作中では、「地獄から死者」との異名で語られる村森聖は、故村山聖九段をモデルとしている。
作中の村森聖も病をおしながら棋士の人生を全うする姿が描かれているが、実際の村山九段はそれ以上の壮絶な人生を送った棋士だった。
村山聖九段は1969年、広島県安芸郡の生まれ。「羽生世代」と呼ばれる棋士の中のひとり。
5歳のときに腎ネフローゼという難病にかかっているのが分かり、その入院中に将棋と出会う。
そのような状況の中から頭角を現し、中国こども名人戦において4大会連続で優勝するなど、広島の怪童と恐れられる存在になった。
そんな村山少年の転機となったのが、当時の谷川浩司八段が史上最年少の21歳で名人となったニュースだった。
このニュースを聞いた村山少年は自身も名人となることを志し、「谷川を倒すには今行くしかないんじゃ」と反対する周囲を説得し、プロ養成機関である奨励会に1983年に入会する。
そこから四段昇段、プロデビューまでにかかった年数はわずか2年11ヶ月。
入会の年齢が違うとはいえ、ライバルである羽生善治をも凌ぐスピードで関門をくぐり抜け、羽生の背中を追い、頂点にいる谷川を目指すことになる。
プロになってからも快進撃は止まらず、1992年度の王将戦でついに目標とする谷川浩司王将に挑戦を決めた。
しかし慣れない環境もあってか、普段では珍しい終盤でのミスを連発し、結局ストレート負けを喫してしまう。
これが村山九段、最初で最後のタイトル戦となった。
しかし、夢であった名人を目指すための順位戦の成績は好調で、1995年、25歳にしてついに名人を射程圏内に捉えるA級八段へと登り詰める。
だが、このあたりから体調を崩す日々が多くなっていったようで、進行性の膀胱癌も見つかり、A級在籍のまま1998年、死去。29歳だった。
村山九段はこのような壮絶な人生ゆえ、またその人望ゆえ、『月下の棋士』をはじめ数多くの作品でモデルとして登場している。
彼の生きた足跡を知ることで、それらの作品をより深く楽しめるのではないだろうか。
作中では、「地獄から死者」との異名で語られる村森聖は、故村山聖九段をモデルとしている。
作中の村森聖も病をおしながら棋士の人生を全うする姿が描かれているが、実際の村山九段はそれ以上の壮絶な人生を送った棋士だった。
村山聖九段は1969年、広島県安芸郡の生まれ。「羽生世代」と呼ばれる棋士の中のひとり。
5歳のときに腎ネフローゼという難病にかかっているのが分かり、その入院中に将棋と出会う。
そのような状況の中から頭角を現し、中国こども名人戦において4大会連続で優勝するなど、広島の怪童と恐れられる存在になった。
そんな村山少年の転機となったのが、当時の谷川浩司八段が史上最年少の21歳で名人となったニュースだった。
このニュースを聞いた村山少年は自身も名人となることを志し、「谷川を倒すには今行くしかないんじゃ」と反対する周囲を説得し、プロ養成機関である奨励会に1983年に入会する。
そこから四段昇段、プロデビューまでにかかった年数はわずか2年11ヶ月。
入会の年齢が違うとはいえ、ライバルである羽生善治をも凌ぐスピードで関門をくぐり抜け、羽生の背中を追い、頂点にいる谷川を目指すことになる。
プロになってからも快進撃は止まらず、1992年度の王将戦でついに目標とする谷川浩司王将に挑戦を決めた。
しかし慣れない環境もあってか、普段では珍しい終盤でのミスを連発し、結局ストレート負けを喫してしまう。
これが村山九段、最初で最後のタイトル戦となった。
しかし、夢であった名人を目指すための順位戦の成績は好調で、1995年、25歳にしてついに名人を射程圏内に捉えるA級八段へと登り詰める。
だが、このあたりから体調を崩す日々が多くなっていったようで、進行性の膀胱癌も見つかり、A級在籍のまま1998年、死去。29歳だった。
村山九段はこのような壮絶な人生ゆえ、またその人望ゆえ、『月下の棋士』をはじめ数多くの作品でモデルとして登場している。
また、ノンフィクション小説『聖の青春』の実写映画化が決定、2016年秋、全国にて公開予定となっている。