ)となり、のちに正妻として迎えられた。妾を増やし続ける曹操と、子宝に恵まれない卞玲瓏自身の境遇に感情が昂ぶり、曹操に食って掛かることもあったが、奏楽を通して曹操と心の交流を行うようになると夫婦関係が改善し、間もなく曹丕を身籠った。年齢を重ねてからは、大所帯となった曹操の一族をまとめる女将のような役割を担うようになった。曹植が甄姚との駆け落ちを企てた際には、これを阻止するべく根回しを行っている。一族からの信頼も厚く、曹操の第五夫人の環霖明(かんりんめい)からは側室の子であろうと、自分の産んだ子供と同様に接する器の大きさを讃えられている。また、我が子を嫡子にせんと企む曹操の新妻、趙翠湍(ちょうすいたん)は卞玲瓏を評して、一族を総(す)べている自負と艶やかな威厳の持ち主と語り、野望を達成するにあたって最大の敵になると警戒している。実在の人物、武宣皇后卞氏がモデル。

趙儼 (ちょうげん)

曹操幕下の武将の男性。戦後の関中を担う者として鄭渾(ていこん)、徐奕(じょえき)と共に登場した。鐘繇、張既の築いた基盤を引き継ぎ、軍事を任された。曹操の漢中遠征には賈詡、蔣済と共に従軍。また、徐晃軍の司令として樊城の戦いにも参戦した。樊城を関羽軍の包囲から解放するべく、陽動作戦を指揮している。この際、関羽が水没した樊城を取り囲みながらも制圧に踏み切らない状況から、敢えて時間を掛けて呼応勢力を煽り、援軍の派遣を誘っていることを看破。関羽の狙いは長安を狙う劉備の北上を助けることにあると結論づけて、高い洞察力を示した。また、誰かが関羽に一騎討ちを挑み、指揮が滞ったスキに樊城への補給を行う作戦を考案した。その担い手として徐晃を指名し、死地へと送り込んだ。趙儼自身も川幅いっぱいの火船を率いて、趙累の率いる船団に突撃を敢行している。戦後は趙累に斬られて戦死した殷署(いんしょ)、朱蓋(しゅがい)こそ樊城復活の功労者であると曹仁に訴え、追贈の上表を約束させている。実在の人物、趙儼がモデル。

廖化 (りょうか)

劉備麾下の武将の男性。頭巾をかぶった強面で、関羽の補佐官のような立場にある。樊城の戦いで関羽が額に矢を浴びた際には、その傷跡を縫い合わせる役目を担った。同じく樊城の戦いで兵糧の輸送に乱れがあるという問題点が浮上した際には、兵站の是正を買って出て、南方の拠点へと一時的に帰還している。その過程で呂蒙が南郡を占拠したとの情報を得るも、関羽との合流を前に攻撃を受け、部下を失ってしまう。その後、飲まず食わずの逃亡劇を繰り広げたはてに孫皎と交戦。結果として敗北してしまうが、孫皎から静かで烈しい突きを繰り出す強者と評価された。実在の人物、廖化がモデル。

陳武 (ちんぶ)

孫権に実力を見込まれた武将、八頭の獣の一人。大柄な割れ顎の男性で、石突の部分にT型のにぎりを取り付けた特殊な槍を愛用している。怪力を誇り、赤壁の戦いでは船上の曹操軍に向けて槍を投擲(とうてき)し、兵士数人を同時に貫いてみせた。合肥の戦いでは奇襲に晒された孫権を守るべく張遼の前に立ちはだかっているが、得意の槍投げも張遼には通用せず、一刀両断されてしまった。実在の人物、陳武がモデル。

宋鎰 (そういつ)

若き曹操に仕えた副官の男性。曹操から悪党面と評されるほど人相が悪い。初めは北部尉に就任したばかりの曹操をからかっていたが、曹操に言い渡された打擲刑を堂々と受けきり、曹操の副官に抜擢された。曹操に代わって現場を管理する機会も多く、五彩棒(ごさいぼう)と呼ばれる打擲用の器具を振るって刑の執行を担当したこともある。曹操が北部尉を退いてからも重用され、のちに黄巾党として決起する太平道の組織への潜入捜査を行っていたが、戦闘部隊に組み込まれて抜け出せなくなったという情報を最後に、物語からフェードアウトしてしまった。なお、名称の表記にゆれがあり、初期は「宗鎰」と表記されていた。

徐盛 (じょせい)

孫権に実力を見込まれた武将、八頭の獣の一人。総白髪の男性で、眉毛だけが黒々としている。推挙された段階で五〇〇人規模の軍団を率いた経験があった。赤壁の戦いでは荀攸が烏林に急造した堅牢な砦を目視。自陣に戻り、その詳細を報告している。濡須の戦いでは甘寧と同時期に行方不明になってしまうが、翌朝になって五体満足での帰還をはたした。徐盛の語るところによれば、敵陣の只中で座礁するアクシデントに見舞われ、援軍を信じて戦い続けていたところ、気づけば敵陣を陥落させていたという。実在の人物、徐盛がモデル。

臧覇 (そうは)

曹操幕下の武将の男性。鼻の大きな割れ顎で、かつて張遼と同じように呂布軍の武将として活躍していた。劉備が曹操暗殺の密勅を授かった頃には泰山で山賊と化していたが、夏侯惇軍に敗北して捕縛され、曹操幕下に迎えられた。濡須の戦いでは愛馬を奪われた怒りで病床を抜け出してしまった張遼を担ぎ上げ、曹操軍の至宝であることを自覚し、自重するように諭している。また、満寵と入れ替わりに先陣の指揮を担った。常山の蛇に喩(たと)えられる波打つような用兵を披露して、敵対する呂蒙を驚嘆させている。実在の人物、臧覇がモデル。

郭淮 (かくわい)

曹操幕下の知将の男性。厚ぼったい唇が特徴で、漢中で劉備軍と対峙する夏侯淵のもとに副官として派遣された。数字に強く暗算も得意だが、地べたの小石を算盤代わりに用いて計算の補助とすることもある。夏侯淵は当初、郭淮を軍師として育成するのが自分の任務ととらえていた。しかし、郭淮の卓越した演算能力を認めると、郭淮を曹操からの贈り物と解釈し、自らの右腕として重宝するようになった。夏侯淵が戦死すると、彼の遺した精兵に絶え間なく任務を与えることで動揺を押さえ込んだ。また、事態の収拾に尽力しながらも戦況報告を怠らず、曹操から高く評価されている。その後は蔣済の発案で、寡兵を率いて漢水に潜伏。首級に5万銭、船に20万銭、斥候の首に30万銭、文書に30万銭という多額の褒賞金を設定して山賊を動かし、劉備麾下(きか)の孟達(もうたつ)を牽制した。樊城の戦いの頃にも隠密部隊としての活動を継続し、漢水を遮断して劉備と関羽の連絡を滞らせるという手柄を挙げている。実在の人物、郭淮がモデル。

張角 (ちょうかく)

鉅鹿郡に本殿を構える新興宗教、太平道の教祖を務める男性。信者からは「大賢良師」と呼ばれている。長髪で、額に黄巾を巻いており、その下からUの中に点を入れたような形の紋様が覗いている。神通力めいた能力で病に苦しむ人々の治療を行い、多数の信者を獲得した。さらに予知能力によって天変地異の発生を予言し、的中させて数十万の信者を抱えるに至った。関羽と対面した際には、彼が遥(はる)か未来に神として崇(あが)められると予言するも、佞言(ねいげん)と一喝されてしまう。当初は天下に興味を示さなかったが、弟の張宝(ちょうほう)と張梁(ちょうりょう)の後押しを受けて、新王朝の樹立を意識するようになる。やがて巷(ちまた)に広がる「蒼天已死」の文言に漢王朝の終焉を感じ取り、「蒼天已死黄天當立歳在甲子天下大吉」のスローガンで信者を煽り、黄巾党を発足した。のちの世に黄巾の乱と呼ばれる農民一揆を引き起こすも、志半ばにして病に倒れ、それを契機に乱は終息へ向かっていった。なお、死に際には張角自身の吐き出した血の痕から、3匹の龍が覇を競う乱世の到来を予言している。実在の人物、張角がモデル。

張昭 (ちょうしょう)

張紘(ちょうこう)と共に「江南の二張」と謳われた賢人の男性。初め孫策に仕え、その覇道を支えた。孫策の死後、孫権幕下でも重用され、最高顧問として大きな発言力を発揮した。曹操の南進にあたっては乱世を長引かせるべきではないと説き、徹底抗戦を主張する周瑜と対立。血涙を流して孫権に降伏をうながしている。その後も血気盛んな若者に冷や水を浴びせるストッパーの役割を担い、時に疎まれながらも、孫権の陣営には欠かせない人材として長生きを望まれている。なお、頭が不自然なまでに長いうえに、加齢に応じて伸長し、最終的な頭の長さは初登場時の数倍にも及んでいる。実在の人物、張昭がモデル。

典韋 (てんい)

曹操の警護を担当する勇将の男性。頭に角のような突起の生えた巨漢で、募兵の旅に出ていた夏侯惇に実力を見出され、曹操幕下に迎えられた。外見に恥じぬ怪力の持ち主で、夏侯惇が兗州の牧(ぼく)となった曹操へ贈った重さ500斤の牙門旗を片手で掲げ、曹操軍の面々を驚かせた。その膂力(りょりょく)は許褚に匹敵し、槍を引き合う力比べでは一進一退の戦績を記録している。実直な性格で、曹操から夏侯惇と同様に義俠心があり、信用に価する人物と評価された。宛城では曹操の寝所の警護を担当した。にぎり飯に毒を混ぜ込まれて視力を失いながらも、80斤の双戟を手に奮戦し、刺客の胡車児(こしゃじ)と相討ちに持ち込んでいる。実在の人物、典韋がモデル。

蔣済 (しょうせい)

字は子通。曹操に仕える文官の男性。ほとんど黒一色の目を持ち、以前は郡の計吏を担当していたが、温恢の副官に抜擢され、揚州別駕(べつが)となった。程昱は要衝の地を任せるには若すぎるとの危惧を口にしているが、初陣で孫権の猛攻を凌いだ実績があり、曹操から高く評価されている。曹操に合肥城の案内を行った際には、孫権の動きに戦略以外の思惑を感じたと語ってさらに評価を高め、曹操から大局を任せられる人材と認められている。張遼らを守将に据えた215年の合肥の戦いでは、孫権の旗艦に火攻を実行した。油と生きた豚を満載した楼船に火を放って突撃させる手法で、孫権の渡河を妨げている。その後は側近として曹操に侍り、漢中へ従軍した。劉備が城塞を築いた天蕩山を無益な闇の山と表現し、漢中からの全面撤退を主張した。曹操は腹立たしさを感じながらも、自分以上に曹操らしい策と認め、蔣済の案を採用している。関羽が樊城を攻めた際には、曹操に同行して長安、洛陽と従軍。司馬懿と共に孫権に関羽の本拠地を攻撃させる策を提案している。なお、回想シーンで劉馥から受け継いだ昱の石を首に提げて戦っている姿が確認できる。実在の人物、蔣済がモデル。

