あらすじ
農民
日本全土の正確な姿を知るために日本中を測量していた賢人の伊能忠敬は、小田原の栢山村(かやまむら)で農民の少年と出会う。「二宮金次郎」と名乗る少年は大量の薪(まき)を背負い、歩きながら思想書『中庸』を読んでいた。金次郎の家は貧しく、百姓だった父親が亡くなってからは家族全員が貧困に苦しんでいた。金次郎に興味を持った忠敬は、彼にいくつかの思想書を勧めたうえで、とある助言を与えて再び測量のために旅立つ。金次郎はお人好しの二宮利右衛門のもとで生まれた頃は裕福だったが、利右衛門が亡くなって田畑を失ってからは貧困にあえぎ、長男の金次郎は懸命に働きながら家族を支えていた。ある日、捨てられた苗を拾った金次郎は、家のそばにある草むらに集めた苗を植えることで新たな田を開墾して稲を育てようとする。やがて母親の二宮よしが急死し、残された金次郎と二人の幼い弟は、それぞれが親戚の家で暮らすことになる。怠け者の萬兵衛の家で暮らすことになった金次郎は、いずれ弟たちを迎えに行くことを心に決め、萬兵衛の代わりにあらゆる仕事をこなしていた。そんな金次郎は、以前に家の近くに植えておいた苗が立派に成長して実をつけているのを発見する。小を積んで大とする自然の中の道「積小為大」に感激し、どんな時でもあきらめずに行動することの大切さを悟った金次郎は、自分が農民に生まれたことに感謝しながら、自分の学んできた学問を人々のために役立てることを誓う。萬兵衛の家に預けられてから2年が経ち、金次郎は実家の二宮家に戻る意思を萬兵衛に告げ、寝る間も惜しんで彼の息子、与助の目の前で荒れ地を耕していた。与助はそんな金次郎の姿を見ても百姓として生きることを馬鹿らしく思い、やがて家を出て渡世人となる。一方、努力を惜しまず邁進(まいしん)した金次郎は、弟の二宮友吉と二宮富治郎を連れ戻すことに成功し、三人で再び二宮家で暮らすようになる。やがてトラブルに巻き込まれて行き場をなくしていた与助も加わり、金次郎はみんなの力を借りながら、誰のものでもない荒れ地の開拓に力を入れるようになる。青年に成長した金次郎は実家の再興にみごと成功し、村内でも有名人として知られるようになるが、富治郎が病気で亡くなってしまう。それから3年が経ち、いくつもの田畑を所有する地主となり、富治郎のことを思い出しながら田畑を眺めていた金次郎は、彼の噂(うわさ)を聞きつけた小田原藩の家老、服部十郎兵衛から重大な依頼を受けることになる。
報徳仕法
金言名句「小事を努めて怠らなければ、大事は必ず成就する」をはじめ、「積小為大」の概念を有する二宮金次郎の存在は、小田原藩士、服部家の財政の建て直しに成功したこともあり、小田原中に広まっていた。そんな金次郎に、荒廃した村「桜町」の再興という難題が持ち掛けられる。痩せ細った土地に怠け癖がついた百姓たちと、問題が山積みの中で、工夫をこらして全力を注ぐ金次郎だったが、あまりにも障害が多く、村民に信頼されるのには時間が必要だった。さらには金次郎を気に入らない者たちが嫌がらせを始め、彼は新たな代官「豊田正作」によって桜町を追い出されてしまう。仕方なくその場を離れた金次郎はしばらく寺に籠って断食修行を始め、修業を終えた頃には金次郎のことを慕う桜町の大勢の百姓たちに出迎えられる。そして金次郎は、正作に代わる代官が派遣されたことで村の再興を再開し、金次郎に信頼を寄せる百姓たちの協力もあって村の田畑には順調に命が吹き込まれていく。そんな中、村のナス畑の様子を見ていた金次郎は、ナスの状態から来年の天候が乱れて多くの作物が冷害に襲われる可能性に気づく。それはナスの味が夏ではなく秋の味だったという理由だったが、必ず冷害が起こるという確信はなく、百姓たちと話し合った結果、飢饉(ききん)に備えて寒さに強い作物を育てつつ米を蓄え、いざという時はみんなで分け合うことを決める。やがて、金次郎の予測どおりに深刻な冷害が各地を襲い、3月になっても大荒れの天候が続き、人々は大飢饉に苦しむことになる。そんな中、金次郎の備えで飢饉を乗り越えた桜町の人々は、蓄えていた食料の配布を開始し、ほかの地域の人々にも手を差し伸べていた。それでも大飢饉に苦しむ人々は多く、金次郎は小田原に戻って食料をみんなに分けて欲しいと懇願する中、江戸から戻ったばかりの服部十郎兵衛と再会を果たす。桜町再興はもちろん、飢饉でも村から死人を出さなかった功績を認められた金次郎は、小田原周辺の立て直しを命じられ、これも成功させる。再び小田原に戻った金次郎は、小田原藩の筆頭国家老「大田門左衛門」にも数々の偉業を認められる一方で、人々を飢饉から救う次の仕事に取りかかる前に、武士たちに贅沢(ぜいたく)をやめて生活水準を百姓並に下げて欲しいと進言する。
