時代設定
物語の舞台となっているのは、中国の唐朝第二代皇帝、太宗の治世下であり、玄奘三蔵が天竺から帰還したあとの世界。史実において王玄策は3度、もしくは4度天竺と唐を往復しているが、ストーリーは2度目の遠征で起こった天竺での出来事が描かれている。
あらすじ
唐の文官、王玄策は時の皇帝からの命によって遣天竺修好使節団を率いて天竺を目指していた。玄策にとっては2度目の天竺への旅だが、さまざまな困難を乗り越えた先に待っていたのは天竺北部の国「摩伽陀国」での理由なき惨殺と投獄だった。先に投獄されていたナーラーヤナ・スヴァーミンによって、現王のアルジュナが先王ハルシャ・ヴァルダナとは血縁関係のない簒奪(さんだつ)の王だと知った玄策は蒋師仁を伴って、ナーラーヤナが用意していた抜け穴を使用して脱獄する。アルジュナに仕える暗殺者であるチャンダ・ムンダに命を狙われながらも、仲間を救出するための救援を求めて泥婆羅(ネパール)の王を務めるナレーンドラデーヴァの居城に辿り着いた玄策たちは、女将軍のラトナ率いる兵7000騎と、泥婆羅に滞在していた吐蕃(チベット)の将軍、ロンツォン・ツァンポ率いる吐蕃兵1200騎の助力を得ることに成功する。しかし少ない兵力で摩伽陀国を攻略するためには、アルジュナやその腹心たちに気取られないよう近づく必要がある。そこで玄策は、現地の人間では決して立案できないある作戦を思いつく。
関連作品
小説
本作『天竺熱風録』は田中芳樹の小説『天竺熱風録』を原作としている。原作小説版は祥伝社文庫と祥伝社のノン・ノベルから刊行されており、カバーイラストは共に藤田和日郎が担当している。ノン・ノベル版では田中芳樹が当時の泥婆羅(ネパール)の王を特定できていなかったことから「アムシュヴァルマン」と記されていたが、祥伝社文庫版から「ナレーンドラデーヴァ」に修正されている。
登場人物・キャラクター
王 玄策 (おう げんさく)
唐の文官の男性。遣天竺修好使節団を正使として率いており、左頰に傷痕がある。また喫煙者で、よくキセルをくわえている。基本的に温厚で冷静な性格ながら、べらんめえ口調で話し、筋が通っていないと感じることには、相手が王であろうとはっきりと物申す気概を持つ。摩伽陀国への到着直後にアルジュナによって説明もなく投獄された際には、脱獄して泥婆羅(ネパール)、吐蕃(チベット)まで逃れ、ナレーンドラデーヴァへ救援を依頼することを決断した。しかし、戦争を外交の敗北結果だと考えており、王玄策自身の無力さを後悔している様子が見られる。実在の人物、王玄策がモデル。
蒋 師仁 (しょう しじん)
唐の文官の男性。遣天竺修好使節団を副使として率いている。母親が西胡(イラン)出身なため、王玄策たちと比べて、目鼻立ちがはっきりとしている。豪胆さと優れた判断力を持ち合わせており、さらに腕も立つことから、王玄策が摩伽陀国を抜け出す際に随伴を命じられている。一見すると無茶に思える玄策の計画に不安を見せることも多いが、それをやり通してしまう玄策を尊敬もしている。しかし重傷を負っていようと、なんでも自分でやろうとする玄策の行動力については、美点でもあり欠点でもあると見ており、蒋師仁自身が先回りして動かなければならないと考えている。
王 玄廓 (おう げんかく)
唐の文官の男性。王玄策のいとこで、玄策と非常に顔立ちが似ている。遣天竺修好使節団の一員で、玄策が摩伽陀国を抜け出す際には、原作と顔が似ていることから身代わりとして牢に残った。共に牢に残った遣天竺修好使節団の面々の精神面を気にかける一方で、王玄廓自身も精神的に疲弊していたが、幾度となく智岸法師と彼岸法師のユーモアを感じさせる会話に助けられる。
智岸法師 (ちがんほうし)
唐の学僧の男性。遣天竺修好使節団の随伴僧として、王玄策と行動を共にしている。線が細く、痩せている。玄奘三蔵の弟子で、唐から天竺への旅路の途中で谷底に落ちた際、天竺の北部にある摩伽陀国の前王であるハルシャ・ヴァルダナの葬儀の様子を幻視していた。
彼岸法師 (ひがんほうし)
唐の学僧の男性。遣天竺修好使節団の随伴僧として、王玄策と行動を共にしている。肥満体型で、己の能力を過大評価しており、他人を見下しているところがある。玄奘三蔵の弟子で、玄奘三蔵を非常に尊敬している。そのため、玄奘三蔵を馬鹿にするような言動を見せるナーラーヤナ・スヴァーミンとは仲が悪い。
ナーラーヤナ・スヴァーミン