簡雍 (かんよう)

劉備麾下に身を置く古株の男性。小柄な体型で、右眉の部分に縦向きに刀傷が通っている。荊州に残しても役に立たないと考えた劉備が蜀へ同行させ、愚痴を聞かせる相手として重宝していた。劉備が100日にわたって歓待を受けている最中、劉璋に気に入られて酌をさせられていたが、その陰で帯飾りをちょろまかしており、劉備に従って初めておいしい思いができたと振り返っている。劉備が雒城を包囲した際には、劉備の鎧兜をまとって影武者を務めた。体格が違い過ぎてとても劉備には見えなかったが、そのあいだに劉備は葭萌関に現れた馬超と対面し、従えることに成功している。劉備軍が成都を包囲した際には、敵はすでに怯えていると主張し、単身で劉璋と対面。財貨が欲しいのではなく、豊かな国が必要なのだと語って劉璋を口説き落とし、無血開城を成立させた。実在の人物、簡雍がモデル。

陶謙 (とうけん)

徐州の牧を務める男性。曹操が父親の曹嵩(そうすう)を兗州に招いた際に護衛の手配を任されたが、部下の逃亡により山賊の襲撃から曹嵩を守ることができず、曹操が徐州に攻め入る口実を与えてしまった。徐州の民百姓までもが殺戮(さつりく)の対象となっている状況を鑑みて、一時は陶謙自身の首と引き換えに曹操への和議を申し込む考えだったが、公孫瓚のもとより駆けつけた劉備に制止され、劉備に曹操の対応を一任する。その後、曹操への恐怖から病に倒れるも、遺言を用いて劉備を徐州の牧へと押し上げた。実在の人物、陶謙がモデル。

糜夫人 (びふじん)

劉備の妻。名は「亀姸」。おっとりした雰囲気を漂わせている、おかめ顏の女性。右口許に大きな黒子がある。間延びした口調で話し、語尾にハートマークが付くことが多い。当人曰く、自分が夜伽(よとぎ)に選ばれる時、劉備は必ず悩み事を抱えている。その言葉を裏づけるように、劉備は荊州で燻っていた頃、彼女がいないと眠れないという旨の発言をしている。長坂の逃避行では、劉備の妻である甘夫人(かんふじん)の御車に同乗した。隊列が襲撃に晒される中、気丈にも明るい未来を語って甘夫人の不安を和らげた。しかし、襲撃によって馬車が横転した際、木材が背中に突き刺さって死亡した。その姿は甘夫人の産んだ劉備の子、阿斗(あと)をかばっているようにも見えた。なお、甘夫人は趙雲と劉冀の活躍で生き延びているが、さして間を置かずに亡くなっている。実在の人物、糜夫人がモデル。

劉宏 (りゅうこう)

漢王朝(後漢)の第12代皇帝を務める男性。のちに「霊帝」と諡号(しごう)される人物。肥満体の暗君で、悪徳を働く性質ではなかったが、張譲を筆頭とする十常侍の甘言に惑わされ、彼らの専横を許してしまった。やがて病に倒れると、利発な劉協を後継とする意思を覗かせたが、劉弁を後継としたい何皇后の妨害により、正式に指名できないまま崩御した。死してなお宮中に波乱を招いてしまった。なお、曹操は端午の節句の宴席にて劉宏と対面したことがあり、先が見えるとの感想を抱いている。実在の人物、霊帝がモデル。

曹植 (そうしょく)

字は子建。曹操の子で、卞玲瓏の産んだ3番目の男子。奇抜な髪型で派手な服装を身につけ、何晏と連(つる)んでいることが多い。7歳にして荀彧の講義を理解するなど、幼年期から頭脳明晰だった。この頃は淡い髪色だったが、成長後は濃い髪色に変化した。14歳の頃、激情に任せて壁面に記した詞藻が曹操の目に止まり、詩人としての才能が発覚。これをきっかけに、才がなければ子供の名すら覚えない曹操に存在を認知される。間もなく甄姚への許されぬ恋慕を経験し、詩で人の心から乱世を終わらせることこそ、天下人の子である自らの使命と考えるようになった。その後、御前で行われた孔融との論戦を経て、建安文学の担い手として台頭。自ら記した遠征記は記録文書の域を超え、曹操に身が粟立つとまで言わしめている。奏楽、軍事、政まで幅広い能力を示し、唯才主義に照らせば曹操の後継者になり得るとまで噂されたが、遠征記が遠因となって建安七子の陳琳ほか4名が疫病に罹り、彼らの死をきっかけに酒浸りとなってしまう。しかし、詩才はますます冴え渡り、27歳にして詩聖の域に到達した。曹操も我が子が曹植自身の才を超越した事実を認めている。実在の人物、曹植がモデル。

劉馥 (りゅうふく)

曹操幕下の文官の男性。非常に毛深く、上の歯が1本抜けている。曹操から直々に任命されて揚州刺史となり、荒れはてた空城に単身赴任した。過酷な労働と引き換えに豊かな生活環境を与えることを信念に政を行い、わずか8年で無人の空城を7万の人口を擁する一大防衛拠点、合肥城へと生まれ変わらせた。その功績は堤防修復や灌漑整備に始まり、稲作、教育、防犯まで多岐にわたる。曹操は無の状態から一を生むことのできる人物として劉馥を絶賛していたが、赤壁の戦いの頃に病没した。曹操は劉馥が病床にあるとの報告を受けた際に、華佗が招きに応じていれば救えたと悔しさをにじませている。劉馥の偉功は死後にまで及び、蔣済は劉馥の定めた防衛の規則に従うことで、赤壁の戦いの直後に押し寄せた孫権軍の猛攻を跳ね除けることに成功している。なお、入手経路は不明だが、昱の石を所持していた。生前はこの石を器に沈めて食事の嵩(かさ)を見た目だけ増やし、城を守る者に必要な精神を説いていた。実在の人物、劉馥がモデル。

満寵 (まんちょう)

曹操幕下の武将の男性。額に菱形の傷があり、獰猛さと堅実さを兼ね備えた用兵が持ち味。厳つい外見に反して茶目っ気のある性格で、主君の息子である曹丕を焚きつけ、流鏑馬(やぶさめ)のような演出で自軍の逃亡兵を処刑させたことがある。この際、秘密裏に的を増やして曹丕の実力を図っているが、不遜と責められることもなく、互いの手腕を賞賛し合っている。長江にて曹操軍の船団が奇襲を受けた際には、荀攸に従って布陣を任された。要塞のごとき巨大な陣をわずか2日で構築し、孫権配下の将兵を驚嘆させている。樊城の戦いでは曹仁に従い、水害に苦しむ兵士たちを鼓舞した。また、徐晃らの援軍が樊城の近辺まで近づくと、関羽軍の包囲網を破るべく出撃。この際、関平に武器を破壊されて引き下がっているが、数合の打ち合いで関平の首に傷を付け、痛み分けに持ち込んでいる。のちの再戦では二刀を用いて関平を圧倒するも、討ち取るには至らなかった。なお、非常に口が悪く、濡須の戦いでは馬を盗まれたことに腹を立て、卑劣、姑息、陰湿、外道と敵を散々に扱(こ)き下ろしている。また、関平を罵った際には下ネタを多分に含む罵倒を行い、年下の関平から人品が悪いと咎(とが)められている。実在の人物、満寵がモデル。

韓遂 (かんすい)

関中・涼州軍閥の中心人物である男性。大柄な体型の禿頭で、生きて抗い続けてこそ叛乱という哲学のもと、漢に30年以上も抵抗している。70近い老齢ながら、複数の女性を寝所に連れ込むなど意気軒昂で、好物の生卵から雛が出ようと気にせず食べてしまうほどの豪胆な性格をしている。直属の部下に成公英(せいこうえい)がおり、韓遂の口に生卵を割り入れるのは専ら彼の仕事である。馬超が乱を起こすと意気揚々と叛乱軍に名を連ね、長老の役割を担った。劉備との協力も視野に入れて冷静に立ち回っていたが、賈詡の離間の計の一環である曹操との単馬会語に応じたことで、同胞からの信頼を喪失。やがて叛乱軍の大敗を受けて涼州の奥地へと撤退した。新たな乱を画策するも、病により亡くなる。なお、若い頃に北部尉の曹操を揶揄した罪で、打擲刑(ちょうちゃく)を言い渡されたことがある。この際、刑台を破壊するほどの怪力と政治への関心を買われ部下にならないかと誘われているが、妾を奪われるだけの結果となった。また、馬超の父親の馬騰(ばとう)と争った経験があり、この際に馬超の母親と弟を殺(あや)めているが、馬超を「乱の芽」と評価し、死の間際まで彼の身を案じていた。実在の人物、韓遂がモデル。

張既 (ちょうき)

曹操に仕える文官の男性。胸元を覆い隠すほどの髭を蓄えており、目が小さく、人を惹きつける深く澄んだ声音の持ち主。極度の人見知りだが外交が得意で、馬超の父親の馬騰(ばとう)を口説き落とすなどの功績から、京兆尹に任命された。関中・涼州軍閥との戦いでは、韓遂の性格から行動を的確に予測した。また、賈詡が離間の計を考案した際には使者として韓遂の陣を訪問し、敵陣を無警戒に闊歩する恐ろしい男と評された。戦後は関中・涼州の復興に従事した。その甲斐あって、張魯征討の際には河東郡太守の杜畿(とき)が兵站管理を滞りなくやり遂げている。人材の獲得にも熱心で、韓遂の腹心、成公英(せいこうえい)を説得し、曹操に帰順させた。また、寒貧こと在野の賢人、石徳林(せきとくりん)の説得に10年もの時間を費やしていたが、こちらは失敗に終わっている。劉備が漢中を攻めた際には曹洪に従い参戦した。氐族の長、強端(きょうたん)と交渉して北道を封鎖し、馬超と羌族の結託を阻害した。曹洪不在の本営が襲撃された際には、動揺する兵士を落ちつけるため、ケガを押して指揮を執っている。この時、軍師と誤解されて張飛に狙われてしまうが、すんでのところで曹洪が帰陣し、命を救われている。実在の人物、張既がモデル。

陸遜 (りくそん)