関連作品
漫画
本作『猛き黄金の国 二宮金次郎』は、本宮ひろ志の「猛き黄金の国」シリーズの一作となっている。シリーズはいずれも集英社「ビジネスジャンプコミックス」から刊行されている。「猛き黄金の国」は歴史上の偉人を主人公とした物語で、『猛き黄金の国 道三』『猛き黄金の国 柳生宗矩』のほか、本作にも登場した賢人、伊能忠敬を主人公とした『猛き黄金の国 伊能忠敬』がある。
登場人物・キャラクター
二宮 金次郎 (にのみや きんじろう) 主人公
小田原藩・栢山村出身の経世家、農政家、思想家の男性。戦前戦後の大物実業家たちにもその哲学や手法が手本とされた、日本の資本主義の原点思想を生み出した人物。幼少期から働き者で勤勉な性格で、高い身分を得たあ... 関連ページ:二宮 金次郎
伊能 忠敬 (いのう ただたか)
日本全国の正確な姿を知るために日本中を旅する中年男性。下総(しもうさ)の佐原出身。日本全国を測量するために小田原を訪れた際に、薪を背負いながら思想書を読んでいる15歳の少年、二宮金次郎と出会った。勤勉で働き者な金次郎に興味を持ち、握り飯を分け与えながらお勧めの本のほか、さまざまなことを教えた。この伊能忠敬の出会いがのちの金次郎に大きな影響を与え、彼のもっとも尊敬する心の師となっている。のちに、江戸を訪れていた34歳の金次郎と久々の再会を果たす。この頃には年老いて病床に臥(ふ)せっていたが、蝦夷(えぞ)地から18年かけて国中を渡り歩いて作り出した完成間近の「大日本沿海輿地(よち)全図」を見せ、金次郎を感激させた。文政元年(1818)に死去。享年は74歳。実在の人物、伊能忠敬がモデル。
二宮 利右衛門 (にのみや りえもん)
小田原藩・栢山村の百姓の男性。二宮金次郎、二宮友吉、二宮富治郎の父親。妻の二宮よしからはかなりのお人好しと評され、困った人がいれば金や食料などを貸したり分け与えたりしていた。所有していた田畑は水害によって流され、二宮利右衛門の死後は残された金次郎たちが深刻な貧困に悩まされることになる。実在の人物、二宮利右衛門がモデル。
二宮 よし (にのみや よし)
二宮金次郎、二宮友吉、二宮富治郎の母親。曽我別所村の川久保太兵衛の娘として生まれた。夫の二宮利右衛門が亡くなってからは家が一気に貧しくなり、父親の葬儀のために実家に訪れた際、喪服がなくて弟の富七に追い返されるほどに貧困に苦しんでいる。そんな中、近所の農作業を手伝っていた際に倒れ、駆けつけた金次郎の看病を受けるもののそのまま帰らぬ人となった。
二宮 友吉 (にのみや ともきち)
二宮利右衛門と二宮よしの次男で、二宮金次郎の弟。母親のよしや兄の金次郎に代わって、まだ幼い二宮富治郎の世話をすることが多かった。母親の死後は富治郎と共に親戚の茂吉の家に預けられ、金次郎とは離ればなれになる。のちに金次郎と再会し、富治郎と共に二宮家に帰還し、二宮家の再興に着手した金次郎を支える。富治郎の死後も金次郎の支えとなり、成長後も彼のもとでさまざまな仕事を手伝っている。
二宮 富治郎 (にのみや とみじろう)
二宮利右衛門と二宮よしの三男で、二宮金次郎と二宮友吉の弟。まだ幼く、母親のよしや兄の友吉に背負われていることが多かった。よしの死後は友吉と共に親戚の茂吉の家に預けられ、金次郎とは離ればなれになる。のちに金次郎と再会し、友吉と共に二宮家に帰還する。しかし、金次郎が実家を再興させる頃に高熱を出して倒れ、そのまま命を落とす。
与助 (よすけ)
