あらすじ
大正10(1921)年12月のある日のこと、朝早くに目が覚めた志磨珠彦が台所へ向かうと、そこには早くからテキパキと働く立花夕月の姿があった。珠彦の姿に気づいた夕月は朝食の用意を始めるが、珠彦がいつまでもその場を離れようとしなかったことで、夕月から朝食の準備を見ていくかと声をかけられ、反発しながらもその一部始終を目にする。水に浸された鍋の中の昆布は30分前から用意され、お昼ご飯用の一番だし、朝食の味噌汁用の二番だしと、だしのための食材だけ見ても手間暇をかけて余すことなく使われており、日々質素でも無駄なくおいしい愛のこもった食事の用意に余念がないことがわかった。さらに夕月は、母親直伝の人参の辛煮を手早く作り上げ、珠彦はそのかぐわしい匂いに食欲をかき立てられる。そのうえ、主役のお米がすでに炊き上がり、蒸らし中の状態であることを知った珠彦は、夕月が早朝5時から起きて朝食のための準備をしている事実を知る。どうしていつもこんなに大変なことをするのかと問いかけられた夕月は、珠彦においしいご飯を食べてもらいたいからと、目を輝かせて答えるのだった。珠彦は、実家にいた頃の味気ない食事に思いを馳せ、自分好みに仕立てられた夕月の愛のこもった食事を前に舌鼓を打つ。厭世家ゆえに、自分が夕月の作る食事が好きであるという事実を素直に認められない珠彦だったが、あまりのおいしさに箸を止めることができない。夕月は、すべてきれいに食べきった珠彦の様子を見てひそかに達成感を感じ、にっこりと笑みを浮かべるのだった。(第1話「厭世家ノ朝食」)
大正13(1924)年1月下旬、ついに志磨の家柄を捨てる決意をした珠彦は、父親に別れを告げ、千葉の別荘を出る準備を始めていた。いきさつはともかく、夕月と共に過ごしたこの家には数え切れないほどの思い出があり、珠彦はこれまでの日々に思いを馳せる。自分の準備を済ませ、台所の夕月のもとに向かった珠彦は、片づけをしておなかがすいただろうと、握りたてほやほやのおむすびを差し出され、空腹に気づいた。夕月と二人、腰を下ろしておむすびを頰張りながら、互いにこの家での暮らしが終わることへの寂しさを口にする。厭世家であることをも捨てた珠彦は、これまで夕月が作ってくれたすべての食べ物がおいしかったことを初めて伝えながら、これから夕月をたくさん苦労させるかもしれないと、新たな生活への不安を吐露する。そんな珠彦に夕月は、おいしいものをたくさん作れるように頑張りたいという強い決意を告げる。そして二人は口づけを交わし、新たな住処である神戸に向けて出発する。(第19話「旅立チノ食卓」)
登場人物・キャラクター
志磨 珠彦 (しま たまひこ)
裕福な家柄の次男として生まれ育った男性。将来は父親の仕事を手伝うものと思っていたが、事故に遭って右手の自由と母親を失った。これにより、父親からの期待も失うこととなり、役立たずの烙印を押された志磨珠彦は、千葉の山中の村にある忘れられた別荘で死人のごとく暮らすように命じられる。共に暮らすのは、将来妻になる予定の少女・立花夕月。珠彦は世の中の何事をも嫌う厭世家で、何かと理由をつけてはかたくなに物事を嫌おうとする中で、夕月の作る夕食だけは嫌いになれなかった。さらに日々心を砕き、献身的に自分の世話をする夕月に対し、次第に心を開いていく。趣味は読書で、愛読書は定期購読している「下世話倶楽部」。村では当初は嫌われ者だったが、今では村の子供たちに勉強を教えており、慕われている。渋谷の実家にいた頃は、毎日食べきれないほどの洋食が食卓を埋め尽くしていたが、家族とは好みが違い、味も量も和食好きの自分には合わず、いつもそのほとんどを残してしまっていた。そのため、食事に喜びを見いだすことはできなかったが、今では夕月の作る食事をきれいに食べきることができており、味もさることながら、食べきるということにも満足感を見いだしている。しかし性格上、どうしても素直になれないところがあり、食後は夕月に対してすさまじいほどの敗北感を感じている。のちに志磨の家柄を捨て、厭世家であることもやめて夕月と共に神戸に渡り、小学校の教員として働くための勉強を始める。