孫権配下の武将で、優雅な物腰の二枚目の男性。名門出身で文武両道とすべてを兼ね備えているが、その勇名は江南に留まり、中華規模で見れば無名の将軍に過ぎなかった。しかし、それを利用する形で荊州攻略の隠し球として起用され、呂蒙と共に関羽の拠点・公安を無血開城に導くことに成功。誰もが恐れる関羽軍の実情を冷静に分析して、「旧体質で兵站の管理能力が乏しい」「無闇に捕虜を取るので兵糧に困る」と総括した。呂蒙と別れてからも長江沿いの拠点を次々と奪取するなど活躍した。その後、三〇〇〇人を率いて関羽包囲網に加勢し、関平を討ち取っている。実在の人物、陸遜がモデル。

水晶 (すいしょう)

褐色の肌をした胡人の少女。茶屋の夫婦に拾われ、下働きをしながら暮らしていた。当時16歳の曹操と出会い、どんな人間に対しても偏見を持たない彼の心持ちに惹かれ、恋仲となる。曹操との逢瀬(おうせ)の際にはさまざまな異国の物語を聞かせ、最も大切にしている異国の言葉として「アモーレ」を教えた。また、曹操が天下人になると予想し、本人にも伝えている。のちに、水晶との結婚を決意した曹操の来訪と入れ違いに張譲のもとに身売りされ、身体を弄ばれた挙句に死亡した。亡骸となってからも張譲の企みで曹家の邸宅に裸でつるされるという辱めを受けているが、その遺体は曹操の意思により曹家の墓地に埋葬された。

凌統 (りょうとう)

孫権に実力を見込まれた武将、八頭の獣の一人。前髪を編んだ青年で、余杭の俠客、凌操(りょうそう)の長子として生まれ、十代の若さで父親の軍団を受け継ぎ、指揮をするようになった。赤壁の戦いでは曹操軍で最高位の軍師にまで登りつめた荀攸に肉薄するなど活躍した。合肥の戦いでは殿を担当し、楽進に重傷を負わせている。その後、張遼にも挑んでいるが、胴を斬りつけられ、難なく突破されてしまった。実在の人物、凌統がモデル。

曹丕 (そうひ)

字は子桓。曹操の子で、卞玲瓏の産んだ最初の男子。曹昂の早逝により嫡男となり、のちに太子に指名された。外見は曹操に酷似しており、6歳で弓、8歳で騎射を習得するなど早熟。尊大で冷静沈着な性格ながら、曹植と交わす言葉の節々には身内に対する面倒見のよさも垣間見られる。親ゆずりの好色家でもあり、袁紹の次男の袁煕(えんき)から甄姚を奪い取って妻とした。漢中にて劉備の動きが活発化した際には討伐に向かう考えを示したが、漢中を鶏肋(けいろく)と表現して曹操の怒りを買い、出征を断念した。魏諷が乱を起こした際には鎮圧に動き、魏諷の首を自ら斬り落としている。また、劉曄の諫言を退け、魏諷とつながりのある者を次々と処刑した。この粛清により、各地で多発していた賊徒の暴動が鎮静している。なお、曹操とは人材に対する向き合い方が異なり、曹丕自身の統べる次代に奇才は不要、奸雄が存在できない世の中を作るなど、唯才主義を否定する発言をしている。実在の人物、曹丕がモデル。

劉冀 (りゅうき)

字は公徳。劉備の長子。まじめな性格の少年で、小沛城に曹操軍が押し寄せた際には、逃亡した劉備に代わって家族を守ろうとした。この時、曹操に劉備から乱世の処世術を教わっているかと問われ、「まず子供が覚悟し、次に女が覚悟し、主君は覚悟しなくてよい」という儒教的な価値観に基づいた心得を語っている。直後の戦いでは、関羽を降伏させる人質として利用されてしまう。この際、自分が抗(あらが)えと命じれば関羽は戦死するであろうことを理解し、黙り込むことで関羽の命を守った。長坂の戦いの頃には青年に成長し、劉備の若い頃にそっくりで、上品だが根は俠者と評されるようになっていた。しかし、当人は劉備の根幹である俠の精神が理解できず、苦悩していた。また、民草が過酷な行軍に身を投じている中、馬車に籠って情事に耽る劉備に浅ましさを感じ、悔し涙すら流している。しかし、家族や麾下を顧みない劉備の姿と幼少期に語った処世術が重なっていることに思い至り、劉備が天下人であることを確信する。その後、劉備に代わって家族を守るべく奮闘するも、関羽との合流を目前に矢を受けてしまう。その後の生死は不明。

李烈 (りれつ)

爆烈団を率いる壮年の男性。孔子(こうし)の唱える徳治主義の欠点を指摘するなど学のある人物で、始皇帝(しこうてい)にあこがれて世直しを企んでいる。弓矢の達人でもあり、配下を殺された怒りから夏侯惇の命を狙っていたが、夏侯惇の助太刀に現れた曹操との舌戦に敗北。間もなく戦場に割って入った許褚に討ち取られた。

張繍 (ちょうしゅう)

曹操幕下の武将の男性。涼州出身で、ぎょろ目で頰が弛んでいる。口癖は「うむ」。かつて董卓の騎馬軍団に身を置いた勇敢な人物だが、予想外の事態にはめっぽう弱い。しかし、参謀の賈詡からは、思った以上に手強く、自分の軍略と嚙み合っていると評価されている。宛城を拠点としていた頃、賈詡の策を取り入れて偽りの降伏を仕掛け、曹操を散々に打ち負かしている。曹操との再戦においては于禁の率いる軍団と真正面から激突。賈詡に囮(おとり)に使われたことを理解しながら、逆に血を滾(たぎ)らせて勇猛果敢に戦っている。曹操と袁紹の決戦の機運が高まると、賈詡の進言を受け入れて曹操に降伏した。この際、賈詡のために土下座で許しを乞い、正式に幕下に加わることを許された。帰順後は何かと周囲と衝突しがちな賈詡の潤滑油として立ち回っていたが、劉備を攻撃した際に賈詡の諫言(かんげん)を跳ね除けて突出。趙雲に胸部を突き刺されて死亡した。なお、長子の張泉(ちょうせん)は魏国の長楽衛尉となるが、魏諷の乱に参加した罪で粛清の憂き目に遭っている。実在の人物、張繍がモデル。

橋玄 (きょうげん)

「洛陽の鬼神」と恐れられる司法官の男性。決して賄賂を受け取らず、法にもとづいて厳格な裁きを下す人物として有名。曹操が張譲の屋敷で衛兵一八人を殺傷した事件の裁きを担当するが、張譲から曹操に斬首を言い渡すように脅され、自らの命と司法官としての責任の狭間(はざま)で苦悩する。しかし、毅然として正当防衛を主張する曹操の態度に感じ入り、彼を無罪放免とすることで、法の番人としての筋を通した。この審議の場にて、曹操を「治世の姦賊」「乱世の姦雄」と評している。実在の人物、橋玄がモデルだが、同じく実在の人物である許劭の要素も加えられている。

関平 (かんぺい、かんへい)

関羽の長男。外見は髭の量を除いて関羽に酷似している。名前を知っている相手にも武人の礼儀として名乗りを強要するなどの拘(こだわ)りがあり、若いのに古臭いと揶揄されている。しかし、その実力は確かで、趙累からは近いうちに関羽よりも強くなると太鼓判を押されている。樊城の戦いでは東門の包囲を担当し、重刀を振るって満寵と互角の戦いを繰り広げた。しかし、満寵と再戦した際には苦戦を強いられ、外より現れた呂建(りょけん)、徐商(じょしょう)の部隊の入城を許してしまう。麦城では裏切り者の潘濬(はんしゅん)が使者として現れたことに激昂。怒りに任せて潘濬を斬ろうとするも、関羽に咎められ、引き下がっている。その後は南へと猛進する関羽軍の殿(しんがり)を務めて、損害を数百名に食い止めるなど活躍した。陸遜に左腕を落とされても果敢に立ち向かったが、額を貫かれて戦死した。なお、ルビ表記にゆれがあり、35巻以降は「かんへい」と表記されている。実在の人物、関平がモデル。

黄蓋 (こうがい)

程普(ていふ)、韓当(かんとう)と共に孫家三代を支えた宿将の男性。黄巾党の討伐にも参戦し、若き曹操の活躍を目撃している。孫堅の死後は一時的に袁術軍に取り込まれていたが、伝国の玉璽と引き換えに解放され、再び孫家に仕えることになった。歴戦の将軍としての声望は曹操にも届いており、その威風は存在するだけで郡を統べることすらできると評価されている。赤壁の戦いの前哨戦では曹操軍の旗艦を奇襲する船団の指揮を務めた。霧で見えないと嘯(うそぶ)いて白旗を黙殺し、降伏を望む兵士を容赦なく射殺。旗艦を沈没させても矢の雨を降らせ続け、水面に浮かんでくる兵士まで徹底的に鏖殺(おうさつ)した。その後、曹操を討ち漏らしていたことが発覚すると自責の念に駆られ、吾粲の考案した苦肉の計を実行する。これは自らの身体に鞭を入れたうえで偽りの投降を仕掛け、曹操軍を内側より放火するという計略で、黄蓋の献身により、曹操軍は大打撃を被っている。実在の人物、黄蓋がモデル。

山隆 (さんりゅう)

曹操軍の一兵卒の男性。前歯の抜けたスキンヘッドで、下唇と鼻と耳にピアスを付け、右腕に虎、左腕に龍の刺青をしている。また、眠っている同僚を起こすのに血が出るほどの強さで叩くなど粗野な性格で、関西弁を使用する。兵士になった理由は「食い逸(はぐ)れることがない」「異性からもてはやされたい」などの即物的なものばかりで、天下の趨勢や曹操の実像などは意識したことすらなかった。官渡大戦にて右翼先陣に配置され、一時的に兵卒に身を落としていた夏侯惇と出会い、あこがれるようになる。一度はほかの兵卒に唆されて過酷な戦場からの脱走を企てているが、夏侯惇と肩を並べて戦える喜びが恐怖心に勝り、踏み止まる道を選んだ。その後もしぶとく戦い続けたが、袁紹軍に対して反撃に転じた際に敵兵と相討ちになり死亡する。その死に様は戦場で最も死に易い兵卒の象徴として、夏侯惇の右目に焼きつけられた。

楽進 (がくしん)

