結婚式の最中に新郎に逃げられた主人公が、相手を忘却するために美食の道へと足を踏み入れる忘却グルメ漫画。佐々木幸子は出版社で文芸誌を担当している編集者。ある時旅先で出会った3つ年上の会社員の俊吾と2年交際し、結婚をすることになった。披露宴の最中、お色直しをして会場に戻った幸子だったが、新郎席はもぬけの殻。謝罪の一文を書いた紙を残し、俊吾は姿を消してしまう。改めて俊吾への気持ちを自覚した幸子は、一軒の食堂に入るのだった。2018年テレビドラマ化。
幸子は同僚たちが「誰も恋人がいることを想像できなかった」と囁き合うほど仕事を真面目にこなす女性である。そんな真面目な姿勢と乏しい表情筋、感情の起伏があまりないところから「鉄の女」と呼ばれているのだろう。新郎に逃げられてしまった結婚式を、淡々と謝罪をして締めくくる姿には、痛ましさではなく驚愕してしまうが。そんな、曲がり角は角に合わせて直角に曲がるくらいの幸子の感情と表情が大きく変わる瞬間がある。美味しいものを食べた時だ。美味しいものを食べているときは、悩みからも苦しみからも解放される。幸子の菩薩のような表情が、美味しい物がもたらす効果を物語っているだろう。恋を忘れるには新たな恋という。美食に恋した幸子の道は始まったばかりだ。
10年以上交際していた恋人に突然別れを告げられた主人公が贅沢を勧められ、一人で入った高級寿司店にドハマりし、様々な寿司店を食べ歩いていくおひとり様寿司グルメ漫画。伊崎藍子は10年以上交際している恋人との結婚を考えていたが、ある日突然振られてしまう。後輩に「失恋は贅沢するチャンス」と言われた藍子は、取引先の子安宝に贅沢なことを訊ねてみたところ、鮨だと返される。会社近くの寿司店が気になっていた藍子は、子安の言葉をきっかけに暖簾をくぐるのだった。
誕生日や記念日に食べる料理のひとつが寿司だろう。シンプルなだけに、素材と料理人の腕が物を言う。世の中に寿司店は数多くあるが、回転寿司を思い浮かべる人が多いだろう。所謂「回らない寿司」である寿司店は、頑固な職人がいて値段がべらぼうに高いというイメージがある。要はとてもお店に入りにくい。藍子がお店に入るまでに躊躇っていた気持ちを、多くの読者が理解できるだろう。本作に登場する寿司店は、実在するお店である。藍子が驚愕し、衝撃を受けたあの味を、自分も体験できるというわけだ。ひとり寿司、かなりハードルが高い気がするが、美味しいものを作る人、それを食べる人が対面しているだけともいえる。じっくり寿司という料理と向き合える、最高の形なのかもしれない。
妻と2人の子どもと暮らす、商社で営業を担当するサラリーマンの主人公が、よい仕事をするために良い昼飯を食べることをモットーとして掲げ、食べ歩く昼飯グルメ漫画。野原ひろしは愛する妻と2人の子を持つサラリーマン。その日ひろしは、妻みさえと喧嘩をしてしまい朝ごはんが食べられず、空腹だった。こういう日はカツ丼、と店を探したひろしは、安心のチェーン店か個人のそば屋か、究極の二択を迫られるのだった。原作、原案は臼井儀人の漫画『クレヨンしんちゃん』。
幼稚園児を主人公とした漫画作品『クレヨンしんちゃん』のスピンオフ作品である。主人公は野原しんのすけの父、ひろし。子煩悩でお人好しな「父ちゃん」の日常を垣間見ることができる。商社で営業を担当しているひろしは、外で昼食を食べることが多い。初めての土地でも自身の体調と財布を考慮したメニューを的確に判断し、速やかに店を探すという姿勢に、昼飯に対する強いこだわりを感じる。1話ではカツ丼を食べていたが、セットで付けられるミニざるそばのあまりの量の多さに驚いていた。出されたものは残さず食べるという姿勢はとても好感を持てる。父としても尊敬できる人物であるが、サラリーマンひろしの言葉が心に響く。美味しい昼食を食べるところから、真似してみたい。
ごはんを食べることを常に考えている冴えないサラリーマンの主人公が、空腹から満たされる様々な場面を描く日常飯テロ漫画。とある会社に勤務する飯沼は、ぼーっとした冴えないサラリーマン。上司からは「めしぬま」と呼ばれてしまうことも。ある日納品先からの苦情を対応することになった飯沼は、仕事に追われ昼食を食べ損なってしまう。空腹のまま街を歩いていた飯沼は、がっつりしたものが食べたいと一軒の店に入る。出されたカツ丼を食べ、恍惚の表情を見せるのだった。
グルメ漫画は料理の美味しさを伝えてくれる。どのような味なのか、触感は、温かいのか冷たいのか。情報を読者に伝えようと、絵と言葉を尽くし表現するのだ。読者はそれを読み、このような味だろうと認識する。本作はそういったグルメ漫画とは違った方向から「食べること」を楽しむ作品だろう。何せ主人公である飯沼は語らない。味を伝えるようなコメントはほぼ無いのである。しかし、食べているものがどれくらい美味しいか、読者は瞬時に理解するだろう。顔は言葉よりも雄弁に語るものだ。食事をしている時の飯沼の表情は、言葉以上に料理の魅力を伝えてくれる。淡々と食事をする飯沼を見ていると、とにかくお腹がすく。美味しいものを美味しく食べている人の存在が飯テロには欠かせない。
食べることに対して一家言を持つベテランの探偵である主人公が、食事を通して依頼に関する謎を見通していく美食ミステリ。宇田川探偵事務所の所長を務める宇田川乱歩は、長年探偵業を続けてきたベテラン。ある日浮気調査を依頼された宇田川は、依頼費用とは別に一食分の食事代を経費として計上させてほしいと依頼人に告げる。自身の信念のもと、新人アルバイトの明石智子と共に依頼人を尾行する宇田川。依頼人の夫は1人の女性と共に、一軒の店へと入っていくのだった。
宇田川はベテランの探偵である。冒頭のあんパンと牛乳の件を見ても、己の探偵としての姿にポリシーを持っていることがわかる。探偵業はロマンに溢れていそうだが、実際は浮気調査や人探しなど、地道な調査が物を言うことも多い。どんな依頼でもダンディズムを意識してこなす宇田川は、己の美学を確立していると言えるだろう。そんな宇田川は、食事に対するある信念を持っている。「食事は嘘をつかない」。一見するとカッコいいだけの言葉なのだが、宇田川の仕事風景を見ていると理解するだろう。どんな料理の店を選んだか、雰囲気や表情から関係性がわかってしまう。観察対象が自分だったら、と思うと少し恐ろしい。食事を楽しみながら名推理を披露する宇田川、只者ではない。