名作『夏子の酒』から数年後。自ら結婚式に招いた、かつて佐伯の家で働いていた、今は老人となった女性を「佐伯夏子」は訪ねていた。自分が10歳のころに亡くなった、祖母の生きていたころの話を聞くためだ。古い写真を頼りに、老女の記憶を呼び覚ます夏子。
聞けば夏子の祖母は、昭和3年、佐伯酒造から見て「川向う」の地主の次女として生まれ、何不自由ない暮らしをしていた18歳の秋。彼女は佐伯の次男の嫁として酒蔵のある家へ嫁いできたのだった。この2年前、佐伯の長男が夭逝し、実家の造り酒屋を継ぐために「電機関連の学者」の夢を断たれた次男・善造(ぜんぞう)。その嫁として、お見合いを交わし「蔵」の嫁となった18歳の少女の名前は奈津。「佐伯奈津(さえき・なつ)」となった、まだ少女ともいえる嫁の最初の役目は、長男・真造(しんぞう)が残した一粒種・菊江(きくえ)の母となることだった。
嫁いできて初めての朝を迎えた奈津。もう昨日までの娘ではなく、古い酒蔵の嫁であり、まだ幼い娘の母となった朝。奈津は初めて佐伯の庭で、憎みあい、愛し合い、慈しみあう娘・菊江と出会う。思わず逃げ出す菊江の後を追って奈津が入り込んだ蔵は、当時「けがれ」があるとして「女人禁制」を謳われていた酒蔵だった。平成の今では考えられない「差別」と、同性でありながら「昔ながらの常識」から一歩も先に進めない義母。その多くの無理解の中で、奈津はその生まれながらの「才能」を夫である善造にだけは認められていた。
酒に対する「官能」こそ、『夏子の酒』のヒロイン・夏子が受け継いだものだった。このころから佐伯酒蔵は「月の露(つきのつゆ)」という名前の酒を作っていたが、次男・善造が初めて造った「月の露」は、その年の地区の研鑽会で「16酒蔵中16位」という屈辱の最下位に沈んでしまう。善造を救うものが、まだ佐伯のある村には訪れがなかった「電気」という文明の力と、奈津の生まれもった「官能」の力であった。別のところで、実の母親・萌(もえ)と菊江のお互い名乗らない別れのシーンは、読む者の胸を打つ。かつてはこういう別れがそこかしこにあったのかもしれないと思わせる情景が広がっていく。
奈津が佐伯の家に嫁いでから十余年。時代は「日中戦争」を経て「太平洋戦争(大東和戦争)」へ突入していき、酒蔵もひとり、またひとり兵隊としてとられ、ついには奈津の夫・善造にも赤紙(召集令状)が届く。酒を作る「蔵人」が多く駆り出されていく中、佐伯酒蔵の火を消さず、支え続けていたのは、奈津をはじめとする「女性たち」の力だった。「人手不足」を理由に、かつて奈津を阻んだ「女のけがれ」の迷信が消えていく。それは奈津にとっても、佐伯の蔵で働く多くのものにとっても感慨無量なものがあっただろう。
だが奈津の運命はこの戦争中に幾度かの分岐点を迎える。愛する人たちとの残酷な別れ。神ならぬ身の人の力が、世界を動かす大きな力に抗える術もなく。多くの親しい人たちが、暴虐ともいうべき力の前に倒れていった。本当にひどい時代だったと思うが、この時代を生き、そして時代を超えていった人たち(特に女性)の生き様を、この作品でじっくり味わってもらうのも良いかと思う。
本作品では、かつての『夏子の酒』のなかで「アル添、三増酒」という酒とは言えない酒を造っていた「黒岩酒蔵」が、当時の佐伯酒蔵の「月の露」よりも一段と優れた「桃娘」を作っていたことをお耳に入れていきたい。ファンなら必見の内容となっている。