字は文謙。曹操幕下の勇将の男性。身体に無数の傷が刻まれており、宛城の戦いの帰還兵として登場した。小柄な体型ながら鋭く槍を振るう点を評価され、曹操から直々に武将として抜擢された。曹操を前にして気後れしないほどの剛毅木訥(ぼくとつ)な性格で、夏侯惇からの信頼も厚い。戦場にあっては号令ではなく、自ら一番槍として兵士を導くスタイルを貫いているが、意志の強さゆえに自重を知らず、人の意見を突っ撥ねて死地に乗り込んでしまうことも少なくない。初めて兵を率いた張繍軍との戦いでは、荀攸の制止を無視して突出。多くの傷を負っているが、結果として味方を鼓舞することに成功した。長坂でも荀攸の言葉を振り切って張飛に一騎討ちを挑み、顔面と腹部を切り裂かれる重傷を負っている。この際、張飛の一撃を凌ぐために初めて後退し、周囲を驚かせた。合肥の戦いでは孫権追撃の口火を切って凌統と対決。脇腹を貫かれながらも前進を続け、張遼が孫権に肉薄するスキを生み出した。その後も止血を済ませると、瀕死の身体を引きずって戦場に舞い戻っている。しかし、抉(えぐ)られた臓腑も癒えぬうちに疫病に感染し、218年に絶息。その最期には不仲だった張遼すら涙を流した。実在の人物、楽進がモデル。

孔融 (こうゆう)

のちの世に建安七子と呼ばれる男性。文人の一人。儒の創始者である孔子(こうし)の20代目の子孫。福耳が特徴で、額の中心に黒子のような点があり、腹部に届くほど長い髭を撫(な)でる癖がある。気が短く尊大だが、その詩賦は格調高く、文言の彼方に重みが広がると評価されている。劉協の御前で行われた宴席では、乱世を主題とした六言詩を披露し、劉協に感動の涙を流させた。しかし、その出自から文学には一家言あり、「天下の中央に侍る文人にとって、言葉は時代の精神を表現するためにある」などと主張して憚(はばか)らない。同宴席では曹植の恋歌を痛烈に批判し、陳琳と対立。互いに一歩もゆずらぬ文学論争を繰り広げた。この際、口論もまた詩であるという曹操の主張に背中を押され、儒の精神に立脚した持論を展開すると共に、曹操の一族が宮中に続いて文芸への侵食を始めたと批判している。曹操との関係は後年まで改善せず、やがて曹操への皮肉や意見の曲解を繰り返したとして、荀彧の助命嘆願も虚(むな)しく処刑されてしまった。実在の人物、孔融がモデル。

公孫瓚 (こうそんさん)

字は伯珪。天下を争う群雄の一人。北平太守を務めた男性で、白馬のみで編成された騎馬隊・白馬義従(はくばぎじゅう)で知られている。劉備の兄弟子でもあり、盧植(ろしょく)という人物のもとで3年ほど机を並べていたことがある。反董卓連合には自ら軍を率いて参戦した。その際には劉備、張飛、関羽を帯同させた。冀州の清河郡で行われた袁紹との戦いでは趙雲より従事の申し出を受けているが、袁紹との内通を疑って信用せず、器の小ささを露呈させる結果となった。その後は幽州の易京へ逃げ込み、10重の塹壕と土堤、1000を超える城楼に守られた堅固な拠点に籠城。一代での天下獲りに拘泥することもなくなり、10年分の食糧備蓄に物を言わせて乱世の終焉まで時間を稼ぐ構えだったが、工作により地中から土堤を崩され、居住区を袁紹軍に取り囲まれてしまう。自ら妻子を絞め殺す展開になっても余裕を見せていたが、黒山賊(こくざんぞく)と結ばせた息子の続(しょく)の生首を見せつけられて深く絶望した。最期は自ら放った炎の中に消えていった。実在の人物、公孫瓚がモデル。

趙累 (ちょうるい)

劉備麾下の武将の中年男性。荊州を守る関羽を都督として支援している。関羽からは小胆を装う与太者、豪気ゆえに世間からあぶれた人材と評されている。樊城の戦いにおいて兵站管理や援軍要請を担い、尊大な関羽をして、戦に集中できるのは趙累のおかげと言わしめた。また、優れた洞察力を発揮して、李典弩より放たれた大矢を通信と看破した。曹操軍の殷署(いんしょ)が夏侯惇、朱蓋(しゅがい)が張遼に変装して現れた際には、その正体を見破ったうえで、自ら討ち取るなど活躍している。臨機応変に動くことのできる人物だが、関羽が孫権軍への攻撃を決意した際には、劉備の描く天下取りと異なる行動を諫めるのが自分の役割だと理解したうえで、関羽に従う道を選んでしまう。この時、自分は過酷な戦いに臨む関羽のお供をするために生まれてきたのだと悟っている。その後も関羽に従い奮戦するも、殺到する兵士に斬られて死亡した。なお、関平に目を掛けており、死の間際には成長した関平の姿を幻視して、私の宝と表現している。実在の人物、趙累がモデル。

譙の長老 (しょうのちょうろう)

知性のある赤い亀。曹操や夏侯惇が幼少期に転がして遊んでいたという。鋭い牙や枝分かれした角、髭や鬣(たてがみ)、毛の生えた尻尾などの特徴は瑞獣、龍亀を彷彿とさせる。赤壁の戦いから数か月後となる209年の春、譙に帰郷した曹操の前に姿を現した。その後も譙を舞台としたエピソードに登場し、物語を俯瞰するような視点から見守り続けた。220年の正月には曹操の死期を悟り、譙を発って洛陽へと疾走。曹操との対面は叶わなかったが、葬儀に姿を現している。また、途中で合肥へ向かう夏侯惇とすれ違っており、その姿に何かを感じた夏侯惇は洛陽に引き返し、曹操の死に際に立ち会うことになる。

郭嘉 (かくか)

字は奉孝。曹操幕下の軍師の男性。穎川群陽翟出身。目尻の切れ上がった三白眼が特徴で、頭に天体が詰まった賢人、成果より戦果を求める純粋軍師と評されている。初め袁紹に招かれ、意見の相違から首を刎(は)ねられそうになるも、「郭嘉を殺した愚者として歴史に名を残す」という旨の尊大な脅し文句で処刑を免れた。荀彧の呼び掛けで曹操を訪ねた際にも投獄の憂き目に遭っているが、獄中でも声高に曹操の批評を繰り返した点を評価され、幕下に迎えられた。剛直な性格で融通が利かず、目上の相手にも威丈高に捲(まく)し立てる悪癖を抱えているが、曹操からは激しているほどよい案を出すとして見逃されている。仕官後は軍略面で活躍し、呂布軍との戦では大胆にも曹操を囮に20倍もの兵力差を覆している。しかし、曹操が中原を制すると素行が悪化。酒色に溺れて軍議をサボり、後進育成に励む程昱らを馬鹿にする有様だった。207年には万里の長城を乗り越えての北伐を提案する。軍師としての再起をはたすも、蹋頓の撃破から間もなく病に倒れてしまう。病床でも軍略を練り続けたが、翌年正月に38歳で死くなる。死の間際に献策した才女、蔡文姫(さいぶんき)の奪回策は赤壁の戦いの頃に成就した。実在の人物、郭嘉がモデル。

曹節 (そうせつ)

曹操の娘。天真爛漫な性格をしている。姉の曹憲(そうけん)、妹の曹華(そうか)と共に劉協の後宮に迎えられ、貴人となった。曹操に強く惹かれ、その物語を好んだことから劉協と意気投合し、寵愛を受けるようになる。劉協の妻である伏皇后(ふくこうごう)が過去に曹操の暗殺を企んでいた罪で失脚すると、新たな皇后に選ばれ、仲睦まじい夫婦となった。実在の人物、献穆曹皇后がモデル。

阿トウ (あとう)

獣と同質の気配を持つ異形の大男。作中詩では赤い身体、鼠の目、虎の歯、嬰児(えいじ)の声を持つ人食いの獣と語られているが、好物としているのは馬の生首である。また、言葉を発することはできないが、阿トウ自身と似た顔立ちの幼児の群れと鈴音を頼りにした目隠し鬼ごっこで戯れている場面が描かれており、音楽を聴くことで穏やかな表情になるなど、感情があるように読み取れる描写も存在する。面識のあった丁奉の呼び出しに応じて関羽の包囲に参加。「関羽は悪魔である」という旨の言葉を刷り込みの如く吹き込まれた結果、関羽に敵意を持つようになった。阿トウの決死の突撃は関羽を討ち取る決定打となるが、阿トウ自身は関羽に左目を斬られた上に腹部を貫かれ、そのまま動かなくなってしまった。その後、関羽捕縛の功績を讃えられ、孫権から「馬忠」の名前と特等の褒美を与えられている。実在の人物、馬忠がモデル。

蹋頓 (とうとつ)

烏丸族の首領を務める男性。怪鳥の如き容貌で、目の色は常人とは異なり、口は嘴(くちばし)のように突き出ている。鳥の羽根を素材とした外套をまとっており、両手を広げた際のシルエットは翼を広げた鳥そのもの。地面に挿した鳥の羽根で空気の流れを観察し、周辺の状況を察する力を持つ。暗闇でも戦場を容易に見通せるほど夜目が利き、漢民族の耳には届かない特殊な号令を発するなど、さまざまな異能を備えている。漢民族の言語を話すことも可能で、袁紹と同盟を組んでいたよしみから、袁紹の死後には彼の次男、袁煕(えんき)、三男の袁尚(えんしょう)を膝下に迎え入れていた。207年には北伐に乗り出した曹操軍を迎撃。烏丸族騎馬隊の卓越した踏破能力を遺憾なく発揮して、断崖での行軍に不なれな曹操軍を翻弄した。また、漢民族に虐げられていた周辺騎馬民族との連携も進めており、曹操軍の打倒後は万里の長城を越え、逆に中原へと攻め入る心算だった。しかし、援軍の到着前に白狼山の本営を奇襲され、郭嘉の軍略と張遼の武の前に敗れた。この際、異能を欲した郭嘉の判断で生け捕りにされたが、国を創ろうともせずに覇を語ったとして曹操の怒りを買い、首を刎ねられてしまう。実在の人物、蹋頓がモデル。

曹彰 (そうしょう)

字は子文。曹操の子で、卞玲瓏の産んだ2番目の男子。曹操似の大男で、曹操からは「黄鬚」と呼ばれている。創作に没頭する曹植とは対照的に武力による立身出世を志しており、噂を聞きつけた孫権からは猛々しいだけの不出来な息子などと揶揄されている。しかし、道端で倒れた曹植を介抱するなど、身内に対する優しさは持ち合わせている。年齢は潼関の戦いの時点で22歳。この時、曹仁の指揮下に加わり前線に出ているが、軽はずみな行動を咎められるばかりで、芳しい戦果は描かれていない。濡須の戦いでは偵察中に孫権と遭遇し、孫権の愛虎、仁(ジン)を迎撃した。素手で心臓を抜き取って殺害するという荒技を披露し、孫権の恨みを買った。218年には代行ながら念願の将軍に抜擢され、軍師に田豫(でんよ)、副官として夏侯尚(かこうしょう)を従え、烏丸族討伐軍3万を率いることが決定する。実在の人物、曹彰がモデル。