天竺の北部にある摩伽陀国で投獄されていた老齢な男性。年齢は200歳だと自称している。両目共に斜視で、浅黒い肌で非常に痩せており、長い白髪と髭を蓄えている。関西弁で話し、玄奘三蔵をただの収集家であり、宗教家としては下の下だと評している。詐欺行為も働いており、世俗の処世法以外の思想を持たない唐人をカモとして狙っているため、唐に行きたいと考えている。罪が軽かったため早々に釈放され、アルジュナによって王玄廓が処刑されそうになった際には神官に変装して救出した。名前が長いため、王玄策や玄廓からは「尊師」と呼ばれている。
ヤスミナ
天竺の北部にある摩伽陀国の少女。長い黒髪をポニーテールにまとめ、リボンを編み込んでいる。ラージャシュリーに仕える侍女で、ラージャシュリーに忠誠を誓っているため、ラージャシュリーを軟禁し続けているアルジュナを憎々しく思っている。孤児たちと仲がよく、友人のような関係を維持しながら指示を与えることができる。脱獄直後の王玄策たちがラージャシュリーの屋敷に逃げ込んだ際には泥棒と勘違いして殴りかかろうとした。しかし、その目的を知って深く共感し、孤児たちを使って無事に玄策たちが摩伽陀国を出立できるように、兵たちを陽動するため騒動を引き起こす。
ラージャシュリー
天竺の北部にある摩伽陀国の老齢な女性。盲目で、白い髪をうなじでシニヨンにまとめ、黒いサリーを身につけている。先代の王であるハルシャ・ヴァルダナの妹で、アルジュナによって別宅に軟禁されている。物覚えがよく、3年前に一度会っただけの王玄策の声や役職を記憶していた。また玄策たちの境遇を知ってすぐに、玄策たちが泥婆羅(ネパール)に援軍を求めるため脱獄したことを見抜くほどに聡明。ヤスミナをかわいがっており、ヤスミナが結婚する際には持参金を持たせようと金銭を蓄えていた。しかし、その持参金をすべて玄策たちの旅費として与え、玄策たちが無事に摩伽陀国を出立できるように取り計らった。
ラトナ
泥婆羅(ネパール)の将軍を務める女性。一部を縦巻きにした長い黒髪で、装飾のついた額当てや鎧を身につけている。戦闘においては非常に優秀で冷静な判断を下すことができるが、腹芸はできず、素直に応じてしまうところがある。また女性であることを理由に戦力を疑問視されることに我慢ができないという、負けず嫌いな一面も持っている。戦闘において苛烈な姿を見せることからインド神話の荒々しい女神の名を取って「ドゥルガー」とも呼ばれている。
ナレーンドラデーヴァ
泥婆羅(ネパール)の王を務める男性。長い金髪をオールバックにしている。幼少期、叔父によって父王を殺害されて吐蕃(チベット)に逃れ、吐蕃の王の庇護を受けて攻め戻り、王位を奪還した過去がある。摩伽陀国を簒奪したアルジュナを警戒しており、王玄策が救援を求めるより以前からその政策について監視の目を光らせていた。玄策からの救援を口実に、アルジュナ政権崩壊を目標に7000騎の出兵を決定し、さらに別の目的で滞在していたロンツォン・ツァンポが率いる兵1200騎にも戦列に加わるよう口添えしている。
ロンツォン・ツァンポ
吐蕃(チベット)の将軍を務める男性。非常に大柄で屈強な肉体をしており、三つ目の獅子頭のような兜のある鎧を身につけている。別の目的でナレーンドラデーヴァのもとに滞在していたが、王玄策の求めに応じる形でアルジュナの政権を討つ戦列に加わった。その際、女性であるラトナがロンツォン・ツァンポの上官として指揮するとの決定に異議を申し立て、ラトナとの試合を行うこととなった。鎧に毛皮がついていることやその体格から、玄策には雪男という意味の「イエティさん」と呼ばれている。
アルジュナ
天竺の北部にある摩伽陀国の王を務める中年男性。極めて排外的でバラモン第一主義の政治を行っており、先代の王であるハルシャ・ヴァルダナが他国と交わした商業や交通の協定を反故(ほご)にしている。小国の王だったという情報はあるものの、その素性は明らかにされておらず、王位を簒奪した経緯はラージャシュリーにもつかめていない。そのうえで、ハルシャ・ヴァルダナのものは権利や国際関係、宝物に至るまですべて受け継いだと考え、非常に傲慢な態度を見せる。遣天竺修好使節団のメンバー数人を有無を言わさず惨殺し、説明もなく捕縛、投獄した。王玄策の策略に乗って戦場に現れたが、敵軍を前にして交戦せず一夜を明かすなど、自らの手を汚すことを極力忌避し、誰かが代わりに終わらせてくれるだろうと考える他力本願なところを見せた。
ヴィマル
天竺の北部のにある摩伽陀国の王子を務める男性。長い黒髪をお団子に結い上げている。非常に聡明で、情勢を読むことにも長(た)けている。父親であるアルジュナが政敵粛清を進めていることで城内に怨嗟(えんさ)が広がっていることを察知し、故郷へ戻ることを進言した。しかしそのことが原因で、アルダナリー・シュヴァラに危険視されている。