二宮金次郎の親戚の青年。金次郎が預けられた萬兵衛の息子だが、萬兵衛が生きているあいだは田畑が自分のものにならないことに不満を抱えている。金次郎が実家の二宮家に戻ったあと、しばらくは彼の様子を見守っていたが、このまま百姓として生き続けても金持ちにはなれないと、半ば人生をあきらめている。やがて百姓が嫌になって実家を出たあとは町の渡世人となり、源造親分の世話になっていた。のちに源造一家のケンカに巻き込まれて大ケガを追った状態で村に戻るも、実家がすでに弟が継いでいることで行き場がなくなるが金次郎に救われた。その後は二宮家に身を寄せることになり、恩人である金次郎たちの仕事を手伝いながら恩返しをしている。
萬兵衛 (まんべえ)
百姓の中年男性。二宮金次郎の親戚で、妻や息子の与助をはじめとする家族と共に栢山村で暮らしている。金次郎の母親、二宮よしが亡くなったことで金次郎を預かることになるものの、彼を馬よりも安い道具のように扱い、自分の仕事の大半を金次郎に押し付けて萬兵衛自身は怠けていた。2年後に二宮家へ戻ることになった金次郎に対し、出て行くことは認めるが困窮しても助けないと念を押していた。
服部 十郎兵衛 (はっとり じゅうろうべえ)
小田原藩で1200石取の家老を務める中年男性。左頰の辺りに大きなホクロがある。服部家の財政難に悩んでいるが、親族の助言を受け、生家の再興に成功した二宮金次郎を屋敷に呼び出し、儒学を学ぶ息子の清太郎たちの学びの友になって欲しいと依頼。本当に金次郎へ依頼したかったのは服部家の財政再建であったが、農民の彼にはなかなか相談できず、金次郎の勤勉さと視野の広さに感服した清太郎を通じて正式に依頼する。この申し出を受けた金次郎は、5年間の節約で服部家を救うことを約束し、使用人も含む服部家の者たちに倹約を進言および推奨すると共に、自分の言動にいっさい口答えをしないという条件を伝えた。そして文化11年(1814)には、服部家の財務を整理して負債を償却し、金次郎は財政再建に成功した。これが評判となった金次郎は、小田原藩内で名前が知られるようになり、一部の藩士からも注目されるようになる。藩主の大久保忠真も金次郎を重用しようと考えていたが、家臣たちの反対によってうまくいかず、金次郎にあえて遠回りをさせるべく、桜町の再興を命じるよう忠真に提案した。やがて期待以上の働きを見せた金次郎が桜町再興に成功する頃は、病を患った忠真のもとに駆けつけるために江戸へと向かっていた。そして江戸から戻った際、飢饉に苦しむ民たちへ食料を分けるよう懇願する金次郎に遭遇し、門前で武士たちと揉(も)めていた彼のことを助けた。武士にまで倹約を推奨する金次郎の大胆な改革には驚かされ、武士たちが金次郎を小馬鹿にする中で彼の実践での発想と行動力は高く評価しており、金次郎に固執する忠真の影響もあって彼に期待と信頼を寄せている。実在の人物、服部十郎兵衛がモデル。
中島 きの (なかじま きの)
堀之内村の「中島弥三右衛門」の娘。凛(りん)とした雰囲気をまとった美女で、家族の墓参りに来ていた二宮金次郎と出会い、弥三右衛門に気に入られた金次郎の最初の妻となる。しかし、結婚後も倹約を徹底する金次郎をドケチと評するなど、その生活には不満や複雑な感情を抱いていた。金次郎とのあいだに息子を身籠り、文政2年(1819)に出産するも、生まれたばかりの息子は命を落とした。その際に武家の娘でありながら、百姓の金次郎と結婚したためにばちが当たったと悲しんでいた。その後、家風に合わないという理由で金次郎とは離縁した。
なみ
二宮金次郎が服部家で出会った少女。飯泉村出身。家が貧しいため服部家の使用人として奉公に出ているが、自らの給金だけでは実家を支えられないため、返済するあてもないままに金次郎に金を貸して欲しいと申し出る。すると金次郎の提案により、炊事に使う薪の使用量を減らすための工夫を続けることで節約し、余った薪を金次郎に買い戻して貰(もら)う形で少しずつ返済していた。金次郎のおかげで無事に借金を返済し、実家に戻ってからは平塚にある団子屋で働くようになり、旅の途中だった金次郎と再会を果たす。そして16歳の頃、金次郎に告白されて結婚することになる。金次郎のことを思い続けていたが届かぬ思いとして胸に秘めていたため、結ばれた時は何度も感涙していた。妻として金次郎のことを心から信頼しており、全国で活躍する彼を心身共に支えている。金次郎が小田原を離れて桜町への移住が決まったあとは、息子の二宮尊行を連れて桜町に移住した。