張奐 (ちょうかん)

宦官の醜聞事件、党錮の禁の鍵を握る男性。老齢とは思えぬ筋肉質な身体つきをしている。もともとは羌族討伐部隊の隊長を務めていたが、張譲に騙されて宦官の専横を糾弾せんとしていた憂国の士、陳蕃(ちんばん)を殺害してしまい、良心の呵責から高禄を辞して隠遁生活を送っていた。やがて曹操に発見され、陳蕃から預かった宦官を告発する内容の上奏文を託して自害を試みるも、曹操の言葉に翻意して幕下に加わり、第二の人生を歩み始めた。一時は曹操の指示で別行動を取り、皇族である亶公(ぜんこう)の武芸指南役と称して護衛を担っていたが、のちに黄巾党として決起する太平道の勢いが盛んになると、曹操のもとへと帰還した。この際、曹家別邸の門前で門番と問答していた少年・荀彧を評価し、独断で曹操と面会させ、主従へと結びつけている。一対の手投げ斧を巧みにあやつって初期の曹操軍を支えたが、黄巾党の渠師・張曼成(ちょうまんせい)との戦いで深傷を負い、夏侯惇に曹操への遺言を告げて死亡した。なお、張曼成を討ち取った夏侯惇は敢えて死亡した「張奐」の名前で名乗りを上げ、戦死した張奐への手向けとしている。実在の人物、張奐がモデル。

趙雲 (ちょううん)

字は子龍。劉備麾下の勇将の男性。冀州出身の穏やかな性格をしている。眉毛が太く、爪牙(そうが)の首飾りをつけており、戦場では主に三尖刀を使用する。公孫瓚に仕えるべく界橋の戦いに乱入した際に劉備と出会い、後年の主従につながる縁を結んだ。母親の喪に服しているあいだに盲(めし)いてしまうが、劉備との8年ぶりの再会を経て開眼した。酒浸りの劉備を叱咤し、再起を決意させた。仕官後は劉備の天下を信じて疑わず、劉表のもとで彼が燻(くすぶ)っていた際には、関羽たちが危機感を募らせる中、笑みを浮かべる余裕があった。しかし、長坂で劉備が民を見捨てようとした際には首根っこをつかんで諫めている。武人としても優秀で、張繍や袁紹配下の麹義(きくぎ)を討ち取っている。長坂では進退窮まった劉冀と、劉備の妻、甘夫人(かんふじん)を単騎にて救出。この際、劉備の息子の阿斗(あと)を懐に抱いた状態で2頭の馬をあやつるという離れ業を披露した。また、甘夫人と二人乗りの状態で于禁と打ち合っている。漢中で曹操と遭遇した際には、単騎にて鋭い攻撃と素早い撤退を繰り返し、部下の撤収を援護した。その姿は許褚からスズメバチにたとえられ、蜂の苦手な曹操を震え上がらせた。実在の人物、趙雲がモデル。

崔琰 (さいえん)

名門の士大夫の男性。高名な儒者で、恰幅がよく、腹部に達するほど長い顎髭を蓄えている。国家の重鎮として信頼を集める一方、儒の教えに基づいた人物で自らの地位を築き上げた経緯があり、華佗からは儒を利用して国政を私物化する冒瀆者と蔑まれている。多くの儒者が曹操におもねる状況を嘆いており、自らが信念を貫くことで、儒者が古(いにしえ)より守ってきた建前や規範を取り戻そうとしている。曹操が求賢令を発布した際には、覇王であろうと中華から儒を切り離すことはできないと断言し、儒教的な推挙を継続した。髠刑(こんけい)に処されても信念を曲げずに一〇〇〇人もの人物評を行い、曹操から自分で相応しい刑罰を決めて覚悟を示すよう言い渡された。沙汰には禁錮期間の延長でも構わないという情けが含まれていたが、敢えて死刑を選択し、香炉に頭を打ちつけて自殺した。死の間際まで、人材に徳と才は不可分という主張を曲げることはなかった。実在の人物、崔琰がモデル。

司馬懿 (しばい)

字は仲達。曹操に仕える文官の男性。周秦曰く、気が朧(おぼろ)で正体のつかめない軍師タイプ。身体を前に向けたまま、頭だけを真後ろに向けることのできる狼顧(ろうこ)の相を持つ。若くして鬼才の誉れ高く、荀彧や崔琰などの名士とも面識を持っていたが、周囲の人間と距離を保つことを処世術として、その縁を頼らずにいた。仕官の求めにも応じずに隠棲していたが、丞相府、銅雀台の落成式に姿を見せており、この頃には曹操に仕えていたことが窺える。司馬懿の態度に痺(しび)れを切らした曹操は、寝台ごと縛り上げて来いとまで発言していたが、実行されたか否かは不明。荀攸が亡くなった頃から従軍を命じられ、張魯征討へ随行した際には劉曄の言葉を継いで蜀への侵攻を献策するも、採用は見送られた。濡須の戦いにも同行し、曹彰の補佐を任されている。兗州刺史を勤めた兄の司馬朗(しばろう)が病死すると、軍を離れて内政に専念するよう指示され、曹丕の補佐に就いた。この頃より陳羣(ちんぐん)、呉質(ごしつ)、朱鑠(しゅしゃく)と一括りに「四友(しゆう)」と呼ばれるようになった。その後も華歆(かきん)や杜襲(としゅう)などの重臣と政務に励んでいる。なお、何晏は最も胡散(うさん)臭い人物として司馬懿の名を挙げている。実在の人物、司馬懿がモデル。

丁奉 (ていほう)

潘璋の率いる悪たれ軍団の男性。左頰に刀傷があるが女性的な顔立ちで、髪を二つのお団子に結っている。奏楽の心得があり、笛の演奏が得意。臨沮の屯営では仲間と共に音曲を奏で、関羽打倒の切り札として同伴させた阿トウの無聊(ぶりょう)を慰めている。また、丁奉自身の口笛の響きから敵軍の動向を読んで攻撃の機会をつかむなど、その才は戦場でも発揮されている。潘璋が関羽の首に100倍の褒美を出すと言い放って配下を鼓舞した際には、100倍では安すぎるとして子飼いの兵を制するなど、冷静な面を垣間見せた。決戦においては関羽の武力に手も足も出せなかったが、阿トウをけしかけることで関羽を捕縛することに成功した。実在の人物、丁奉がモデル。

蹇碩 (けんせき)

劉宏に仕える宦官の男性。天子に侍る中常侍の中でも強い発言力を持つ十常侍の一人。庶民の生まれながら、宦官としてのし上がることを決意し、自ら男根を切り落とした過去を持つ。洛陽で騒動を起こした叔父の蹇朔(けんさく)が北部尉、曹操に処刑されたことをきっかけに、曹操を敵視するようになった。その後、曹操を陥れるべく、十常侍の重鎮、趙忠(ちょうちゅう)を介して皇族の亶公(ぜんこう)を動かすが、企みを看破されたばかりか、曹操に皇族とのコネクションを与え、天子への禅譲を許してしまった。宮中で劉宏の後継争いが発生した際には劉協を支持。劉弁を擁立する大将軍、何進(かしん)の暗殺を企てているが、失敗が続いたことで張譲に疎まれるようになり、処刑されてしまった。実在の人物、蹇碩がモデル。

徐晃 (じょこう)

曹操幕下の名将の男性。ナマズの触鬚(しょくしゅ)にも似た口髭を蓄えており、豪放磊落(らいらく)で型破りな性格をしている。「敗けずの徐晃」を自称しているが、その実像は敵を打ち負かすことに長けた武将ではなく、大敗を避けることに主眼を置いた逃げ上手の武将である。官渡大戦では大軍に追われて全滅必至と予想されていたが、全軍の武装を解除して裸で馬を駆る奇策を実行し、奇跡の生還を果たしている。一方で武功も多く、官渡大戦では故市の食糧庫を攻撃して6000乗もの兵糧を焼き払い、兵糧不足に喘(あえ)ぐ袁紹軍に痛手を与えた。その後も中華を所狭しと転戦し、各地で手柄を挙げている。樊城の戦いでは巨大弓、李典弩を用いた遠隔通信で曹仁と連絡し、陥落寸前の樊城を復活させる大規模作戦を手配した。鎧兜のみならず、李典斧、李典擲箭(ちーちえん)、李典棍、李典盾などの兵器を活用して関羽との一騎討ちを敢行し、救援の立役者となった。この戦いを通して関羽とのあいだに好敵手としての絆が芽生え、関羽が不在のうちに本拠地を呂蒙に奪われた際には、その情報を関羽に伝えた。同時に、関羽を裏切った孫権に対して強く憤慨し、その姿を見た夏侯惇には、関羽の救出に向かわんばかりと表現された。実在の人物、徐晃がモデル。

華佗 (かだ)

卓越した医術を備え、神医と謳われた老齢な男性。高名な儒者でもある。曹操からの招聘を数年にわたり拒んでいたが、やがて招きに応じて公開診療を実施した。複数の患者に対して四診(問診、切診、望診、聞診)、投薬治療、言葉や振る舞いによる気血の操作、自ら発明した麻沸散(まふつさん)を用いた全身麻酔手術を並行し、観衆を驚愕させた。その医術は鍼治療を体感した曹操からも絶賛され、その才を遺憾なく発揮できる環境を与えられる。しかし、華佗は、腐敗した儒こそ国家の病巣と解釈して儒の講釈に明け暮れるようになり、曹操から指示された医書の執筆を拒否した。これをきっかけに投獄されてしまう。その後、拷問を受けながらも「始皇帝(しこうてい)の如き独裁」などと曹操を批判。荀彧の嘆願も虚しく獄死させられた。なお、生前に荀彧の心臓病を見抜き、処方箋を用意していた。その丸薬は華佗の死後、弟子の手によって荀彧に託されている。また、戦から離れると頭痛に襲われる状態が慢性化していた曹操に対して、激情を抑えなければ大事に至ると忠告していた。しかし、曹操は感情を自由に放ってこそ命と語り、最期まで忠告を受け入れなかった。実在の人物、華佗がモデル。

黄忠 (こうちゅう)

劉備麾下の老将の男性。総白髪の老人ながら血気盛ん。涪城を攻撃した際には若武者の魏延(ぎえん)と競うように活躍し、一番槍の手柄を挙げて褒賞に与っている。漢中の戦いでは、魏延と共に大巴山脈の西から定軍山の包囲に参加。法正から特命を預かり、夏侯淵を急襲した。この際、夏侯淵に脇腹を斬られて落馬するも、力を振りしぼって夏侯淵を追撃した。連戦で深傷を負った夏侯淵を真正面から斬りつけ、死に至らしめた。その後、成都での静養を命じられるも、戦場で死ぬことを熱望し、軍令を犯して曹操軍の輜重隊(しちょうたい)に奇襲を仕掛けている。この際、得意の強弓を用いて土砂崩れを誘発するという荒技を披露した。さらに逃げ去る御者の動きから罠であることを察知して、部下を逃がすべく単騎での突撃を敢行する。負傷しながらも南鄭方面の補給路を断ち、帷幕(いばく)に周辺情報をもたらしている。実在の人物、黄忠がモデル。