立花 夕月 (たちばな ゆづき)
志磨珠彦の父親が、金にものを言わせて買ってきた少女。将来珠彦の妻になる予定で、千葉の山中の村にある別荘で、珠彦と共に暮らしている。明るく天真爛漫な性格の持ち主。テキパキと仕事をこなす働き者で、まるで春の嵐のように一日中くるくるとよく動き回る。家事の中でも特に料理が得意で、珠彦においしいごはんを食べてもらいたいという一心で、毎日朝5時に起床し、質素ながらも手間暇をかけた愛のある食事を用意している。実家が裕福な家庭ではなかったため、お金は慎重に使いたい考えを持っている。時代を見越した両親が、無理して自分を女学校に入れてくれたため、知恵と工夫の仕方を学び、一銭でも多く節約できるようになって両親を助けたいと思っていた。そのため今でも割と倹約家で、日常の食費の使い方にも気を遣っている。のちに志磨の家柄を捨てた珠彦と共に、神戸に渡ることとなり、病院食作りの仕事に携わることになる。出身は岩手の遠野。珠彦をはじめ、親しい人たちからは「ユヅ」と呼ばれている。癖の強い髪と巨乳が悩みの種。
志磨 珠子 (しま たまこ)
志磨珠彦の妹で、年齢は12歳。頭脳明晰ながら気が強い性格で、高飛車な一面がある。素直になれないところは珠彦とよく似ており、珠彦につい憎まれ口を言ってしまう自分の態度を後悔し、いつも心を痛めていた。当初は立花夕月のことを軽んじ、自分よりも小さく子供っぽい夕月を敬うことはできないとかたくなな態度を取っていたが、すぐに夕月に懐くこととなる。それ以来、必要以上に夕月にくっつきたがり、いっしょに料理を作ったり、外出したりすることを楽しんでいる。その後、医者を夢見て、神戸の女学校へ進学を決めた。神戸に住む叔父と義叔母・曲直部十和子の子供として生活を共にし、夢を実現させるため、友人たちと共に日々研さんを積んでいる。学校から帰ると、優秀な外科医と知られる叔父と十和子のもとで医学について学んでいる。学校では、夕月に教えてもらったレシピで手作りしたお菓子を友達と食べることもあり、その味は高い評価を得ている。また、のちに珠彦を通じて白鳥策と知り合い、共に過ごす中で互いに特別な存在であることに気づく。
綾 (りょう)
志磨珠彦や立花夕月と同じ村に住む女性。素行はあまりよくなかったが、最近は落ち着きを取り戻し、珠彦や夕月とも仲がいい。母親は外に男をつくって出て行き、父親は外に女をつくって出て行った。恵太と大和のほか、奉公に出ている綾太郎を含めた三人の弟がいるが、母親代わりとして弟たちの面倒を見ている。実は以前、珠彦から財布を盗んだことがあるが、それは父親から体で金を稼いでこいと言われ、それが嫌だったことが原因。その財布は今でも大事に持っており、いつか珠彦に返すため、日々節約してお金を貯めているが、そのことは誰にも話していない。白鳥ことりからモデルや女優を勧められるほどの美人で、珠彦にはひそかに思いを寄せている。
曲直部 十和子 (まなべ とわこ)