宇野 椎之進 (うの しいのしん)
小田原藩の儒学者を務める老齢な男性。口ヒゲと顎ヒゲを生やしている。儒学「宇野塾」を開いており、服部十郎兵衛の息子である清太郎たちにも儒学を教えている。ただ本を読んで学ぶだけではなく、学んできた学問をどれだけ自分や人のために活かすかが大事という考えの持ち主で、清太郎たちにも厳しく接していた。十郎兵衛の依頼を受けて清太郎たちの学友となった二宮金次郎と出会い、金次郎が服部家財政再建を依頼されたあとはその経緯を見守っていた。のちに、金次郎が発案した五常講を、彼の希望によって「宇野椎之進」の名で発足して人々に広めた。
大久保 忠真 (おおくぼ ただざね)
小田原藩の第7代藩主を務める男性。第6代藩主・大久保忠顕の長男。藩重臣の服部十郎兵衛からは「持って生まれた頭のいいお方」と評される。小田原藩の財政窮乏と藩政改革に悩まされていた頃、二宮金次郎の噂(うわさ)を聞き、一度面談しただけで金次郎の素質を見抜き、服部家財政再建を成功させた実績のある彼を改革のために登用しようと考える。しかし、身分秩序を重んじる重臣たちが反対したため、金次郎の登用はすぐには叶(かな)わなかった。それでもどうしても金次郎を重用したいと考え、十郎兵衛の提案を受けて大久保家の分家にあたる宇都家の領地、下野国(しもつけのくに)桜町領の復興を依頼する。この桜町は荒廃が進んで収穫が大幅に落ち込み、これまでに小田原藩から代官が派遣されてもうまくいかず、その復興は難題とされ、実際に現地に赴いた金次郎も苦悩する。その後、桜町への移住を決意した金次郎から、百姓たちへの補助金を停止するよう進言され、渋々これに応じた。のちに金次郎が桜町復興に成功し、人々が天保の大飢饉を乗り越える頃、重臣たちを説き伏せて小田原本藩の復興を正式に依頼して金次郎の改革を支援した。天保8年(1837)に急死。享年57歳。遺言として金次郎を幕府の役人として取り立てるよう、筆頭老中「水野忠邦」に伝えていた。実在の人物、大久保忠真がモデル。
作太郎 (さくたろう)
桜町に住む百姓の男性。大柄な体型をしている。非常な怪力の持ち主で、巨大な丸太を難なく振り回せる。訛(なま)り口調で話す。百姓をやめて江戸で相撲(すもう)取りになるのを夢見ていたが、桜町で百姓を続けるしかないとあきらめている。ぶっきらぼうながら情熱的で思いやりのある性格で、村民からの人望も厚い。当初は桜町再建のために訪れた二宮金次郎をあまり快く思っておらず、すぐに音を上げると思っていたが、2か月以上も試行錯誤を試みる姿を見て、金次郎であれば桜町を再興できると期待と信頼を寄せるようになる。また金次郎に接することで、百姓として村のために一生懸命働くことへの熱意を取り戻した。その熱意は金次郎に頭を下げて協力を誓い、彼を感涙させるほどの意気込みを見せた。のちに武士に目を付けられた金次郎に命の危険がせまった時には、丸太で彼を守った。代官の「豊田正作」が金次郎を追い出したあとは、彼を慕う村民たちを率いて成田山に籠っていた金次郎を出迎えた。金次郎の復帰後は彼を名主に推薦し、金次郎が冷害を予測した際も食料を蓄える提案を聞き入れ、全力で協力した。
富田 高慶 (とみた たかよし)
相馬中村藩士の青年。陸奥(むつ)相馬中村藩士「齋藤嘉隆」の次男。二宮金次郎が下総の印旛沼(いんばぬま)の開拓を命じられたあとに自ら彼のもとを訪れ、弟子入りを申し出る。金次郎よりも高い身分の武士でありながら、武士たちが体裁を取り繕ってばかりで、現実的な行動を起こさないことや、民ではなく自分たちの安定しか考えていないことを憂え、金次郎こそが未来を見ている人物と評する。希望どおり金次郎の弟子となり、課題の多い印旛沼の開発に従事する金次郎の片腕として、報徳仕法をさまざまな形で支えた。金次郎の死後も二宮弥太郎や二宮尊親と同様に彼の意志を継ぎ、日光仕法や相馬仕法に従事した。また、金次郎の生涯や教えを綴った『報徳記』を執筆した。これは終戦後に大蔵大臣の石橋湛山によって英訳され、GHQ民間情報教育局のダニエル・インボデン少佐に読まれた。実在の人物、富田高慶がモデル。