甄姚 (しんよう)

曹丕の第一夫人。「甄氏」とも呼ばれていた。もともとは袁紹の次男の袁煕(えんき)の妻だったが、鄴城に突入した曹丕に略奪に近い強引さで連れ出され、妻となった。その美貌は曹操も認めるところで、わずかな時間差で甄姚を得られなかった曹操は、曹丕に対する羨望の感情を隠そうともしなかった。現在は勝者に奪われるのが乱世に生きる女の運命であると諦観し、心を閉ざしている。のちに義理の弟となった曹植に言い寄られ、その激情に一時は心をゆり動かされるも、彼の持ち掛けた駆け落ちの計画は卞玲瓏の根回しによって阻まれてしまった。なお、曹丕とのあいだに生まれた男子、曹叡(そうえい)は曹操の娘の桃華(とうか)と外見が似ており、曹操に桃華と勘違いされたことがある。実在の人物、文昭皇后甄氏がモデル。

曹仁 (そうじん)

旗揚げから曹操に従う男性で、四天王の一人。当初は髪が生えていたが、壮年期から禿頭となる。四天王の面々が早くから兵を率いて活躍する中、一軍を任されず不満を募らせていた。官渡大戦の最中には任務を放棄して曹操に直談判し、次に背けば処刑すると釘を刺されながらも大軍を獲得。劉備と劉辟(りゅうへき)の連合軍を打倒するべく意気揚々と出発したが、いざ開戦すると声が枯れて采配できず、ヘボ将と侮られる有様だった。しかし、身ぶり手ぶりで兵を動かし、自ら劉辟を斬って勝利する。これをきっかけに将器が目覚め、赤壁の戦いの直後には重要拠点、江陵の守備を任されている。その後、周瑜との1年にわたる死闘を経て、曹操幕下でも指折りの名将に成長する。潼関の戦いでは先陣を担い、のらりくらりとした用兵で敵将の成宜(せいぎ)を撃破。馬超からは、敵を侮らせて引き込む戦術を成立させる力量を称賛されている。樊城の戦いでは夏侯淵の遺刀を携えて関羽に挑むも、傷一つ付けられなかった。さらに漢水の氾濫により、船団を擁する関羽軍に包囲されてしまうが、どん詰まりでこそ曹仁自身の本領が発揮されると奮起して、樊城をよみがえらせる一大作戦を成功に導いている。実在の人物、曹仁がモデル。

賈詡 (かく)

字は文和。曹操幕下の軍師の男性。涼州武威郡出身で、目つきが悪く、禿頭を頭巾で覆っている。尊大な自惚れ屋で、権謀術数を得意としながら、剣を手に陣頭指揮を執る機会も多い。参謀としての能力は高祖、劉邦(りゅうほう)を補佐した張良(ちょうりょう)、陳平(ちんぺい)に匹敵するとされている。宛城の戦いにおいて張繍の参謀として登場し、胡車児(こしゃじ)ら西方の刺客を駆使して典韋らを殺害するなど曹操を追い詰めた。しかし、再戦時には曹操に左肩を射られて敗北した。天下の趨勢が袁曹に二分されると、曹操は私怨に拘泥しないとの確信から、張繍に曹操への帰順を進言した。曹操と対面した際には檄文(げきぶん)、宣戦誣告の朗読を命じられているが、これを固辞したことで、軍師として侍ることを許された。帰順後は古参の軍師たちと衝突しながらも、官渡、長坂、赤壁、潼関、濡須、漢中の戦いに従軍。烏巣の守将、淳于瓊(じゅんうけい)の撃破、徐庶の捕縛、関中・涼州軍閥の撃退など多くの戦果を挙げている。なお、曹操の思いつきで策を無下にされてばかりだが、そのたびに「潰えた策が優れているほど曹操の機知も冴える」というポジティブ思考で乗り越えている。実在の人物、賈詡がモデル。

劉曄 (りゅうよう)

字は子揚。曹操に仕える謀臣の男性。首の長いつり目が特徴で、光武帝の子、劉延(りゅうえん)の後裔でもある。自らを弱輩と謙遜しており、精神の深化を阻害するとの理由で、俗人との交流を控えている。気骨の士として知られており、曹操を前にして「曹操が荀彧を死に追い込んだ」との風説を俎上(そじょう)に載せたこともある。また、諜報を牛耳っていることから、何晏からは怖い人と認識されている。218年には、のちに吉本(きつほん)の乱と呼ばれる許都の放火騒ぎをわずか1日で鎮火させ、関係者の悉(ことごと)くを処刑した。この際、未然に防げなかったことを嘆く声もあったが、何晏は乱の賛同者を炙(あぶ)り出すために敢えて決起させたのではないかと予想している。また、樊城の戦いの頃には何晏の齎(もたら)した情報をもとに魏諷の乱を察知した。曹丕と協力して、決起から間もなく鎮圧している。実在の人物、劉曄がモデル。

鐘繇 (しょうよう)

曹操に仕える文官の男性。耳の上部と内部からふさふさとした毛が生えており、曹操の姿を視認する前に耳毛が逆立ち、来訪を察知したことがある。董卓の専横によって荒廃した洛陽の修繕に取り組み、のちに洛陽を視察した曹操から手腕を高く評価された。潼関の戦いの頃には弘農郡にて張既と共に曹操を出迎え、関中・涼州軍閥の動向を報告した。また、戦後の関中を担う人材として抜擢された趙儼に軍事、鄭渾(ていこん)に農事、徐奕(じょえき)に土木と治水の引き継ぎを行った。その後、栄転して魏国の大理、さらに相国へと出世するが、クーデターの首謀者となった魏諷を官職に取り立てた罪で処罰を受けることが決まってしまう。実在の人物、鐘繇がモデル。

徐庶 (じょしょ)

字は元直。荊州に潜んでいた智慧者。丸坊主の男性で、頭部と顔面に無数の傷がある。軍師を募っていた関羽に諸葛亮の情報を齎し、諸葛亮が庵を構える桃源郷へと導いた。諸葛亮との対面には同席していないが、これをきっかけに軍師として劉備を補佐するようになった。長坂の逃避行においては、劉表の重臣、蒯越(かいえつ)の言葉から江陵の軍需物資の存在に思い至り、曹操に先んじての確保を提案している。行軍中は周囲を顧みない劉備の所業に苦いものを感じながらも、天下人を常識で計るべきではないと自分を納得させ、指揮に専念していた。しかし、親のために命を捨てるのが孝という中華の倫理観を受け入れられず、劉備が馬車を軽くするべく投げ捨てた子を受け止めて行軍から脱落した。この際、天下人としての正しさを認めたうえで、劉備の悪びれない態度を罵っている。その後は曹操軍に捕縛され、曹操から面白いとの評価を受けているが、自分の名前が劉備と諸葛亮を結びつけただけの男として後世に伝わること、諸葛亮が怪しげな術策を携えて表舞台に上がろうとしていることに思い至り発狂。そのまま物語からフェードアウトしてしまった。実在の人物、徐庶がモデル。

魯粛 (ろしゅく)

孫権の家臣。鬢(びん)が蛇行するように波打った男性。重臣たちから成り上がりの新参者、傲岸な狂児、穀潰しと蔑まれているが、その才覚は周瑜から高く評価されている。曹操軍が南下を始めると徹底抗戦を主張した。劉備が同盟相手として相応しいか否かを見極める役目を任され、荊州へ向かった。この際、劉備に従う無数の民を目の当りにして、天下が凄まじい速度で動き始めていることを確信。独断で同盟の話を進め、曹操へ降伏するか、抗うかの両論で真っ二つに割れていた孫権の陣営に波乱を巻き起こす。その後も劉備と燁夏の政略結婚の橋渡しなど、両陣営のあいだを奔走し、同盟の維持に努めた。周瑜の死後は遺言により将帥に抜擢されている。215年春には劉備と孫権の関係悪化を受けて、兵を率いて荊州へ進軍。呂蒙の軍と合流し、益陽で関羽軍と対峙した。劉備も公安に駆けつけるなど風雲急を告げたが、同時期に曹操が漢中を攻めたことにより、全面衝突は回避されている。孫権軍が濡須で曹操軍と激戦を繰り広げていた頃に危篤に陥り、間もなく死亡した。実在の人物、魯粛がモデル。

張郃 (ちょうこう)

字は儁乂。曹操幕下の名将の男性。身の丈8尺の長身で、もともとは袁紹軍に所属していた。趙雲曰く、袁紹が覇者になっていれば天下の中枢に収まっておかしくないほどの名将だが、官渡大戦の頃に曹操に降伏。帰順後は辺境での賊軍討伐で経験を重ね、張郃自身に眠る天賦の才を次々と発掘した。当人は不甲斐ない戦績を重ねたと謙遜しているが、敗北にこそ才が必要と考える曹操からは、敗戦から何かを見出せる模範的な武将として高く評価されている。また、時を経て老けるどころかたくましくなったとも評されており、潼関の戦いでは費瑶(ひよう)を従えて関中・涼州軍閥の李堪(りかん)軍と交戦し、自ら李堪を一突きにして首を持ち帰っている。定軍山が劉備軍に包囲された際には東の陣を守備した。趙雲との一騎討ちにも応じているが、決着はつかなかった。方面司令官の夏侯淵が討たれた際には臨時の司令官に繰り上がり、事態の収拾に努めている。実在の人物、張郃がモデル。

張譲 (ちょうじょう)

劉宏に仕える宦官の男性。天子に侍る中常侍の中でも際立った発言力を持つ十常侍の一人で、その筆頭として権勢を振るい、宮中の腐敗を加速させた。男根を切除した身でありながら淫猥な性根は健在で、寝所に美女を侍らせ、その身体を弄ぶことを至上の喜びとしている。物語の序盤における曹操の最大の敵として登場し、水晶を辱めた挙句、間接的に死に至らしめた。この際、水晶に斬りつけられ、左頰に刀傷が刻まれている。のちに曹操によって宦官の醜聞事件、党錮の禁が暴かれても権勢を維持している。宮中で劉宏の後継争いが発生した際には劉弁を擁立し、帝位に就かせることに成功した。しかし、袁紹の行った宦官の一斉虐殺から逃れるべく董卓に取り入ろうとして失敗し、惨(むご)たらしく処刑された。実在の人物、張譲がモデル。