アルダナリー・シュヴァラ
天竺の北部にある摩伽陀国の女性。ウェーブがかった黒髪をポニーテールにし、額には縦に開いた眼球の刺青を入れている。ふだんは女性の姿をしているが、実際は物理的に男性にも女性にもなれる両性具有の肉体の持ち主。アルジュナの側仕えをしているがアルジュナに政治的助言を許されているなど、ふつうの側仕えとは一線を画している。また、裏でチャンダ・ムンダやヴァンダカに指示を出している様子があることや、ヴィマルの頭のよさを目障りに思っている様子が見られることから、ヴィマルからは警戒されている。祭祀や暗殺などを行う一族であるアナング・プジャリの一人。
チャンダ・ムンダ
天竺の北部にある摩伽陀国の暗殺者。つねに3面の顔を持つ仮面をかぶり、体を覆い隠すような黒い大きなマントを身につけており、4本の腕を持つ。また、祭祀や暗殺などを行う一族であるアナング・プジャリの一人。アルジュナに反逆を企てる大臣を殺害した直後、脱獄した王玄策と蒋師仁を発見し、戦闘に及んだ。実は幼児のような体形の兄と、屈強な体に頭部が二つあるシャム双子の弟たちという3兄弟であり、マントを二人羽織のようにしてチャンダ・ムンダという一人の人間として行動していた。しかし玄策に兄を殺害され、玄策への復讐に燃えている。
ヴァンダカ
天竺の北部にある摩伽陀国の将軍を務める男性。ウェーブがかった黒髪を下ろしたままにしている。非常に犬歯が発達しており、憤怒相の仏像に似た顔をしている。祭祀や暗殺などを行う一族であるアナング・プジャリの一人。王玄策率いる遣天竺修好使節団が摩伽陀国に到着した直後、即座に数人を惨殺したあと、罪人としてアルジュナの前に連行している。精鋭遊撃隊である「蟒魔(ヴリトラ)部隊」を率いて、サイに騎乗している。額をはじめ、体の4か所に金剛石(ダイヤモンド)を埋め込んでいる。
アガースラ
天竺の北部にある摩伽陀国の女性。ウェーブがかった黒髪をポニーテールにし、その先を数本の三つ編みにしている。祭祀や暗殺などを行う一族であるアナング・プジャリの一人。アルジュナの側仕えとして歌舞音曲を奉じているが、実際にはアルダナリー・シュヴァラに忠誠を誓っている様子が見られる。戦闘の際には殺傷範囲の広い鞭剣(ウルミ)を使って戦うことから、摩伽陀国の兵士からも恐れられている。
バースカラヴァルマン
天竺の南部にあるカーマルーパの王を務める男性。背が低く、ねじれ癖のある黒髪を下ろしたままにしている。好奇心が強く、傲慢で強引なところが目立つが、人間の真意を見抜く眼力を持っている。バースカラヴァルマンにも物怖じせず考えたままを語る王玄策を気に入り、摩伽陀国の兵士数万騎を預かることをあっさりと了承した。幼い容姿から「童子王」とも呼ばれている。
集団・組織
遣天竺修好使節団 (けんてんじくしゅうこうしせつだん)
唐の都、長安から出発し、天竺を目指す使節団。44名で構成されており、王玄策が指揮を執っている。3月に出発し、5月に蜀の都である成都で八名が残留し、7月には吐蕃(チベット)の国王と王妃に謁見している。その後、8月に泥婆羅(ネパール)の王都にて国王に謁見してから8月末、天竺北部に到着している。摩伽陀国に到着後、ヴァンダカによって数名が惨殺され、その後はアルジュナの命令によって牢獄に幽閉されている。
場所
摩伽陀国 (まがだこく)
天竺の北部にある国。天竺内にある18の国々をまとめている。かつては「戒日王」とも呼ばれたハルシャ・ヴァルダナが国王として納めていたが、崩御したことで現在はアルジュナが即位している。王玄策はハルシャが健在の頃に面識があった。アルジュナの即位後は恐怖政治が敷かれており、国民に活気がまったくない。また、大臣や貴族の間にも反アルジュナを唱える者がいることから、暗殺事件が多く起こっている。
その他キーワード
アナング・プジャリ
天竺に伝わる一族。人間に憑依(ひょうい)して祟(たた)る土着の神々や精霊、亡者を供養して鎮めたり、召喚することのできる巫覡(ふげき)とされている。しかし、アナング・プジャリの一部がバラモン教の支配者層と結びついたことで本来の巫覡としての役割ではなく、暗殺や特殊工作に従事することになった。薬物を用いる常軌を逸した修法を使うためか、部族内での近親婚が繰り返されたためかは定かではないが、時に異形の人間や異能を持つ人間が生まれるとされている。
クレジット
- 原作
-
田中 芳樹