叔父の妻で、志磨珠彦と志磨珠子の義叔母にあたる。神戸の曲直部病院で内科医として働いている。優秀な医者であり、数少ない女医として曲直部十和子に診てほしいと、日々遠方からたくさんの患者が訪れている。その多くの患者の訴えに耳を傾け、真摯に向き合う姿勢はまさに医者の鏡。珠子からも目指す医者の姿として目標にされている。生活を共にする珠子からは素っ気ない態度を取られていたが、のちに珠子が素直になれないだけだったことを知り、医者としての自分にあこがれを抱いてくれていたことも知った。それ以来、珠子との関係性もよくなり、実の娘のようにかわいがっている。
叔父 (おじ)
曲直部十和子の夫で、志磨珠彦、志磨珠子、志磨珠樹の叔父にあたる。神戸の曲直部病院で外科医として働いている。優秀な医者で、珠彦が事故に遭った時に右腕の手術を担当した。叔父が執刀していなければ、珠彦の腕の状態はもっと悪くなっていたといわれていた。神戸で女学校に通う珠子を東京の志磨家から預かって以降、自分の子として生活を共にしており、本当の娘のようにかわいがっている。医者を目指す珠子の夢を応援し、医者として学びの場を提供している。
白鳥 策 (しらとり はかる)
志磨珠彦と同じ学校に通う編入生で、全国民あこがれの歌姫・白鳥ことりの双子の兄。日本中から嫌われている志磨の一族である珠彦に対し、何を気にすることもなく友達だと言った変わり者。明るい性格ながら、どこへ行っても「ことりの兄」としてしか見てもらえないことに心を痛めていた時、珠彦だけが名前を覚えてくれ、自分を個人として見てくれたことに感動し、珠彦の人となりを知る。それからは珠彦の家で食事をごちそうになったり泊めてもらったりするなど、立花夕月の世話になることもあり、親しくしている。また音楽を極めたことりに対し、自分も何か新しい夢を見つけようと考え、将来医者になる夢を持つことになる。のちに、珠彦を通じて神戸で志磨珠子と知り合い、恋に落ちる。
白鳥 ことり (しらとり ことり)
「全国民あこがれの歌姫」と評される女の子で、白鳥策の双子の妹。ツインテールの髪型で、大きなリボンをつけている。数々のレコードを発売し、リサイタルも開催するなど、美しい歌声で人気を博している。忙しい日々を送っているが、策のことが大好きで大切に思っており、策の夢を応援している。
麗美 (れみ)
志磨珠彦や立花夕月と同じ村に住む少女。珠彦に勉強を教えてもらっている子供の中の一人で、安産の神様が祀られている神社の娘。長めの前髪で目元が隠れており、少々陰気な雰囲気を漂わせている。「わたしが見えるの?」が口癖。3年前に母親を亡くしたが、大好きだった母親といっしょに白鳥ことりのリサイタルに行った際、買ってもらったことりちゃん人形を今でも大切にしており、人形の着物が破けてしまったため、裁縫を教えてほしいと夕月を頼った。その際、おやつにと亡き母親との思い出の味である柚子羹を夕月といっしょに作り、食べたことで、忘れかけていた母親の声を思い出すことができた。
志磨 珠樹 (しま たまき)
志磨珠彦と志磨珠子の兄で、年齢は22歳。志磨家の長男として、将来自分が当主になるときのことしか考えていない。思いやりの気持ちを持っておらず、自分本位で言葉はいつも辛辣。ある時、珠子から立花夕月が手作りしたミルクキャラメルをもらって食べ、すっかりその味のとりこになった。
珠央 (たまお)
叔父の息子。神戸で叔父や曲直部十和子と共に暮らしており、将来の夢は叔父の後を継いで医者になること。日々勉強に忙しいが、最近は息抜きに料理することを覚えた。東京にいた頃と違い、家族や友達とすごす穏やかな日常に幸せを感じている。もともとは志磨家の三男として生まれ、志磨珠彦の弟で志磨珠子の兄だが、紆余曲折を経て神戸では叔父夫婦の子として生活を共にしている。
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