蒋欽 (しょうきん)

孫権に実力を見込まれた武将、八頭の獣の一人。前髪と髷(まげ)以外を剃り落とした独特の髪型の男性で、孫権より江南随一と評された強弓の使い手。合肥の戦いでは張遼を仕留めるべく得意の弓術を披露するも、こともなげに捌(さば)かれ、その後の白兵戦でも敗北。それ以降、張遼を目標に据えて鍛錬を積むようになった。仲間と共に関羽を包囲した際には関羽に手傷を負わせ、勝利に大きく貢献するも、奮戦のはてに戦死してしまった。実在の人物、蒋欽がモデル。

甘寧 (かんねい)

孫権に実力を見込まれた武将、八頭の獣の一人。髑髏(どくろ)がデザインされた装飾品や自分の背丈ほどもある雉(きじ)の羽製の背飾りを身につけている。もともとは川賊の頭目をしていた無頼漢で、報恩と報復をモットーとしている。臆病風に吹かれた味方の首を撥ねるなど容赦のない人物だが、返り血に舌打ちするなど、装いには気を遣っている。得物は返しのある片手剣。また、腕に取り付けるタイプの双剣も愛用している。武装したまま就寝するなど警戒心が強く、仲間内でも甘寧を起こす役目は避けたがられている。奇襲を得意としており、赤壁の前哨戦では曹操の船団の要である蔡瑁(さいぼう)、張允(ちょういん)を瞬く間に殺害した。曹操の暗殺こそ許褚に阻まれたが、旗艦に火を放ち、沈没させることに成功している。濡須の戦いではわずか一〇〇人で曹操軍の拠点を襲撃し、いっさいの犠牲を払わず駿馬100頭を強奪してみせた。合肥の戦いでは李典との一騎討ちで遅れをとり、左耳を負傷してしまうが、直後に再戦が叶い、雪辱をはたしている。実在の人物、甘寧がモデル。

集団・組織

黄巾党 (こうきんとう)

張角を教祖とする太平道の信者たちで構成された集団。構成員は頭に黄色い布を巻きつけている。張角の呼び掛けに応じて、のちの世に黄巾の乱と呼ばれる大規模な一揆を引き起こした。構成員の多くは農民だが、俠として名を馳せた波才(はさい)、張曼成(ちょうまんせい)、羅厳(らごん)などの強者も入り混じっていた。羅厳と面識のあった関羽は俠を取り入れることで組織の基盤を固めたのではないかと推測している。初めは無秩序な農民の群と侮られていたが、のちに三人一組での行動と役割分担が徹底されていることが判明する。熱心な信者が狂信的に戦うこともあって、官軍を大いに苦しめた。なお、曹操は武装集団と化す前の太平道の信者たちを目撃した際に、統率する人間が方向性をまちがえなければ新しい時代が訪れると予想していた。

烏丸兵 (うがんへい)

曹操が抱える精鋭部隊。かつて蹋頓が率いていた烏丸族の戦士から成る騎馬隊で、総員が呂布に比肩する馬術を備えている。郭嘉は蹋頓と戦った際に、烏丸族の馬術が「馬上で生まれ馬上で死ぬ」との触れ込みに恥じないものであると認識し、その踏破能力に自身の軍略を乗せれば局地戦で役に立つと確信した。管理下に置いてからは実戦投入を見越して運動の時間を設けるなど、捕虜としては破格の待遇で扱っていた。また、郭嘉は張遼に烏丸兵の指揮を委ねて第2の曹操軍とする構想を練っていたが、実現前に病没してしまったため、烏丸兵の勇姿を見ることは叶わなかった。のちに荀攸は劉備を追撃する際に烏丸兵を指揮して、飛翔するが如き馬術を体感している。なお、鳴り物入りで動員された烏丸兵だったが、荀攸の判断ミスにより覚醒した張飛と交戦する羽目になり、大量の死傷者を出している。

青州黄巾党 (せいしゅうこうきんとう)

張角の死後に変貌を遂げた黄巾党の後進組織。青州の地に一〇〇万人規模の集落を築き、青州黄巾党と呼ばれるようになった。主戦力はかつての信者の子供たちで、黄巾党の渠帥(きょすい)を務めていた長老たちが新たな指導者となって若者を導いている。曹操は兗州での籠城戦を経て長老たちと契約を交わし、青州黄巾党を自らの民として受け入れた。

爆烈団 (ばくれつだん)

李烈が盗品を餌に集めたならず者の集団。李烈の死後は曹操一派の兵力として吸収され、黄巾党の討伐戦で活躍するも、次第に物語からフェードアウトしていった。のちに曹操と荀彧の昔語りを通して、青年期の曹操に従って婚礼中の花嫁を奪い去るなどの狼藉(ろうぜき)を働いていたことが判明する。なお、黄巾党との戦闘に動員されていた時期に限り、「爆裂団」と表記されていた。

美髯団 (びぜんだん)

関羽が頭目を務めていた俠の集団。世直しを目論む関羽の思想にもとづいて、権力者と癒着する俠を成敗し、彼らに虐げられる民を救っていた。新興勢力ながら勢いは凄まじく、河東郡から勢力圏を拡大して鬼嚢(きのう)こと劉備のテリトリーに踏み込み、遍在していた俠の集団を九つも崩壊に追い込んでいた。団員である張飛の働きで劉備の捕縛にも成功しているが、関羽が劉備の器に惚れ込んでしまい、逆に劉備の傘下に加えられた。

無頼の中軍 (ぶらいのちゅうぐん)

西方遠征に臨むにあたって曹操が組織した軍団。求賢令にもとづいて、これまでの採用基準では起用できなかった才ある不届き者を集めたドリームチームである。その構成員は徴税に従わなかった皇宮関係者の脚をへし折った楊沛(ようはい)、100件以上の収賄で得た金銭で4000頭もの牛馬を飼育していた丁斐(ていひ)、漢朝で最も嫌われている婁圭(ろうけい)など変人ぞろいで、楊沛に至っては百戦錬磨の曹操をして「そいつは怖い」と言わしめた逸材である。曹操曰く、可能性に満ちているが、扱える軍師は賈詡しかいないと評した。かくして一〇〇人規模の不逞の輩を押しつけられた賈詡は泣く泣く軍団を再編し、無頼の中軍を率いる羽目になった。現地に到着した無頼の中軍は危険ととなり合わせの渡河の補助などで活躍し、曹操からも仕事ぶりを評価されているが、賈詡は毎日が修羅場だったと振り返っている。曰く、トラブルのたびに人が死に、それを裁く立場の楊沛が容赦なく足をへし折るので、当初の3分の2まで人数を減らしてしまったという。なお、報告を受けた曹操はまだまだ減ると賈詡を脅した上で、選別が進めば厳格な督軍になると今後の構想を語っている。

取りまき (とりまき)

諸葛亮の教え子、師匠、友人と名乗る老若男女の集団。一対の童子、一対の老人に加えて、異国の女性が少なくとも八人存在する。童子ペアと老人ペアは背格好がそっくりで、諸葛亮が何者であるかを理解し、彼の助手を務めている。女性たちは共通して薄着をまとっており、性に対しては自由奔放に振る舞う。桃源郷で諸葛亮との交わりに耽溺する傍ら、必要に応じて市井に繰り出し、情報収集などの任務をこなしていた。劉備が逃避行を始めると行く先々に姿を現し、まるで試練を課すように、取りまき総出で劉備に罵詈雑言を浴びせた。また、老人ペアは鳥獣の頭を持つ五人の怪人を伴い、床に臥(ふ)せった曹操にも人格攻撃を行っている。のちに童子ペアは曹操に無視された諸葛亮に「我々は寓話の登場人物」「実の世界に生きる民草に天下が見えないように、諸葛亮の存在は認識されていない」と暴露した。また、「曹操は民草ではなく天下人である」と否定する諸葛亮に対して、「戦や政が生活の一部と化している曹操にとって、天下は実である」「実にしか目を向けない曹操は虚である諸葛亮を見ようとしない」と説明した。やがて諸葛亮が人間化すると、取りまきは物語から姿を消してしまった。

青州兵 (せいしゅうへい)

青州黄巾党を前身とする曹操お抱えの精鋭部隊。その兵力は三〇万人にも及び、平時には農耕を担っている。若く健康な肉体に加えて、太平道を盲信していることから、精神面の強さも兼ね備えている。「中黄太乙」を唱えて遮二無二戦う姿は、曹操をして少しでもまちがえば悪鬼羅刹(らせつ)になり兼ねないと言わしめた。のちに「魏武の強これより始まる」とまで評される精強な軍団だが、誕生したばかりの頃には、家臣から実戦投入を猛反対されていた。曹操の一存で徐州に放たれた際には、女子供まで皆殺しにする大虐殺を引き起こしている。しかし、程昱をはじめとした軍師たちの法整備によって徐々に統制の取れた集団となり、多くの戦いで目覚ましい戦果をあげた。なお、宛城の戦いにおいては「中黄太乙」ではなく「曹操閣下名義之下」と叫んで戦っていた。また、国家ではなく曹操個人との契約にもとづいて命令に従っていたため、曹操が亡くなると一斉に曹操軍から離脱してしまった。

場所

銅雀台 (どうじゃくだい)

魏公となった曹操が鄴に建てた丞相府。落成後は政務の舞台として頻繁に登場する。高さをテーマとした建造物で、中央には大階段がある。曹操は初めて大階段を登る際に、乱世の中で散っていった群雄の幻を見ている。また、最上段に至るまでに気血を巡らせて詩か策を提出する決まりを作ろうと考案しているが、採用されたか否かは定かではない。夏侯淵は死の間際に一度も見ることが叶わなかった銅雀台の威容と、その頂きで曹操らと酒を酌み交わす場面を夢想している。

桃源郷 (とうげんきょう)

諸葛亮が庵を構える幻想的な空間。俗世間から隔離された文字どおりの桃源郷で、諸葛亮の取りまきに加えて、髭の生えたカエル、嘴を持つ猿などの異形の生物が棲息している。荊州の地に存在しているが、断崖絶壁を下り、洞穴を通り抜けた地の底にあるため、馬ではたどり着くことができない。劉備は徐庶から聞き出した情報をもとに桃源郷を訪ね、諸葛亮との対面をはたした。なお、桃源入りした劉備が神々しいものを感じている一方で、張飛は薄気味の悪さを感じている。

その他キーワード

求賢令 (きゅうけんれい)