二宮 尊行 (にのみや たかゆき)
二宮金次郎となみの息子で、彼の嫡男。通称「弥太郎」。幼少期に父親の金次郎が桜町再建のために移住することが決まり、母親のなみに連れられて桜町に移住し、両親と二宮友吉の四人で暮らすようになる。当初は、金次郎をよく思わない桜町の村民から嫌がらせを受けてケガをすることもあった。金次郎を尊敬しており、武士たちに目を付けられ争いが起こった際は、彼を命懸けでかばおうとしていた。立派に成長したあとも、各地の再建に従事する金次郎について回り、なみや妹のふみと共に支えていた。父親の病死後も彼の遺志を受け継いで、日光山領の仕法を進めた。実在の人物、二宮尊行がモデル。
二宮 尊親 (にのみや たかちか)
二宮金次郎となみの孫で、二宮弥太郎の長男。祖父の金次郎の改革をもとに報徳仕法を民間で実践するため、富田高慶を社長に興復社を設立し、自らは副社長に就任した。高慶の死後は興復社の社長としてさまざまな土地の開墾を進め、明治30年(1897)には移住民75名と共に北海道十勝平野にある豊頃村に移住した。仲間たちと共に北海道の地を豊かにすべく開墾を進めていき、人々に至誠勤労や分度推譲の大切さを説きながら大農場を築いた。実在の人物、二宮尊親がモデル。
その他キーワード
天保の大飢饉 (てんぽうのだいききん)
天保4年(1833)頃から関東各地を襲った大飢饉。寛永の大飢饉、享保の大飢饉、天明の大飢饉に続く江戸四大飢饉の一つ。主に悪天候による冷害から始まり、3月が近い時期でも大吹雪(ふぶき)や大雨などの深刻な悪天候が人々を苦しめ、貧困の農民を中心に多くの餓死者を出した。桜町の再興に勤しんでいた二宮金次郎は、この天保の大飢饉が発生する数か月前から、村で実ったナスの状態から冷害を予測し、稲作から冷害に強いにアワ・ヒエ・根菜に切り替えて、飢饉にそなえて米を買いだめし食料を蓄えるよう村人たちに指示していた。これにより桜町は被害を免れて一人の餓死者も出さないどころか、蓄えた食料を近隣の村に分け与えることができた。
報徳仕法 (ほうとくしほう)
小田原各地の再建に従事した二宮金次郎が主導および実行した財政再建策の総称。領主財政を対象としたもの、村単位のもの、家単位のものの3種類に大別される。報徳思想の基本となる「分度」と「推譲」の二つを基本的な概念としている。「分度」はそれぞれが分に応じた生活を守ることを意味し、それによって生じた余剰分を拡大再生産にあてることの重要性を説いている。金次郎が桜町の再建を成したあと、彼に正式に小田原藩の再建を依頼した大久保忠真は、金次郎が成功させた仕法を論語の「以徳報徳」をもとに報徳仕法と称した。その後も飢饉に苦しむ民を救おうと各地に赴いた金次郎は報徳思想を唱えながら、農民の生活の安定のために報徳仕法を農村復興政策として指導した。天保の大飢饉を乗り越えたあとも金次郎は安政3(1856)年にその生涯を閉じるまでに、600を数える村に報徳仕法を施して再建に努めていた。金次郎の死後も彼の子孫や門人たちが志と教えを引き継ぎ、各地で報徳仕法を実践した。
五常講 (ごじょうこう)
服部家の財政再建の中で、人々が互いを助け合うための仕組みとして二宮金次郎が発案した制度。「仁義礼智信」の「人倫五常の道」を守ることを基本としている。具体的には金の貸借の過程で「仁」の心を持って分度を守り、余裕のある者が困っている者に金を推譲し、借りた方は「義」の心で返済し、「礼」の心で冥加金(みょうがきん)を差し出して恩に報い、借りた心は「智」の心でうまく運用し、「信」の心で相手との約束を守る、といったことを説いている。金次郎は借金に苦しむ使用人たちを組織したうえでこの五常講を作り、節約の仕方から資金作りの方法、金の貸借に欠かせない信頼関係について指導した。金次郎本人の希望により宇野塾の授業に取り入れられ、宇野椎之進の名前で多くの人々に広められていった。この五常講に加え、金次郎は小を積んで大と為(な)す「積小為大」や「報徳仕法」などの教えや思想を人々に広めながら、農民の生活の安定化を目指した。