人材を渇望する曹操が考案した新たな人事基軸。「唯才是挙(たださいのみこれあげよ)」の文言を骨子として成立しており、不仁不孝の輩(やから)でも才があれば用いるという内容を含んでいる。これまでの朝廷の人事は儒の視点が重要視され、不仁不孝と判断されれば、どれほど優秀でも人材として取り立てられることはなかった。その常識を覆す内容であることから、布告の際には荀彧を始めとする儒者から猛反発されている。これを受けて、曹操は「不仁不孝」の文言が儒者を刺激するならば削ってもよいと譲歩しているが、荀彧は「唯才是挙」をテーマとする求賢令の存在そのものが儒の精神を真っ向から否定しているとして、一歩も引かなかった。のちに曹操は求賢令の発布を断行し、儒者との対立を激化させている。

天下三分 (てんかさんぶん)

諸葛亮が劉備に説いた天下獲りの方策。まずは中原の天下人、曹操の南進を阻んで南の天下人、孫権の支配地域を維持し、残った地域を劉備が獲(と)って天下と主張せよというもの。これは劉備の希望を酌んで最も人を殺さずに済む方法として提案されたものだが、当の劉備は桃源郷で描いた血の通わぬ絵空事と断じて、天下三分を拒絶している。しかし、諸葛亮の取りまきの童子から「天下が一つと決めるのは権力者の欲」「天下を分けるのではなく増やす」と諭され、天下三分の先に希望を見出すようになった。のちに劉備は天下三分を「自分と天下をつなぐ一本道」と要約している。なお、劉備は領地を得るどころか、曹操軍の追撃を逃れた時点で自分の居所がすでに天下であると宣言しており、多くの群雄が困惑を持って天下三分を受け止める事態となった。

昱の石 (いくのいし)

程昱が鄄城を守っていた頃に、所持していた手のひらサイズの石。程昱の諱(いみな)である「昱」の字が刻まれている。程昱はお椀の底にこの石を沈めて、食事の量が増えたように見せかけていた。のちに石を手に入れた劉馥は、奇しくも程昱と同じ用途で石を使用している。やがて劉馥が倒れると、形見として蔣済の手に渡り、最終的には劉馥の後任に就いた温恢へと託された。程昱は合肥を視察した際に温恢の持つ石に自ら彫りつけた「昱」の字を確認。意志がバトンのように次世代へと受け継がれていること、それが曹操の政の中身となっていることを悟り、引退を決意している。

漢中王 (かんちゅうおう)

諸葛亮の発案により、漢中争奪戦を制した劉備が名乗った称号。漢王朝の始まりの地の王を名乗ることで、漢室復興の意志を喧伝すると共に、曹操の傀儡に過ぎなかった天子、劉協を超えた王であることを言外に示す狙いがあった。また、かつて高祖、劉邦(りゅうほう)が冠した称号を名乗ることで、民衆に劉備と劉邦を同一視させる狙いも含んでいた。その効力は絶大で、曹操すら自分も漢の子に過ぎないことを意識させられている。

李典弩 (りてんど)

李典が開発した攻城兵器。槍ほどもある大型の矢を遠方に撃ち込むための巨大な弩(ど)で、戦艦を数隻も貫くほどの絶大な威力を誇る。しかし、1回の発射に1刻ほど掛かるため、連射できないのが難点。また、弓を引くには兵士六人程度の協力が必要となる。李典の死後、樊城の戦いにて登場し、籠城する味方への通信手段として使用された。また、武名が四海に轟いている張遼、夏侯惇の参戦を予感させる「遼来来」「惇来来」という文言を書き入れた矢を攻撃に用いて、敵の戦意を削(そ)ぐ作戦も実行されている。

崇息観 (すうそくかん)

「一瞬と一生は等価である」という思想を伴った呼吸法。魏諷の意向により、都で暮らす貴公子を中心に布教活動が行われ、宗教化、結社化が進められた。鼻での深い呼吸を特徴としており、信者の中には「鼻息男」と呼ばれて悪目立ちする者もあった。のちに魏諷の煽動によりテロ集団へと変貌し、魏諷の乱を勃発させるも、決起から間もなく鎮圧され、信者の悉くが粛清されてしまった。なお、崇息観の思想の出処は諸葛亮が魏諷の父親に授けた巻物である。

(きょう)

法に従わず義によって動く俠者、あるいは俠者の精神性を指す言葉。「理で割り切れないもの」「言葉では表せないもの」と説明されている。劉備自身をはじめとして、彼の陣営には関羽や張飛を筆頭に多数の俠が加わっており、下邳城に囚われた劉備らを救った名もなき老人も徐州で暮らす一介の俠者だった。なお、関羽は許都で朝政に加わっていた頃、自らの人脈を駆使して俠を招集し、政に参画させている。

霹靂車 (へきれきしゃ)

曹操と李典が共同開発した攻城兵器。梃子の原理を用いて巨石を発射する投石機で、射程距離は300歩相当にあたる。運用には兵士が数十人ほど必要で、官渡大戦の終盤戦で登場し、曹操軍の城壁を取り囲む袁紹軍の高楼を破壊する目的で使用された。なお、開発時期には小型の模型を用いた試験運用が行われ、石の代わりに無数の亀が宙を舞うことになった。

八頭の獣

曹操を迎撃するにあたって孫権が周瑜に紹介した、呂蒙、甘寧、陳武、蒋欽、凌統、周秦、徐盛、潘璋ら八人の総称。初め周瑜は経験の浅い彼らの抜擢に疑問を抱いていたが、孫権が語る彼らの「嗅覚」に希望を見出し、起用を決意。こうした経緯で経験の不足を飛び越え、それぞれが精兵2000を率いる武将として赤壁の戦いに参戦することになる。戦後は孫権軍の中核を担う人材となり、曹操や劉備の陣営と激闘を繰り広げた。

儒者 (じゅしゃ)

漢に深く根差した孔子(こうし)の思想・儒を学び、体現する者。「法家の怪物」と評される曹操とは思想の面で対極に位置しているが、曹操の周囲にも荀彧、崔琰、孔融、華佗など多くの儒者が存在していた。朝廷の事実上の支配者となった曹操は人材抜擢や文化発展を妨げているとして儒者を敵視するようになり、結果的に多くの儒者を死に追い込んでいる。

四天王 (してんのう)

旗揚げから曹操に従い、その後も曹操軍の主軸として活躍する夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪ら四人の総称。血がつながっていない者も混ざっているが、全員が曹操の従兄弟で、幼なじみでもあり、強固な信頼関係で結ばれている。特に兄貴分の夏侯惇は四海に武名が轟いている有名人で、曹操、許褚、四天王という面子で袁紹軍の拠点に潜入した際には、夏侯惇の隻眼のせいで一行の素性が露見してしまった。曹仁に関してはほかの面子と比べて武功が少なかったが、劣等感をバネに経験を積み、四天王の肩書きに恥じない名将に成長する。

宣戦誣告 (せんせんぶこく)

曹操と袁紹の勢力が天下を二分していた頃、袁紹の指示を受けて陳琳が書き上げた檄文。曹操の行った「袁紹をからかい尽くしてから殺す」という旨の不遜な宣戦布告に応じる形で用意されたもので、曹操とその一族を愚弄する内容を多分に含んでいる。しかし、その文面は配列から韻律に至るまで美しく整っており、詞藻に富んだ洒脱なものであるとして、曹操から高く評価されている。檄文に目を通した曹操は怒りに身を震わせながらも感動を抑えきれず、陳琳を記室と秘書令に任命する辞令を発したほどである。のちに陳琳は劉協の御前で行われた宴にて檄文を読み上げるよう指示され、誅殺の予感に冷や汗を流しているが、その不安は杞憂に過ぎず、改めて宣戦誣告こそ最高の詩歌と評価されることになった。

伝国の玉璽 (でんこくのぎょくじ)

始皇帝(しこうてい)が帝位の証として作らせた印鑑。漢の歴代皇帝に受け継がれてきた代物で、四角い印面に「受命于天既壽永昌」と印字されている。また、上部には瑞獣(ずいじゅう)が彫刻されている。その来歴から、「玉璽を得た者は国を得る。玉璽を失った者は国を失う」と実しやかに囁(ささや)かれている。董卓が遷都を行った直後に焦土と化した洛陽で発見され、孫堅の手に転がり込むことになった。目印となったのは宮廷跡の井戸から立ち昇る龍の如き五色の気で、発見に立ち会った若き周瑜は感動の余り涙を流している。孫堅の死後、玉璽は息子たちに引き継がれたが、袁術に兵士の返還を乞うた際に取り引き材料として差し出されている。なお、袁術は天子僭称(せんしょう)のはてに、後宮に迎え入れた女性の臀部に押印するという前代未聞の用途で玉璽を使用している。

アニメ

蒼天航路

高級官僚の家系に生まれた曹操は、不自由のない境遇に育つも、自由奔放な暮らしを続ける。彼は文武両面に才覚を発揮し、青年将校として幾多の手柄を挙げ、やがて激動の時代を動かす群雄の1人となる。「乱世の姦雄」... 関連ページ:蒼天航路

書誌情報

蒼天航路 全18巻 講談社〈講談社漫画文庫〉 完結

第1巻

(2000年12月発行、 978-4062608725)

第2巻

(2000年12月発行、 978-4062608732)

第3巻

(2001年1月発行、 978-4062608909)

第4巻

(2001年1月発行、 978-4062608916)

第5巻

(2001年2月発行、 978-4062609210)

第6巻

(2001年2月発行、 978-4062609227)

第7巻

(2001年3月発行、 978-4062609401)

第8巻

(2001年3月発行、 978-4062609418)

第9巻

(2001年4月発行、 978-4062609616)

第10巻

(2001年4月発行、 978-4062609623)

第11巻

(2004年10月発行、 978-4063607987)

第12巻

(2004年11月発行、 978-4063608298)

第13巻

(2004年12月発行、 978-4063608601)

第14巻

(2005年1月発行、 978-4063608717)

第15巻

(2005年2月発行、 978-4063608922)

第16巻

(2005年3月発行、 978-4063609110)

第17巻

(2006年11月発行、 978-4063703689)

第18巻

(2006年12月発行、 978-4063703856)

蒼天航路 :極厚 全12巻 〈モーニングKCデラックス〉 完結

第1巻

(2009年5月発行、 978-4063757545)

第2巻

(2009年5月発行、 978-4063757552)

第3巻

(2009年6月発行、 978-4063757569)

第4巻

(2009年6月発行、 978-4063757576)

第5巻

(2009年7月発行、 978-4063757583)

第6巻

(2009年7月発行、 978-4063757590)

第7巻

(2009年8月発行、 978-4063757606)

第8巻

(2009年8月発行、 978-4063757613)

第9巻

(2009年9月発行、 978-4063757620)

第10巻

(2009年9月発行、 978-4063757637)

第11巻

(2009年10月発行、 978-4063757644)

第12巻

(2009年10月発行、 978-4063757651)

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